第3話 三河岡崎と尾張緒川

「これにて、岡崎とは手切れといたす!」


 先代・水野忠政が亡くなり、新当主となった若き水野下野守の透き通るような声に藤九郎らは肩を跳ねさせた。


「兄上、まことに岡崎の松平とは手を切ると……?」


「清六郎、言うたであろうが。あやつらは我らが道理を説いて分かる頭は持ちあわせておらなんだ」


「まぁ、それは否定しませぬが……」


 清六郎忠守はそれ以上何も言わなかった。いまだ十九歳の彼に、腹違いの兄を説き伏せる妙案は思い浮かばない。


 何より、彼も於大の方と同じく水野忠政の継室・華陽院けよういんの子。母を同じくする妹の人生が、本人の意思とかかわりないところで決まっていく。それに兄として何もしてやれぬことが口惜しいことこの上なかった。


 先ほど意見を求められた時、離縁に賛同したのは水野の家を思えば正しい判断であると考えたがゆえ。しかし、妹を思う兄としては、賛同するべきではなかった。


 すぐ隣で悔しさを滲ませる清六郎を見て、中山五郎左衛門が見上げる形で新当主と目線を合わせる。


「若殿、当家が抱える敵について、お教えくださいませ」


「当家が抱える敵……じゃと?五郎左衛門、何がいいたい」


 せっかくまとまりかけた場をかき乱そうとする中山五郎左衛門の発言に、神経を逆なでされた信元は、片膝ついて五郎左衛門を睨みつけた。その眼力に負けまいと、五郎左衛門は考えを具申する。


「若殿は岡崎の松平とは手を切るとおっしゃられた。すなわち、新たに敵を作ると言わっしゃる」


「おう、敵を増やす前に一度、我らが抱える敵について思い返してみよ、というわけか」


「御明察のとおり。さすがは若殿にござりまする」


「ふん、回りくどいことを言うやつだ」


 中山五郎左衛門は清六郎忠守を庇った。しかし、彼が守ろうとしたのは一人だけではない。それは相婿の間柄にある松平広忠の方であり、妻の姉妹である於大の方であったのだ。


 しかし、改めて状況を見つめ直すよう働きかける中山五郎左衛門の言葉に、信元は心中では心底より感謝していた。


 目下、水野信元は知多郡の制圧を目指し、軍事行動を起こそうと目論んでいる。富貴城主の戸田法雲ら戸田氏をはじめ、知多郡宮津城主・新海淳尚、成岩城主・榎本了円、長尾城主・岩田安広など、切り従えなければならない勢力は多い。


 さらには、常滑水野氏三代目の水野守隆には娘を嫁がせることで緒川・常滑両水野氏の関係を強化し、知多半島の横断路を掌握することも考えている信元。


 そこまで考えれば、中山五郎左衛門が言わんとしていることは手に取るように分かる。今、ただちに於大の方を離縁させ、岡崎の松平広忠と決裂した場合、知多郡にばかり目を向けていられなくなる。そうなれば本末転倒であった。


「五郎左衛門、そなたのおかげで冷静な対応が取れそうだ」


「それはようござりました」


 ニコリと微笑をたたえ、深々とお辞儀をする中山五郎左衛門。その様子に、水野清六郎は感謝の念を抱いた。そして、自分もこうして兄を説得できるだけの口と頭を持たなければと憧れすら抱いていたのだ。


「藤九郎、清六郎。ひとまず、於大の離縁は決定だが、今しばらく時期を見る必要がある。藤九郎は引き続き苅谷にてしかと岡崎に目を光らせておけ」


「委細承知!」


「清六郎、そして五郎左衛門。軍議を開くゆえ、稲生政勝、梶川秀盛らを招集せよ」


「しょ、承知しました」


「御意!」


 こうして新体制のもと、緒川・苅谷の両水野氏は行動を開始した。そして、水野家は於大の方と離縁するつもりであることを知らない広忠はといえば。


「とと様」


「おお、竹千代!それに、於大も来たか」


 天文十二年八月のある日。昼間の猛暑が未だ残る夕刻に、正室・於大の方と嫡男・竹千代が書院を訪れていた。


「殿、何やら書状をお書きとみえまするが……」


「うん?ああ、内藤甚三へ宛てて判物を書いておったところよ」


「確か、松平蔵人殿の御家来でありましたか」


「ほう、詳しいな。うむ、その内藤甚三が当家へ付くと申してきよった」


 内藤甚三。信孝が岡崎城を追われる際、不安げな様子でありながらも付き従っていた男である。そんな彼は碧海郡鷹落と幡豆郡野羽を領しているのだが、ついに阿部大蔵の勧誘に応じて広忠方へ付くことに決めたものであった。


「それはそれは、喜ばしい事でございましたなぁ」


「うむ、阿部大蔵が示した通りに知行を加増し、給地も末代まで保証すると書き記しておいた」


「それで、ちょうど阿部大蔵にこの書状を託し、仔細を申し伝えさせようとしておったところじゃ――と申したいのでしょう」


「こ、心を読んだな。まったく、そなたには隠し事はできんな!ハハハ……!」


 広忠が笑い、つられるように於大の方も笑う。その傍らでハイハイを試みる竹千代。なんと微笑ましい光景であることか。


 現在、広忠は松平蔵人信孝の居城・三木城を攻撃中。そんな折、信孝の家臣である内藤甚三忠郷の調略が成功したのは大きな意味を持つ。


「このまま三木城も陥落と相成れば万々歳にございますなぁ」


「うむ。ただ、当家の方針に合点が参らぬ者も数多おる。課題は山積みじゃ」


 ここのところ、あまり眠れていないのか、広忠の眼の下にはクマができている。そのことに気づかぬ於大の方ではなく、話もほどほどにして、少しでも夫が休める時間を作ろうとする。


「於大。近ごろ、水野家より報せなどは届いておらぬか?」


「先月、父が亡くなったことを受け、兄の下野守が家督を継承したと報せがあったきりにござりまする」


 父が亡くなったとはいえ、葬儀に参列することもできずの於大の方。


 彼女としては大好きな父に、亡くなる前にせめて一目会いたかったと心中では悔やんでいる。しかし、そのようなことはおくびにも出さず、どこまでも夫を支える妻として接していくのであった。


「左様か。信孝叔父上を追い詰めれば、何か動きがあると踏んでいたのだが、これは当てが外れたか……?」


「目下、兄の目は知多郡から離れることはないかと思いまするが」


「そう……じゃな。聞くところによると、秋には知多郡の方へ出兵するそうな。今のうちに、信孝叔父上の件を片付けるべきか……。よし、於大のおかげで考えもまとまった。そなた、伯母上のもとで竹千代を遊ばせてくるがよい」


「はい、そういたします。では、あなた様。くれぐれもご無理なさらず」


 床に手をつき、一礼。品のある仕草で立ち上がった於大の方は、竹千代を伴い書院から下がっていく。


 ちなみに、広忠が言う伯母上とは、随念院ずいねんいんのことである。彼女は実名を久といい、広忠の父・清康の姉にあたる女性なのだ。すなわち、竹千代から見れば大伯母にあたることになる。


 そんな随念院は弟である松平清康の養女となり、大給松平乗勝のりかつへ嫁いだ。乗勝と死別すると足助鱸氏に再嫁した。


 しかし、広忠の父・清康が守山崩れにて死去すると、足助鱸氏は松平家から離反するにあたって彼女を離縁したのだ。そうして彼女――随念院は岡崎城へ戻された。


 一人目の夫とは死別し、弟が亡くなった影響で二人目の夫とは離縁。政治的な状況に振り回された、乱世の被害者の一人といっても良かろう。


 随念院が最初に嫁いだ大給松平家は広忠の岡崎の松平家も属していた岩津松平一族とは別に独自の歩みを経てきた松平一族。現在も当主・親乗のもとで岡崎松平家とは独立した国衆として活動していた。


 ちなみに、現当主の大給松平親乗は随念院が腹を痛めて産んだ子であり、広忠にとっては従兄にあたることも補足しておく。


 はてさて、松平広忠が松平信孝の居城である三木城を攻撃し、陥落させることに躍起になっている八月――から二度ほど月が替わった十月の三日。


 広忠のいる岡崎城とは矢作川を挟んで西側にある桜井城にて、桜井松平家当主・松平清定が息を引き取った。


 ただ桜井松平家の当主が亡くなっただけといえば、それまでの話。だが、この死は水野信元にとって、まさしく青天の霹靂の報せであった。


「なにっ!?き、清定殿が亡くなったじゃと……!?」


「はっ、家督は嫡男、松平家次殿が継承したとのこと」


「報せ大儀!」


 苛立ちを吐き捨てるような口調の水野下野。全身から苛立ちをにじませる彼の元へ、弟の伝兵衛近信が訪れる。


「兄上、そのように苛立っておられるのは桜井松平のことで?」


「おう、こんな時に清定殿が逝ってしまわれたんじゃ。そりゃあ、動揺せずにはおれぬわ」


 なにゆえ、水野下野がこうまで焦燥感をむき出しにしているのか。それは彼の妻は桜井松平信定の娘、つまりは亡くなった清定の妹にあたるから、というだけではない。


 亡くなった清定の妻は尾張の虎こと織田信秀の妹。すなわち、桜井松平家の当主の死は水野家と織田家をつなぐ存在が消滅したに等しい。


「兄上、織田家との関係は即座に断交となるものではござりませんぞ」


「それもそうなのじゃが、うかうかしてもおれぬ」


「ひとまず、すでに戦端を開いた知多郡の戦を決着させましょうぞ。織田家とのことはそのあとにじっくりと」


「まぁ、こんなところでうじうじ悩んでも解決せぬでな。よし、伝兵衛の言う通り、まずは知多郡を切り取って参ろうぞ」


 こうして普段の調子を取り戻した水野下野は知多郡の制圧に向けて、意識も思考も動員していく。


 そして、この年のうちに降伏勧告を断った知多郡宮津城主の新海淳尚を討ち、成岩城の榎本了円を滅ぼす。さらには今川家に援軍を求めていた知多郡長尾城主・岩田安広も降伏させるのであった。


 着々と知多郡を制圧する水野下野は新海淳尚の宮津城を廃し、亀崎城を築城。城主には稲生政勝を据え、岩滑城に中山五郎左衛門勝時を入れた。また、榎本了円を滅ぼした後の成岩城主に横根城より水野家臣・梶川秀盛を守将として籠める。


 家督を継承して早々、地盤を固めながらも貪欲に勢力を拡大していく。そんな彼は明けて天文十三年、分流である常滑水野氏3代目の水野守隆には娘を嫁がせ、半島横断路を掌握。


 勢いに乗る水野下野は矛先を戸田氏へ転換。富貴城主の戸田法雲を攻略し、河和の戸田氏を攻略するため、布土城を築き、於大の方にとって同母弟にあたる水野藤次郎を幼少ではあるが城主の任に当たらせた。


 この勢いに押された戸田氏は徐々に知多半島における勢力を衰退させていくことになる。一方、水野下野と婚姻同盟を成立させた常滑水野氏は現在の半田辺りまで勢力を伸ばし、大野・内海の佐治氏に対抗していくのであった。


 そうした水野家の動きは逐一、岡崎へも報告が入っていた。


「そうか。水野家は着々と知多郡の制圧を進めておるのか」


「ハッ、そのようにござります。されど、殿はお喜びになられませぬな」


「平八郎、左様に見えるか?わしは……ほれ、このように喜んでおる!」


 指摘されてから作った笑み。大げさに動いて喜びを表現するところに、偽りらしさが窺える。


「先日、阿部大蔵とも話したのでござりますが、水野の動きには注視するべきである、と」


「されど、水野は同盟相手。苦戦しておるならいざ知らず、手際よく領土を拡げていく様は実に頼もしい。疑うあまり、味方を敵と見間違えてはならぬ」


 本多平八郎忠豊の水野を警戒するべきとの言葉は、広忠には届かなかった。少なからず、本多平八郎はそう感じ取ってしまう広忠の返答。


 しかし、心の内では違った。信孝を排斥した以上、同じ方針をとり続けるわけにはいかないと考えている広忠にとって、本多平八郎の言葉には深く刺さるものがあった。


 今後、岡崎松平家の当主として選ぶべき道は――


 本多平八郎が離席してしばらく後。広忠が一人でうんうん唸っているところへ、思いがけず来客があった。


 それを取り次いできたのは酒井左衛門尉さえもんのじょう忠次。この天文十三年において、十八歳となった才ある若き家臣である。


 この酒井左衛門尉こそ、徳川四天王に数えられる酒井忠次なのである。この頃は主君・広忠に仕える若き譜代家臣の一人に過ぎなかった。


「左衛門尉、誰ぞ参ったか」


「道閲入道様がお越しにございます。まもなく付き人に背負われ、これへ参られます」


「おおっ、そうか」


 松平長親――隠居後は道閲と号している広忠の曾祖父。連歌などの教養にも秀で、普段は二の丸で歌を詠んでばかりの老人が、わざわざ広忠のいる本丸までやって来る。


 一体、何事かと身構える広忠であったが、別段家の方針に口を出されるわけではなかった。当人曰く、共に歌を詠み、風情ある一時を過ごしたかっただけなのだという。


 そんな曾祖父・道閲入道は、その年の八月二十二日。夏も終わりに向かおうとしている中、広忠ら一族が見守る中、静かに息を引き取った。享年九十歳。

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