第5話 母のことはままならぬ

 広忠と於大の方が離縁した天文十三年より明けて、天文十四年。竹千代も四歳となった年の正月。


 年賀に登城してきた家臣たちより挨拶を受け終わった広間にて、広忠は竹千代と戯れていた。仕事終わりに我が子と遊ぶ至福の一時。しかし、抜けてしまった穴は大きく、堀を埋め立てるよりも難しいものがあった。


「広忠殿」


 そんな折、広忠と竹千代の元へやって来たのは広忠の伯母であり、竹千代の養育にあたっている随念院。


「おお、伯母上。そろそろ竹千代の手習いが始まる頃合いでしたな」


「ええ。ですが、その前に広忠殿にお話しが」


 広忠の目の前で正座し、向き合う姿勢をとる随念院を見て、広忠は長話になることを直感した。


「話……にござりますか?」


「いよいよ、明後日には戸田弾正とだ だんじょう様ご息女・真喜姫まきひめさまの輿入れにございましょう。お支度はもちろん済んでおりましょうなぁ?」


「其は無論のこと。当家と戸田との対水野の同盟を結ぶにあたって、粗末にはしてはならぬ支度ですからな」


 於大の方との離縁により、知多半島の平定を目指す水野下野と敵対している広忠にとって、知多半島で同じく水野家と争っている田原戸田氏との同盟は互いに益のある話。


 この婚姻同盟が成立すれば松平・田原戸田と水野・牛久保牧野の対立構図が成立する。松平の独力では抗しがたい強敵、水野家とも戦いやすくなるというもの。そう思い、当主・広忠は同盟を決断したのだ。


「それはようございました」


「伯母上がそうまでに心に懸いておられたとは知りませなんだ」


「なんのなんの、老婆心ながら可愛い甥っ子とその子の行く末を案じておったまでのこと」


 上品に笑う随念院は、広忠の答えを聞いて安心したのか、先ほどよりも和らいだ様子で広間より立ち去る。もちろん、竹千代も連れたうえで、であるが。


「ただ一つ、懸念しておるのはその姫と竹千代が仲良くやれるか、ということなのじゃが」


 近ごろ、動き回ることの増えた竹千代。しかし、命令口調で伝えると「いや!」と申したり、様々なことを自分でしたがるようになってきた。


「のう、於大……竹千代は元気に育っておるぞ」


 廊下を随念院に手を引かれて歩いて行く竹千代を見やりながら、昨年苅谷へと戻っていった妻の名を、名残惜しげに口にする広忠。


 今は岡崎城にはおらぬ妻との間に生まれた竹千代と、真喜姫は上手くやれるであろうか。そう、父・広忠は悩んでいるのである。


 まだ四歳になったばかりの竹千代すらも、このような政治に振り回されてしまうのは何とも不憫であった。


 ともあれ、広忠が竹千代と真喜姫と上手くやれるかどうかを案じているなど誰も知ることはなく、戸田弾正宗光の娘・真喜姫が輿入れしてくる当日を迎えた。


 夜。花嫁である真喜姫の乗った輿をはじめ、花嫁の行列が嫁入り道具の品々とともに岡崎へ到着。松平・戸田、双方の引出物が積み上げられ、受け渡しの挨拶が丁重に済まされていく。


 嫁入り道具は貝桶、厨子棚、担唐櫃にないからびつ、長櫃、長持、屏風箱、行器ほかいなどなど、豪華に揃えられていた。


 貝桶の中には貝合せの貝が二つの亀甲型の箱に納められており、これは夫婦和合を象徴するもの。そのような品々であるため、婚礼の儀において欠かせないものなのである。


 そして、唐櫃や長櫃などの中には花嫁衣装や化粧道具、調度といったものが納められている。


 輿から白く細長い手が伸び、侍女らに手を引かれながら降りて来た女性こそ、真喜姫である。いかにも箱入り娘といった色白の姫君であり、すらりと伸びた背筋、何気ない所作から美しさがにじみ出ていた。


 真喜姫はなよめは化粧の間――要するに控え室へと案内されていく。その後、着替えが済むと広間の設けの席へと通される。


 初めて訪れる城であり、これから妻として住まうことになる城だということを意識しているのか、表情は強張ったままである。


 祝言の席といっても親族など他の人が列席しているわけではなく、この場にいるのは花嫁である真喜姫と侍女臈のほか酌・給仕を努める侍女が数名のみ。


 見知った顔も少なく落ち着かないのか、緊張した面持ちで広間を見回す真喜姫。そこへ、松平の使いが到着。曰く、まもなく広忠が渡ってくる、とのことであった。


 どのようなお人であろうか、胸が高鳴る真喜姫のもとへ、白直垂姿の松平広忠が入室。その後ろには太刀持ちの小姓を一人従えているのみである。かくして岡崎城の本丸において花婿と花嫁は初めての対面を果たした。


「おことが姫か」


「は、はい。真喜にござりまする」


 於大の方との祝言を経験していることもあり、緊張の色が見えない広忠に対し、話そうとして噛んでしまう真喜姫。


「わしが広忠じゃ。遠路、疲れたことであろう」


「は、はい――いえ、疲れたなどということは」


「ははは、そう気を張らずともよい。この岡崎城は本日より姫の家でもあるのじゃ。田原の城のようにとはいかずとも、ごゆるりとなされよ」


 広忠は魅力的な笑みを浮かべながら、真喜姫と談笑する。だが、広忠への警戒心が解けつつあるとはいえ、嫁ぎ先の城という空間が真喜姫が緊張を解くことを許さなかった。


「幾久しく、お目かけ下さりませ」


「うむ、わしからも幾久しく頼む」


 真喜姫は広忠が噂通りの御仁であることに安堵しつつ、これからどのような生活になるのか、心配や不安といった感情にワクワクする感情を加え、正負入り混じった心持ちでいる。


 だが、姫が不安に感じて表情が硬いままであることを、広忠は気にかけていた。ゆえに、少しでも姫の表情が和らぐよう、円滑な意思疎通を図っていった。


 こうして、祝言の儀式は進んでいき、終わりを迎えた。その後は身を清めたうえで広忠と真喜姫は寝所に入っていく。広忠の左に敷かれた布団に真喜姫が入り、夜を明かした。


 そうして祝言翌日まで白装束で過ごした広忠と真喜姫は、三日目にして色柄の着物に改める、俗にいう色直しを済ませた。


「真喜。この方は我が伯母、随念院じゃ」


「真喜にござりまする。以後、よろしゅうお頼み申します」


「このような老婆に過分な礼を、痛み入ります」


 色直しが済んだあとは花婿、すなわち広忠の親族らと再会することになる。といっても、真喜姫から見ての舅や姑にあたる人物はおらず、この岡崎城において親族と呼べるのは広忠の伯母にあたる随念院と竹千代のみであった。


「そして、この子が竹千代じゃ。ほれ、竹千代。挨拶いたせ」


「は、ははうえ。たけちよにごじゃります」


「まぁ、可愛らしいこと……!」


 何度も随念院に復唱させられたのか、真喜姫のことを母上と呼び、自分の名前も何とか口にすることができていた。


 子供が頑張って話している様は母性本能をくすぐるというが、今の真喜姫はまさしくそれであった。しかし、竹千代からすれば真喜姫は初めて会った女性。口では母上と呼べても、心の底から母と認識しているわけではなかった。


 真喜姫がらうたげなる竹千代に心動かされたとしても、当の竹千代は恥ずかしいのか、すぐに随念院の後ろに隠れてしまった。


 そんな竹千代の様子に、目に見えて落ち込む真喜姫。そんな彼女に、広忠も随念院も慰めの言葉をかけていく。


「真喜姫様……いいえ、奥方さま。わらわも竹千代が心を開いてくれるまで、時を要しました。一度きりでめげず、何度もあたることこそ肝要ですぞ」


「お言葉、この胸にしかと刻んでおきまする」


 丁寧に手をつき、随念院に頭を下げる真喜姫。そんな彼女が面をあげると、随念院の背後から顔だけ見せながらも、不安げな眼差しで見つめる竹千代と視線が合った。


 まだ幼い竹千代の不安げな面持ちに、これからの生活で不安を感じているのは自分だけではないのだと真喜姫は感じ取った。むしろ、自分が不安に感じていることを、子供というものは敏感に感じ取ったのかもしれない。


 そうした小さな気づきを得ながら、真喜姫は夫・広忠、竹千代、随念院らとの穏やかな一時を過ごした。


「そうじゃ、真喜姫は知っておるか。享禄二年にそなたの父はわしの父に会うたことがあるそうじゃぞ」


「ええ、父・弾正より耳に胼胝ができるほど伺っております。先代の清康公は東三河まで勢力を拡大し、尾張にまで侵攻した立派な武士であったと」


「そうかそうか、すでに聞き及んでおったか。そなたが知らなんだら、父の武勇伝を語ろうと思ったのじゃが」


「これこれ、広忠殿。人の褌で相撲を取ってはなりませぬぞ」


 随念院の一言に真喜姫はくすりと笑みを浮かべる。その様子は体内に充満した不安や緊張といったものが、外へ漏れ出たようであった。


「でかした、伯母上。真喜姫が笑うたぞ!」


「も、申し訳ござりませぬ。人前でこのような、はしたない……」


「よいよい、家族の前ではしたないもくそもないわ。恥なんぞ岡崎城で存分にかき捨てるがよいぞ。なにせ、そなたが一つ恥をかく間に、この広忠は二つ三つと恥をかくゆえな!」


 当主だとか夫だとかの威厳のない、言葉通り飾り気のない言葉に、すっかり緊張がほぐれ、岡崎での新婚生活を上手くやっていけそうな気がする真喜姫なのであった。


 ――真喜姫が広忠らと打ち解けていく中、田原戸田家から戸田弾正宗光の娘・真喜姫が松平広忠の正室として迎えられたことは周辺の国衆らに影響を及ぼしていく。


 まず、松平蔵人信孝は外交方針が一変したことを受け、改めて広忠や阿部大蔵をはじめとする重臣らは自分を戻す気がないことを改めて痛感させられる痛恨事となっていた。


 そして、田原の戸田家と領土争いを続けている水野・牧野の両氏にとっても松平と戸田の婚姻同盟は由々しき事態であった。


 ……広忠ら岡崎の松平家が現在の勢力を維持することができたならば、の話であるが。


「なに、信孝叔父上と上野の酒井将監が織田信秀と結んだと――!?」


「はっ、桜井松平も同調する動きを見せており、いつ戦を仕掛けて参ってもおかしくありませぬ」


「うぬっ、ここで水野ではなく、織田と手を結ぶとは思わなんだ……」


「どうせ、水野下野の入れ知恵でしょうな。当家だけでなく、織田に助勢を仰いでみてはいかがであろうか、などとぬかしておるのが目に浮かぶようじゃ」


 報せを持ってきたのは阿部大蔵。そんな阿部大蔵が水野下野の愚痴を吐く間、広忠の顔には焦りが沸々と湧き始めていた。


「殿!」


「おお、平八郎ではないか。いかがした?」


「はっ、由々しき仕儀が……」


 阿部大蔵からの報せだけでも苛立っている広忠にとって、ここで言葉を濁す本多平八郎の態度は、火に油を注ぐようなものであった。


「忠豊!早う申さぬか!」


「ははっ、然らば申し上げまする!松平蔵人、駿河の今川義元にも助勢を求めておる由!」


 ――松平蔵人信孝が駿河の今川にも助勢を求めている。


 さすがに広忠も、本多平八郎の口から飛び出した内容に、仰天せずにはいられなかった。


「平八郎!信孝叔父上が今川とも提携しようとしているというのは真か!真のことなのか!?」


「殿、落ち着きなされ!尾張の織田も駿河の今川も、こちらに回せるほどな兵力はありますまい」


 西の織田、東の今川からの挟撃を受ける可能性を叩きつけられた広忠は錯乱しかけていた。それを必死に抱き留めるのは阿部大蔵。


「殿!大丈夫にござりまするか……!?」


「殿!」


「う、うむ。大事ない。して、大蔵よ。続きを申せ。こちらに回せるほどの兵力はないとは、どういうことじゃ」


 阿部大蔵が言うには、織田信秀は昨年九月二十二日の美濃国加納口の戦いで斎藤利政の巧みな用兵を前に弟や家老らが討ち死にし、命からがら逃げ帰る有様。その敗戦の傷が癒えぬうちは動くことはないであろう、と。


 続けて、今川義元はといえば遡ること八年前。北条氏綱により富士川以東の地域、すなわち河東を占領されたままであることを要因として挙げた。


「なるほど。つまり、片や美濃で手傷を追った尾張の虎。片や室町幕府より駿河守護に任じられていながら駿河東部を北条に占領されたままの海道一の弓取り……」


「ええ。この情勢で、三河に目を向ける余力などありますまい」


「よし、阿部大蔵の言葉を聞き、広忠安堵した。ならば、今のうちに我らが成すべきは織田と今川の傷が癒えるまでに家中を統一しておくことであるな」


「おっしゃる通りにございます。焦眉の急は松平蔵人を亡き者とすることにございましょう」


 阿部大蔵の言葉に力強くうなずく広忠。気力が回復し、平常心を取り戻した彼が動き出そうとした矢先、またしても岡崎に危機を知らせる緊急事態が舞い込んでくるのであった。

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