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あたしは、リアルの友人知人に明かしていないTwitterのアカウントを持っている。あたしの人間関係の範囲なんてたかが知れているけれど、それでも顔と名前を知っている相手には明かせないような黒い部分、同時に明るい部分を晒すことができるのは、そのアカウントで呟く全角140文字のテキストボックスだけだった。
受験生であることと、住んでいる都道府県と志望大学しか明かしていなかったが、あたしにはそんな電子の海原で繋がった仲間がいた。たとえ通っている高校や志望校が違えども、あたしと同じように、辛い大学受験という時期を乗り越えんとする同級生がいる。そう思うだけで、気持ちがすっと軽くなってゆく。
同じ学校の同級生はほとんどが面接のみの推薦入試で合格を決めてしまって、大学入学共通テストを受けなければいけない生徒はあたししか居なかった。いつまで独りぼっちで耐え凌げばいいんだろう……と辛くなって駆け込んだのが、相手の顔も本名もわからない、ネットの世界だった。学校や勉強にかかわる愚痴だったり、なんでもない日常の話をやりとりしながら、毎日を過ごした。
その中でもひとり、あたしの呟きに一番親身になって応えてくれた人がいた。普段から一緒にいるわけじゃないのに、不思議とその人はあたしが今どんなことで悩んでいるのか、何に怒っているのか、何に喜びを感じているのか……ということを、まるで手に取るように理解していた。いつも、その瞬間にあたしが一番欲しい言葉をくれる存在が、その人だった。
たとえ恋人じゃなくても、そんな存在がひとりいるというだけでも、胸があたたかくて、嬉しくて、心強かった。結局はいつも唇から零れ出る言葉は全部強がりでしかなくて、あたしは結局のところ、誰かと繋がっていたかったのだと気づかされた。
あたしより何倍も偏差値が上の高校に通っているはずなのに、この人はどうして「できない奴」の気持ちがわかるのだろう。そう感じて、その人に一度会ってみたいと思ったこともあった。しかし、実際には叶うことがないまま、時だけが過ぎていった。
そしてあたしは、一度でいいからあの人に無理矢理にでも会っておけばよかった……と後悔することになる。
家に大学から合格通知が送られてきて間もなく、その人からのメッセージは、プツリと途絶えた。最後にあたしがその人から受け取ったメッセージは、あたしの大学合格を心から祝福する内容だ。思わずスクリーンショットまで撮ってしまったほど、飛び上がって喜んだ。他の誰に言われた「おめでとう」より、心が動いた。誰よりもあたしの悩みを聴いてくれて、誰よりも共感してくれた人の言葉だったからだ。
その人がTwitterのアカウントを削除したのは、そのメッセージが送られた二日後の話だった。メッセージまで道連れにして消えてしまったから、この時ばかりは(たまにはいいことするな)と自分を褒めてやったのは言うまでもない。
でも、どうしてあたしにすら何も言わずにいなくなってしまったのか。
その出来事だけがどこか「しこり」のようになって残っていたのだけど、そこからは怒涛のように訪れた入学手続きや引越し手続きのラッシュで、気づいたら卒業式の当日を迎えていた。
今更どうすることもできない話を思い出してしまうことほど、辛いことはない。どっかの頭がいい人たちで、こういうフラッシュバックを防ぐ薬をつくってくれればいいのに。
あたしには無理。行くの、社会学部だし。
***
在校生がチョークで彩った黒板には「卒業おめでとう」の文字が躍っている。別にめでたくはない、という気持ちと、やっとここから脱け出せる……と思えばおめでたいかも、という気持ち。三年間の懲役が終わったという意味では、確かにおめでたいのかもしれない。シャバの空気が美味そうだ。
クラスメイトの女子たちは肩を寄せ合って、卒業アルバムに寄せ書きをしたり、オイオイ泣いている子までいる。なぜ泣けるのか。会いたいなら卒業後にも予定を合わせて会えばいい。そこまでしたくないけど関係は保ちたい、とかいうやつなのだろうか。どのみち友情にも愛情にもそっぽを向いてゴールテープを切ったあたしには理解のできない領域だった。
「それでは、さっきの式では代表者のみだったので、これから一人ずつに卒業証書を渡します」
担任の
ぼんやりと窓の外を眺めながら、耳に入ってくる佐々木先生のコメントを聴いていた。ちゃんと一人ひとりの、日常の中で目に留まったエピソードを語っている。
事務的にポンポン渡してくれれば早く帰れるのに。むしろ早く帰りたいのに。
自分の番がやってくるのはまだ先になると思ったあたしは、個人写真以外は自分がほぼまともに写っていないアルバムをめくりながら、その時を待った。
「
もう何回目だアルバム見返すの……と半ばイライラし始めたころ、ようやくあたしの名前が呼ばれる。一人で時間を潰すのが得意なあたしでさえもこの調子なので、もうクラスの中はほとんど普段の休み時間と変わらない様相を呈している。
まあがんばんなよ。あたしの後に残るは、あと三人だ。その間に好きなだけ親睦深めときなよ。どうせ大半の人間とは、これっきりで終わるんだから。
背中のざわめきにそんなことを思いながら、教壇の前に立つ。女性の先生って大変だよね。男性教師みたいにスーツじゃなくて、たいていは袴着るもん。
いま目の前にいる佐々木先生もまた、例外ではなかった。
蓮澤水穂、高等学校の課程を卒業したことを証する……と佐々木先生は卒業証書を読み上げ、向きをくるりと変えて、こちらに差し出してくる。
そして清涼飲料水のCMみたいな笑顔で、一言。
「おめでとう。”ろーたす”さん」
それ自体が不協和音だったのか、別に何かが鳴り響いたのかがわからない。頭を殴られたみたいな、くらくらする感覚を味わった。ガヤガヤと騒がしい教室の中で、明らかな指向性を持って、佐々木先生の言葉があたしの脳天に飛び込んできた。
とりあえず現段階で明らかになった事実は、なぜか佐々木先生が、誰も知らないはずのあたしのハンドルネームを知っている……ということだった。
あたしはすぐに二の句を告げず、証書を受け取る手も動かせなくて、硬直してしまう。でも、いつまでも地蔵みたいに固まっていると、他のクラスメイトに感づかれてしまう。聞き耳を立てられでもしたら、たまったものではない。
あたりの様子を確かめてから、あたしは声のボリュームを極限まで落として、言った。
「なんで、それを」
「お久しぶりです。……いや、リアルでは初めまして。"カンパネラ"です」
燃え盛る火に囲まれた。もしくは刃を突き付けられて、横と背後は壁。チェックメイト。
死んだ。
口には出さなかったけれど、そんな気持ちにさせられた。
カンパネラ。
突然さよならも告げずにアカウントごと消えてしまったあの人が、いま、目の前にいた。
遠いどこかに住む同級生でなく、担任教師として。
「蓮澤さん。あなたが本当に頑張っていたのを、わたしはずっと近くで見ていたんだよ。えらかったね」
驚きと喜びとその他諸々が全部混ぜこぜになって、あたしはやっと言葉を覚えた子どもみたいに、口だけをぱくぱくさせていた。それを感じ取ったのかどうかはわからないけど、佐々木先生は優しく微笑みかけてくると、そっとあたしの頭を撫でてくる。
笑いえくぼの浮かぶその表情は、いつもあたたかい言葉をかけてくれた、今まで顔も声も知らなかった「同級生」そのもののように思えた。
***
「先生」
卒業生の大半が帰ってしまった校内で、あたしは佐々木先生にもう一度話しかけるタイミングに恵まれた。というか、それを待っていた。このまま校舎を出てしまえば、あたしはもう二度とこの場所に足を運ぶことなんかない。永遠に答え合わせのできない問題を解かされるほど、辛いことはないと思ったのである。
「あら、蓮澤さん。もうみんな帰っちゃったんじゃないの?」
佐々木先生はいつも通り、穏やかな声とともに笑いかけてきた。
「どうして、先生があたしのアカウントを知っていたんですか」
「どうして、も何もなあ」
本当に怖いのは、でかい声で喚くやつじゃなく、いつもこうやって調子を崩さない人だ。その程度、たかだか十八年程度しか生きていないあたしでも知っている。
くすくすと笑う佐々木先生の次の言葉を、あたしはしっかり先生の姿を見据えたままで待っていた。しょうがないね、と言わんばかりに息をひとつ吐いた佐々木先生は、ゆっくり唇を開く。
「蓮澤さん」
「なんですか」
「あなたが、SNSに本名や通っている学校名を明かしていなかったのは評価するけれど。……でも、アップロードする写真には気を配った方がいいね。あなたが勉強するのに通っていた塾や図書館の写真、そして偶然写り込んだ、部屋のハンガーにかけていた制服。全部つなぎ合わせれば、あなたがどこに住んでいるかなんて、少し調べれば誰にでもわかってしまうものよ」
「……」
「そして、この学校の生徒であの大学を目指していたのはあなただけだった。だからわたしは、これが蓮澤さんのアカウントだって理解できたわけ。……あ、でも他の先生方には秘密にしてるから、そこは安心していいわよ」
「待ってください。それじゃ答えになってません。どうして先生が……その、生徒のSNSの監視みたいなことを」
「わたしは、プライベートで偶然見つけちゃっただけ。だいたい監視してるんなら、とっくに他の先生に話してるってば」
佐々木先生は怖い先生じゃなかったけれど、こんないたずらっ子みたいな顔をして笑っているのを見るのは、これが初めてだった。
呆気に取られていると、さらに先生は言葉を続けた。
「蓮澤さんがツイートしてた学校への愚痴や不満を読むのは、胸が痛かったけどね。でも、おかげでわたしは蓮澤さんがいま何に困っていて、何に悩んでいるのかがよくわかった。……たとえば蓮澤さん、進路指導部の教師がやたらと志望校のレベルを下げろってうるさい、って書いてたことがあったわよね」
あたしが受けたのは、そこそこ難関な大学だった。だから、一か八かで出すくらいなら安全圏で確実に合格した方が……と進路指導部の教師にクドクド言われていた時期があったのだけれど、いつかを境にそのネチネチと心理的にくる攻撃が、ピタリと止んだのを思い出す。
「じゃあ、まさか———」
「いい、蓮澤さん。ああだこうだうるさい存在を黙らせることができるのは、客観的かつ明確な、結果なの。あなたはしっかりそれを示してきたでしょう。わたしはその結果をもって、あなたにちょっと加勢しただけの話よ」
あたしはついさっきまで、今の自分が手にしている未来への切符は、自分の力で勝ち取ったものだと思っていた。実際の試験で力を尽くしたのは自分自身だし、外野から飛んでくるヤジが聞こえないように耳をふさいだのは、紛れもなく自分の手だった。
けれど、あたしはそうやって正面から向かってくるものから身を護ることで精一杯で、背後から寄ってきていたものの存在には、ひどくお留守だった。
そんな時に背中を護ってくれていたのが、佐々木先生。もとい、カンパネラさんだったということに気づいたのである。ああだこうだと調子のいいことばかり口にしていた"ろーたす"としての自分の存在を恥じた。
あたしは結局、いっぱしの口をききながら、結局は大人にしっかり護られていた「ただの子供」だったのだ。
今もブレザーの胸ポケットから咲いたままになっている花の鮮やかな色が、目に痛い。そう思い始めたとき、この場にはあたしたち以外誰もいなかったのに、佐々木先生はわざとらしく声を潜めて言った。
「……でも、内緒だよ? 本来、教師は生徒全員に平等でなきゃいけないから」
思わず笑ってしまった。佐々木先生も、ふざけた感じと人懐っこさを混ぜたような笑い顔に変わる。今の笑顔も繰り出す言葉の丸っこさも、なんならあたしよりよっぽど可愛らしく見える。確かに、同級生を騙られても見抜けなかったわけだ。もしかしたら、佐々木先生もあの瞬間だけは、完全に高校三年生に戻っていたのかもしれない。
先生の顔を覗き込むようにしながら、あたしは言った。
「それなのに言ってよかったんですか? 今の台詞」
「図らずも、わたしも蓮澤さんが隠していた秘密を見つけちゃったからね。これでおあいこ……ってことにしてちょうだい。気をつけて帰るのよ」
「わかりました。……ありがとう、カンパネラさん」
「卒業おめでとう。ろーたすさん」
袴姿の"カンパネラさん"は軽やかに踵を返すと、後ろ手にピースをしながら、職員室の方へ歩いていった。
廊下の奥に見えるドアをくぐったあと、あの人はまた"佐々木先生"に戻るのだろう。新しい毎日への切符を高く飛び上がって掴んだのはあたしでも、それは後ろを護ってくれていた、あの人がいたおかげだ。
だとすれば、その恩に報いるために、あたしがこれからすべきことは何だろうか。生徒玄関で靴を履き替えながら、しばらくそんなことを考えていた。
校舎を出て、一度だけ振り返る。単に慣れただけで、親しんではいないこの学び舎に戻ってくることは、きっともう二度とない。
だから佐々木先生は、最後の最後にあたしへ正体を明かしたのかもしれない。
自分の力で何かを得るためには、もっと知恵をつけなさい……というメッセージを込めて。
まだ何も終わってはいない。ようやくスタートラインに立っただけだ。
校門をくぐると、あたしは小走りに、家への道を進みはじめた。
サクラ咲ケ 西野 夏葉 @natsuha
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