5 同じとこをぐるぐる歩きまわらされてるんじゃないか?

 それが、いま、どうしたことか、罠にかかったような気がしているのはむしろ唐木田のほうだった。

 藪のなかの細いすきまをたどって(断じてこれは道じゃない、とすがりつくように唐木田は考えつづけた)、どれくらい歩いたものやら、遅まきながら唐木田は気づいた、この森はこんなに大きかったか?

 さいごに尾塚がご自慢のアップルウォッチで時間をたしかめたのがいつのことだったのか、唐木田はよくおぼえていなかった。たぶんこのみっともないジャングルに踏みこんでしまうまえ、ロープに吊られたイキド●リの看板をくぐるまえだった。そもそもこの道の先は行き止まりじゃなかったのか。それが、こんなに息を切らし、前髪にまで泥はねがこびりついてしまってもまだ、木立と下生えのあいだのわずかなすきまは、とぎれることなくつづいている。

 唐木田は立ち止まった。息が切れていた。気温がとめどなく上昇しているようで、汗が顔をつたって流れ落ちていた。汗のにおいをかぎつけたのか、昆虫のたぐいの耳障りな羽音がまとわりついて、どんなに手をふりまわしても追い払えなかった。

 尾塚とじいさんは歩きつづけていた。尾塚はじいさんの肘をつかみ迷いない足取りで。じいさんは介助役のもと公安キャリアに片手をささえてもらいながらも、ぬかるみと石ころ(そしてときにちょっとありえないくらい肥大したカエルや昆虫)なんて存在しない平坦な舗装道路でも歩いているみたいによろけることもなく。ふたりに声をかけるのにじゅうぶんな空気を肺に取り入れるようと、唐木田は急いで呼吸をととのえなければならなかった。

「待て、待て、」

 か細い声だったが尾塚には届いた。じいさんの肘をつかんだまま立ち止まってふりかえった。「なんだい?」

「いま、いま何時だ?」

「あぁ?」

 かまわず唐木田はつづけた。「おれたち、どのくらい歩いてる?」

「あぁ?」

 そう返しつつも、表情の変化で尾塚が驚いている……そんなあたりまえのことをいままでまったく考えもしなかっただけじゃなく、それを指摘してくれたのがひそかに見くだしている出世レースに出遅れた官僚だった事実に、とまどってもいるのがわかった。

 呼吸が苦しいままなので音量の調節がうまくできず叫び声になってしまった。「ここ、この森、こんなにでかかったか?」

 不審げな態度を隠そうともせず、尾塚は左手のアップルウォッチをたしかめた。そのまえに、表面に泥がこびりついていたので指先でこそげ落とさなければならなかった。動作を感知して画面が明るくなり、時刻を表示した……尾塚はそれを見た。不審げな顔つきはそのままに、唐木田に目を向けた。

「いや。まだ五分もたってないが?」

 そんなはずがない。

 唐木田の体感からすると、すでに三十分……それとも一時間くらい歩いている。いや、自分のスマートフォンをたしかめても意味がない。同じメーカーのOSだから、同じ結果になってもなんの証明にもならない。自分の直感のほうが、他国の電子機器なんかよりよっぽど信用できる。

 もうひとつ気になることがあった。こうして森にわけ入るまえ、道路わきから見あげたとき、ここは二十メートルほどの高さの山だった。唐木田がいままで歩いてきた(それともただ引きずりまわされてきただけだったのか)すきまは、ずっと平坦だった。くぼんでいたり盛り上がったりしていた場所でも、高低差はせいぜい数センチ、疲れていたら脚がもつれて転んでしまうことこそあれ(じっさい、うんざりするくらい何十回となく転んだ)、平坦といってさしつかえなかった。

「おかしくないか?」

 尾塚はそうは思わないみたいだった。「どこが?」

 唐木田はじいさんをにらみつけた。

「おれたち、同じとこをぐるぐる歩きまわらされてるんじゃないか?」

「はあ?」

 笑いをこらえているみたいに尾塚の口もとがゆるむのを唐木田は見た。「そんなばかな」

「ばかじゃない」

 ぴしゃりといい返してやった。じいさんは唐木田を見つめていた。いままでめったに目をあわせることがなかった。それが、自分のテリトリーに誘いこめたことで強気になったのか、いまは目をそらそうともしない。どうやらまだ理解できていないらしい、自分が敵にまわしているのは唐木田じゃなく……いや、すくなくとも唐木田だけじゃなく、内閣府、ひいては国そのものだと。

「とにかく、」

 そこで言葉に詰まった。

 周囲がつかのま薄暗くなったので、頭上に雲が流れてきて太陽を隠したんだと思った。つぎに黒い大きな鳥が、翼を広げて、木立のあいだを滑るように舞い降りてきた。たしかにそれは鳥だと思った、まさか大きな鉤爪だなんて思うわけがなかった、それが、背後から尾塚の身体をわしづかみにするまでは。それは大きな鉤爪だった。長く、細い、棒細工みたいな腕の先についていた。それは小さな子どもが床からお気に入りのアクションフィギュアを拾い上げようとするみたいに、尾塚の身体をしっかりと握りしめた。

 なにが起きているのかさっぱりわからなかった。つまらないUFO伝説なんてネットで読まなければよかったと心の底から思った。影が薄いベールのように周囲を覆って、尾塚とじいさんの姿と、背後の森がぼんやりといっしょくたになっている。こんな状況で自分がなにかを見ているからといって、それが見ていると思っているとおりのものとはかぎらない。雲はすぐに流れてしまい、太陽がふたたび明るい陽射しで周囲を照らしてくれるだろう。そうすればぜんぶもとどおり、見たと思ったものが、じつは思ったのとは似ても似つかないもっと常識的なものだったとわかって肩透かしを喰らわせられることになるだろう……唐木田はおとなしくその場に立って、そうなるのを待った。

 尾塚も、たぶん、自分になにが起こっているのかよくわかっていなかった。あるいは唐木田と同じく、自分に起こっていると思っているものが、お昼の強烈な陽射しの下で、自分が思っているのとはちがうもっと常識的なものだとわかるのをおとなしく待っているのかもしれなかった。片手はまだじいさんの肘をつかんでいた。じいさんは唐木田を見ていた……厳密にいうと唐木田の背後の、もうちょっと上のほうを見つめている。もとからそんなに表情が変わらないタイプだからなのか、ぜんぜん驚いているようには見えない。それとも、自分が見ているものがなんなのか、ちゃんと理解しているからか。

 いやちがうんだじいさん、と唐木田は教えてやりたかった、あんたが見ていると思っているものは、あんたがじっさいに見ているのとはちがうものなんだよ、と。光る飛行物体はただの航空機だし、おそろしげなのっぽの宇宙人は送電鉄塔でしかなくって、ぜんぶ常識の範囲で説明がつくものなんだ、と。雲が立ち去って太陽がもとどおり顔を出しさえすれば、自分がどれほどおろかだったかわかるんだよ、と。

 雲は……唐木田が雲だと思っていたものは、なかなか立ち去ってくれなかった。やがてそれが動きはじめたとき、鉤爪に握りしめられたまま、尾塚が静かに持ち上げられた。尾塚は声もたてなかった。上半身が片腕ごと、関節がたくさんある長い四本指に強く締め上げられていて、出したくても声を出せなかったのかもしれなかった。そのまま唐木田の頭を超えて、さらに高く、滑り上がるように持ち上げられた。あわてて目で追いながらふりかえると、それが、唐木田の背後から、頭上にのしかかるように腰をかがめているのに出くわした。あまりのことに声も出なかった。いやちがう、と唐木田は考えた、あれは見たとおりのものじゃない、もっとあたりまえのつまらないものだ、陽が射せば……もっと明るくなってくれさえすれば、ぜんぶあきらかになる、なんの心配もいらないと。それでも気がつくと例の地方議員のことを考えていた。あれほどきつくいいつけておいたのに、どうしてなんの報告もせず、そのまま議員を辞めてしまったのか。地元の議員としての長年の実績と経験が、まったく通用しない相手に出くわしてしまったからじゃないのか、この森で、ちょうど、いま、唐木田が出くわしてしまったみたいに。

 すくなくともあいつは家に帰ることができた。重要なのはそこだった。どこでどんなものを見たにしろ、家に帰ってまぬけな飼い犬がわんわん鳴くのを聞きながら辞表を書くことができた。いま、ここで重要なのはその事実だけだった。辞表を書いたことじゃなくて、まぬけな犬がわんわん吠えていたことでもなくて。唐木田がしがみつけるのはその考えしかなかった。


〈つづく〉

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