4 政権がもとめていたのは完全な勝利なんだから
さいしょに連絡があったのは先週の水曜日の夜のことだった。地元の説得に奔走している名前もよく知らない地方議員からで、例のじいさんから電話があった、やっと話を聞く気になってくれたみたいだと得意げにまくしたてられた。「いやあ、もうだいじょうぶ、もうぜーんぶわたしにまかしてください。もうわたしがね、もうね、うまーく話をまとめてきますんでね」
悪い話じゃなかった。すぐにでも飛びつきたいところを、しかし唐木田はぐっとこらえた。まず、この町会議員が、かかってきた電話を取っただけのくせに、自分の手がらみたいに自慢ぶっているのが気に入らない。じいさんにしても、ここまで話をこじらせておきながら、横柄にひとを呼びつける身勝手な態度に腹が立つ、もっとへりくだったやりかたがあるんじゃないのか。
なにしろもう三年も手を焼かされつづけていた。それがさらに三十年つづいたとしても不思議はなかった。じいさんの老衰を待つわけにもいかなかった。じいさん、じいさんとだれもが呼ぶが、じっさいのところ、あいつはまだ年金を受給できる年齢にもなっていなかった。
それに、記録に残るようなあからさまな指示こそなかったものの、政権のご意向は、時間が問題を解決してくれるのを待つことじゃなかった。そんなのは勝利といわない。政権がもとめているのは完全な勝利――抵抗勢力が二度と刃向かう気になれないように、徹底的にねじ伏せること――だった。
これまでだってなにもしていないわけじゃなかった。記者会見を何度も開いて政府の立場をていねいに説明した。選定の妥当性と、住人のみなさんへのじゅうぶんな補償、なにより安全性について万全の対策をしていて、まったく、どこにも、これっぽっちの危険すらないことを、テレビを見ている国民の全員が、なにを見ずとも暗唱できるくらいしつこくくりかえし強調した。偉い学者先生を何人もかつぎ出し、大臣もご列席の現地での説明会で、一〇〇〇〇パーセント安全だと何度も唱和させた。警官隊を動員して反対派のデモを規制線の外に力づくで追い出した。地元議員はこぞって一軒ずつ訪問して理解を求めた。その姿勢が評価されたのだろう、世論がすこしずつ味方につきはじめた。ネットでは地元の反対派をあからさまに非難する(匿名の)意見が急増した。熱心なジャーナリストが渾身の潜入取材で、某国から反対派へのあやしげな金の流れを暴き出した(それはたまたま、大臣と懇意にしているジャーナリストでもあった)。そのうちもっとも強行に反対していたリーダー格の町会長が、不幸なことに古い暖房器具の故障が原因の火事で亡くなった。いや、四月をなかばも過ぎて、ときには汗ばむ陽気がつづいていたとしても、古い暖房器具を消し忘れてしまうなんてのは年寄りにはよくあることで、不自然でもなんでもない。その葬式に参列し、分厚い香典袋を渡すとき、遠縁の親戚だとかいう喪主のおばさんはもちろんのこと、地元の参列者のほとんどが、おびえ顔で目をそらすのに気づいて、唐木田は完全に潮目が変わったのを確信した。ついに形勢が逆転したのだ。
だからといって理解を得るための努力はおしまなかった。攻撃の手をゆるめるわけにはいかない。政権がもとめていたのは完全な勝利なんだから、内気に伏し目がちのまま、やんわりとなにごともなかったみたいに引き下がらせるわけにはいかない。膝を屈して地べたに這いつくばらせるのでもまだ足りない。政権の決定に意見するなんてのは逆賊がすることにほかならない。逆賊とはすなわち罪人であり、しかも自分の意志で罪人になることを選択したのなら、その責任は死ぬまで……いや、その子どもたち、孫たちの世代までも、背負いつづけさせなければならない。二度とだれにも反抗させないために。正義とはそうやって成り立つものなのだ。
それでもなお、反対をやめないやつがいた。
じいさんだった。しかも問題の地域のじつに四割もの土地の地権者ときている。裁判こそ起こしていないものの、そんなことをされれば問題が長引くのは目に見えていた。いいかえれば部局内で唐木田は無能の烙印をおされ、来年のいまごろにはどこかの省庁の下部組織の、地方の出張所あたりに飛ばされてしまっていてもおかしくなかった。なんとかしなければならなかった。たえまなくSNSに流される悪評も、玄関先にぶちまけられるトラック何台ぶんもの廃棄物も、ひっきりなしの無言電話も、じいさんはまったくこたえないみたいだった。唐木田はあせりはじめた。五十嵐事務次官からの圧力は、日ごとに増すばかりだった。同期からの圧力ほど、上をめざす官僚にとってキツいものはない。唐木田は必死に耐えた、ふたたび潮目が変わるのを信じて。じいさんが無条件降伏を願い出てくれるまで。
そしてついにじいさんが連絡してきた。つまり降伏文書に調印するつもりだった。
「とりあえずいってようす見てこい」
中央政府の官僚らしい横柄な口ぶりで、唐木田はその顔も名前もどうしても思い出せない地方議員に命令した。「どうせなんもないだろうけどな、なんでもいいからなにかあったらすぐに報告しろ」
だいじなことなので二度くりかえした。「いいな、すぐ報告しろ」
まるでちぎれるほどにしっぽをふるまぬけな飼い犬みたいに、地方議員はすぐご報告しますとうけあった。このぶんだとじいさんがちょっとくしゃみをしただけでも、そくざに速報を入れてくれることだろう。
唐木田は吉報を待った。まる一日すぎてもそんなものはなかった……忘れたのだ。なにが腹立たしいといって、そのままなんの引き継ぎもなく、健康上の理由だかなんだかで辞職してしまったことだった。どうせ金か女のトラブルだった。地方の無能な議員なんてこのていどのものだった。これっぽっちの責任感もない。
すると、こんどは、なんとじいさん本人から連絡があった。電話を受けたのは若手のちょっとおつむのあやしい職員だった。じいさんのなまりがひどいのにくわえて若手に相手の話をまともに聞く能力がないせいで、ふたりはしばらく電話越しに押し問答をつづけた。そのうちに部局内でも一、二を争う聡明な女性職員が(おまけにりっぱなおっぱいとミニスカートで、男性職員一同の目を、まいにち楽しませてくれる)問題に気づいて電話を引き取り、すぐさま緊急案件だと判断して会議ちゅうの唐木田にまわした。むしろそういう頭の回転のはやいところを唐木田は気に入っている。いずれ――ランチミーティングのあとにでも――ひとけのない場所にひっそりと連れこみたいと思ってもいる。政権中枢で長年働いてきた勘で、彼女もそうしてもらうのを心待ちにしていることを、唐木田はちゃんと察している。
会議を中座すると、じゃまが入らなさそうな場所を見つけてじいさんと話した。通路の奥の狭い自動販売機コーナーだった。声は柔和に聞こえるようにこころがけた。相手を思いやり、いまにも休戦協定を申し入れそうな。
「どうしました、あー、」
相手の名前をどうしても思い出せなかった。「急なご用件だとか?」
そばでは二台の自動販売機が、どっちも似たような品揃えのお茶とコーヒーとミネラルウォーターを並べて、冷却装置のコンプレッサーを静かにうならせていた。
見せたいものがある、とじいさんはいった。
いや、あわせたいひとがいる、だったかもしれない。それとも、わからせたいものがいる、だったかも。
現地にかよい詰めていたから、日常会話ていどの方言ならどうにか理解できる(それがいいことなのか悪いことなのかというと……キャリアの役に立つことはまったくない)。しかしじいさんのなまりは、ふだん唐木田が相手にしているのとはちょっと次元がちがうようだった。ひょっとして、ただおなかがすいたといっているだけの可能性すらあった。
唐木田は訊いた。「なにを見せてくれるんですか?」
とても重要なものだ、とじいさんは答えた。それとも、あんたが見たがっているものだ、かもしれない。
そこで唐木田はぴんときた、つまり、これは全面降伏だ、と。それもむりのないことだった。むしろ敵ながらよくがんばったねとねぎらってやりたいくらいだった。残りわずかな余生を静かに送るはずだったじいさんの築六十四年のあばら屋も、いまでは塀から玄関から、家の外壁まで、最大多数の最大幸福をなにより優先する有志からの、いささか過激といえなくもないメッセージで埋めつくされている。玄関の呼び鈴は、たびかさなるピンポンダッシュのおかげでボタンが取れてなかのバネがむき出しになってしまった。どれも犯罪なのはいうまでもない。それでも聞いた話では、世のなかにはいたずら書きがオークションで何億円もの値をつけるアーティストがいるという。じいさんの家のらくがきのなかにも、数億、数十億の逸品が埋もれていないともかぎらない。すばらしい。仮定の話をしているかぎり、可能性はいつだって無限大だった。
ともかく、ついに敵は抜けられない罠にかかった。自動販売機の静かなうなりを聞きながら、唐木田はほくそ笑んだ。もうこっちのもんだった。
「いいでしょう」
と唐木田は、国民の安全と幸福をこそなににも増して希求してやまない為政者ならではの鷹揚な口ぶりで応じた。ついこのあいだ、じいさんとの面会に出向いたままなんの報告もなく辞任してしまった地方議員のことなんて、思い浮かびもしなかった。じいさんならなにがあったか知っているはずだった。
「近いうちにうかがいますよ。それでいいですか?」
ついでにここまで手こずらせてくれたお礼もしてやる。たっぷりとな。
〈つづく〉
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