3 こんなの道じゃない
じっさい、あたりを見まわして唐木田の目に入るのも、つまらない低い山とくさい湿地帯ばかり、取り引きに使えそうなものがあるとは思えなかった。人家もなければソーラーパネルの反射もない。電柱どころか送電鉄塔すらない。つまりここには電気すらとおっていない。となると住人たちはどうやってスマートフォンを充電しているのかと疑問になり、ああそうだった、そもそも住人なんていないんだと気づいた。いたとしても(と、ひとの車、それも一般市民がめったに乗れない官給の国産高級車に乗せてもらってきたくせに、憮然として目をあわせようともしないちびのじいさんに目を向けて)、スマートフォンなんて触るどころか、どんなことに使うものなのか理解してもいないだろう。
そこで心配になって自分のを取り出してたしかめてみた。
バッテリー残量は八十パーセント、アンテナマークは二本……いや三本、たよりなくはあっても立ってはいる。通信網にかぎっていえば、それほどの僻地でもないことになる。
メールがきていた。五十嵐事務次官が、進展があればいつでもどこからでもすぐ報告しろと念押ししていた。文面を見れば、名もない地方議員ならまだしも、中央政府のお役人がじきじきに、休日を返上してまで現地入りしているんだから、なんの成果もないわけがないと、気楽に考えているのはあきらかだった。自分は大臣と午前のラウンドをなごやかにまわり終え、クラブハウスでのひとっ風呂のあと、豪勢なランチに舌鼓でも打ちながら、気まぐれにメールを送っただけのくせに。こんな用事をいいつけられていなければ、唐木田もその場に同席して、このあいだ任命されたばかりの新任の大臣にしっかり名前と顔を印象づけられたはずなのに。五十嵐がなにも考えずにこの役目を唐木田に押しつけたはずがない。これでさらに差を広げられたことになる。
いずれにしろ、どんな上司からだろうと、指示にはちゃんと返信しなくちゃならない。かならずやご指示のとおりにいたしますとかなんとか、それっぽい内容を、親指のたどたどしい動きで入力してどうにか送信した。娘の愛華だったら、女子高生ならではのすばやい指さばきで、くだらない絵文字でびっしり修飾までしてさっさと送信していることだろう。愛華はテスト期間ちゅうのはずだから、いまごろは家に帰って勉強しているはずだった、また寄り道して、友だちにへんなちょっかいを出していなければ。
そんなことをしているあいだに尾塚はじいさんの片肘をつかんだまま小道に踏み入っていて、数メートルほど奥で唐木田を待っていた。
わざとらしくアップルウォッチに目を向けていた。顔つきはあからさまにいらだっていた。しかたがない、覚悟を決めて、唐木田も小道に――こんなのを小道と呼べるとはとても思えない――踏み入った。落ち葉の下は思ったとおりのぬかるみだった。さいしょの一歩から、たっぷりと水分をふくんだ分厚い腐葉土の層が、イタリア製の仔牛革の靴をゆっくりと、奥深くまでくわえこんだ。きょうも出勤とちゅうの東京駅で、この靴を靴磨きに顔が映りこむくらい徹底的にみがかせた。それがぜんぶだいなしだった。よろけて手を伸ばすと枝に触れた。節くれだち、曲がりくねって、長いあいだ爪切りをさぼっていた老人の指先みたいな枝がいきおいよく跳ね上がり、唐木田のほっぺたを引っかいた。痛かった。そのすぐそばの木の幹では、小さな虫の群れが大名行列みたいにつらなって行進している……と思ったら、ちょっと考えられないサイズのムカデが、無数の脚をグロテスクに波打たせて這い上がっているところだった。森は生きている……なんて気のきいたいいまわしを思いついたやつは、それがじっさい、どれほど気のきいたいいまわしだったかわかっていたんだろうかと思わずにいられなかった。
ひどい話だった。
尾塚に追いついてさいしょにしたのは悪態をつくことで、つぎにしたのはスラックスの――父親の代からなじみにしているテーラーのオーダーメイドだ――被害状況をたしかめることだった。すそくらいは覚悟していた。膝と、腿のあたりまでは予想していなかった。ぜんぶ泥まみれで、濡れて脚にみっともなくへばりついていた。ハンカチ一枚でがんばってみて……けっきょくそんなていどじゃどうしようもないとあきらめた。
もういちど悪態をついた。「くそ、ひでえぞこれは」
そのあいだも尾塚はぜんぜん表情を変えなかった。官僚といえど公安出身ともなると、高級スーツや革靴が犠牲になるのがわかっていても、それが仕事なら、腰までの深さのヘドロのなかにだって(そのなかに、ぬるぬるだったりぬめぬめだったり、ありとあらゆる気色の悪い生き物が無数に泳いでいるとしても)、ためらうことなくざぶざぶと入っていくんだろう。
尾塚が訊いた。
「どっちだ?」
じいさんにだった。
その場所から、道は太いのと細いののふた手にわかれていた。唐木田には選択肢はひとつだけとしか思えなかった。太いといっても、いま唐木田たちがいるところとそんなに変わらない。身長をはるかに超える雑草が両側からしなだれかかって、その先がどうなっているかはわからない。しかし細いほうはというと……、幅がどうあれ、こんなのはどう考えても道じゃない。溝ですらない。下生えのあいだをとぎれがちに伸びている、たよりないすきまにすぎない。しかも十メートルほど先で、一本のロープで封鎖されているのが見える。ロープには板がぶら下がっていて、そこに、怒りにまかせたような乱暴な筆跡で、イキド●リと殴り書きされている。東大法学部卒の学歴とは関係なく、唐木田には風雨にさらされて読めなくなったあの一文字がなんなのかそくざにわかった。かんたんな穴埋め問題だった。つまりあれは、あの先にいってもしょうがないという警告にほかならない。
しかしじいさんは当然のようにその細いほうを指さした。当然のように尾塚はじいさんの肘をつかんだまま、その細いほうに大股に踏み入った。もと公安キャリアならではの、ためらいのない足取りだった。唐木田が当然ついてくるものと思いこんでいるらしく、こっちをふりかえりもしなかった。
ひどい話だった。
とつぜん、やけに気温が上がったように感じた。ネクタイをゆるめて首もとに風を入れただけで、急いで尾塚とじいさんの後ろ姿を追いかけた。うかうかしているとすぐにふたりの姿は草むらに呑みこまれて見失ってしまいそうだった(そうなったらしめたもので、唐木田はむりにそこらへんを探しまわることなく、おとなしくもときた道を逆にたどって車まで戻り、ふたりの帰りを冷房のきいた車内でくつろいで待ったことだろう)。
さいしょにじいさん、つぎに尾塚、かなり遅れて唐木田が、ロープに吊られたイキド●リの看板をくぐり抜けた。看板は三人がくぐるたびにロープの揺れにあわせていきおいよく上下に跳ねた。まるではしゃいでいるみたいで、唐木田は気に障ってならなかった。道は――こんなの道じゃないと何度も自分にいい聞かせなければならなかった――奥へ進むにつれてさらにコンディションが悪くなった。靴の底に泥が吸いついてひと足ごとに重くなる。足を引きずっているとふいに大きな木の根っこが待ちかまえていて、つまずいてまえのめりに倒れてしまう。スーツの袖で顔の汗を何度もぬぐった。スーツの袖は(袖だけじゃなく全般的に)泥にまみれていて、唐木田の顔も同じくらい泥まみれだった。この先に、内閣府所属の国家公務員がこんな苦労をしてまで見なければならないどんなものがあるのか。先を進むじいさんに問いただすついでに、その細い首根っこをひっつかんで、骨が砕けるまで揺さぶってやりたくてならなかった。
〈つづく〉
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