マインドフルネス・バスタイム
渚 孝人
第1話
今自分がしていることをただありのままに感じるということ、それが「マインドフルネス」。
そして私がそこに最も近づけるのが、一人で家のお風呂に入っている時間だ。
外界と一枚の扉を隔てて存在する、この狭い空間。その中をオレンジ色の明かりが暖かく照らし出している。この空間の中でこれから30分程度の間、私は自分自身をただ感じようとする。
脱衣所で服を脱ぎ、iPhoneはここに置いておこう。
世の中に溢れかえっている情報は、風呂には持ち込まなくていい。
もし音楽をかけたいのならリラックスできるものがいい。私はジャック・ジョンソンの「Banana Pancakes」を流した。アコースティックギターの優しい音色が脱衣所に響き渡る。
ジャックの声はいつだって、私の心を落ち着かせてくれるのだ。
風呂の蓋をガラガラと開けると、もくもくと湯気が立ち上った。
ハンドルを回して熱いシャワーを浴びた時、1日の間に溜まり込んだ全ての疲れは洗い流されて行く。
ああ、このお湯の感触だ。私はこれを待っていたのだ。
私は体と顔と髪を洗い始める。
順番?そんなのはどうでもいい。ただ大事なことは、洗っている自分の「体」を感じるということ。
手で洗ってもいい。タオルで洗ってもいい。ただ感じるのだ、自分の肌の感触を。
もしより深く感じたいのなら、目をつぶって洗おう。
そうすればより自分の肌に対して繊細になることが出来る。
慣れてきたら、感じることが出来るかも知れない。心と体が一つになって行く感触を。
ボディーソープやシャンプーの匂いを嗅ぐのも良い。
柑橘系の香りが鼻から、体全体へ抜けて行く。
体を洗い終えたら、ひとつ大きく息を吐こう。
きっと全身に汗が浮かんで来るだろう。
そして感じるのだ。自分が今この瞬間に生きているということの不思議さを。
この世界に生まれ落ちて、日本という国に生まれ落ちて、我々は風呂に入るということを知った。
そのおかげで我々は毎日思い出すことが出来るのだ。今この瞬間に生きているという喜びを。
さあ、湯船につかろう。入浴剤を持っているのなら、入れない手はないだろう。
透明なお湯は好きな色へと変化し、シュワシュワという音が立ち始める。
ゆっくりとつかるのもいい、ザブンとつかるのもいい。
その瞬間、熱いお湯が体を包み込み、全身に血が巡るのが分かる。
私は顔を手でこすり、放心したように風呂場の天井を見上げる。
ああ、最高だ。日本に生まれて良かった。
我々がお湯に入ると落ち着くのは、母体の羊水にいた頃を思い出すからだろうか?
もしそうなら我々の心は今でも、遥か昔の記憶と結びついているのだ。
私は両肩にお湯をかけてその滑らかさを感じる。
ただの水道水であったはずなのに、入浴剤はそのお湯を生まれ変わらせている。
私は入浴剤が入っていた袋に鼻を近づけて、その香りが体の中を巡るのを感じる。あとは味覚が加われば五感を総動員することになるだろうけれど、それは夕飯に取っておこうではないか。
私は静かに眼を閉じて湯船に肩まで浸かり、心の深い場所へと自分を沈めて行く。脱衣所でかかっている音楽が、次第に遠ざかって行くような感覚がある。
心の海底はとても暗くて怖い場所だ。一人でそこへ入って行くには勇気がいる。
特に快楽に慣れきってしまった現代人なら、不安や恐怖を感じるかも知れない。
でも安心して欲しい。お風呂はきっと、あなたを守ってくれるはずだから。
私は心の海底に一人で座り、知らず知らずのうちに身に纏っていたエゴという名の鎧を脱ぎ捨てる。
そしてそこで出会うのだ。本来の自分自身に。
自分の心の奥底で眠っている、もう一人の自分。
現代人はネットを見ることに夢中で、いつの間にかその存在を忘れてしまった。
だから我々は気付く必要があるのだ。例えばこうして風呂に入り、心の海底にたどり着くことで。
僕はそこに自分の姿を見つけて、安心したように一つため息をついた。
自分は確かに、この場所で眠っているのだ。
いけないいけない、いつの間にかのぼせそうになっていた。
私は湯船から上がってバスタオルで体を拭き、脱衣所へ出た。
でもその瞬間に力が抜けたようになり、私はマットの上に座り込んでしまう。
私は天井のライトの光を、ただぼんやりと見つめている。
そして私は感じている。自分がいかに無力な存在であるかということを。
でもきっとそれでいいのだ。人は自分の無力さを知ることで、ようやく謙虚に生きることが出来るのだから。
「マインドフルネス・バスタイム」。私はこの時間が大好きだ。
マインドフルネス・バスタイム 渚 孝人 @basketpianoman
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