陽菜ちゃん頑張る

のなめ

陽菜ちゃん頑張る



 兄の頭にフォークが突き刺さったのは私が小学1年生の12月24日のことだった。


 たまにフライパンが飛んできたり、よくわからない棒で叩かれることはよくあった。でもなぜかその日に限って、仕事中の父に『お兄ちゃんが殺される』と私が泣いて電話したそうだ。

 会社から飛んで帰ってきた父は私と兄を外車に乗せて、そのまま新しい街に向かった。それが本当にクリスマスイブだったのか覚えてないけど、父がそう言うならそうなのかもしれない。


 その日の夜ごはんは中華だった。たまに家族で行ってた店だったからよく覚えてる。

 お店に入ると、大人の女性と、私よりも2,3歳くらい年上の男の子のいる席に案内された。今日から私の新しいお母さんになったらしい。ついでにお兄ちゃんも一人増えた。





 冬休みが明けて、私となみ兄は新しい学校に転校した。義兄は一番年上だったから、私も実兄も『お兄ちゃん』と呼ぶようになった。実兄は名前にちなんで『なみ兄』にランクダウンした。

 一桁の年齢というのは順応力がとても高いらしく、新しい家庭も、新しい日常にもすぐ慣れてしまった。その頃から、母のしつけも始まった。


 最初に言われたのは、『ママ』じゃなく『お母さん』と呼びなさいだった。その次は『うん』じゃなく『はい』と返事しなさい、その次は……言い出したらきりがないからやめておく。

 多分、その頃から私となみ兄のことは好きじゃなかったんだと思う。




 5人家族になって1年ほど経って、もう少し広い家に引っ越すことになった。と言っても、学区は変わらないから転校とかはなかった。変わったことと言えば、ペットが増えた。もともとハムスターがいて、新しく犬とインコを3匹飼った。1匹は半年くらい逃げたけど。


 父は朝から深夜まで仕事で、日中会うことはなかった。週末も夕方くらいまで寝ていたから、顔を合わせるのは週末の夜ご飯くらい。これは前と変わらなかった。

 母は専業主婦になった。でも、家事が多くなったから私たちも家事を手伝うことになった。17時くらいに母が犬の散歩兼買い物に行って、母が帰ってくる18時半くらいから掃除が始まる。なみ兄が掃除機をかけて、私が床の拭き掃除。バケツに水を汲んで、雑巾を絞って拭いていくスタイル。4LDK+廊下だったから、毎日1時間くらい拭いていた。鳥の糞が残ってると、ちゃんとできてないということで拭き掃除だけやり直しになることもあった。


 私たちが掃除をしている間に、母が夜ご飯を作ってくれた。大体いつも食べ始めるのは20時くらい。

「前のお母さんは、カレーをルーから作ってくれることなんてなかったでしょ?」

「うん、こんなおいしいカレー初めて!」

 実母がどうやってカレーを作っていたかは知らない。とりあえずよく分からない質問が来たときは、母に合わせて回答するようにした。


「食べ終わったら早く寝なさい。寝る前に洗濯物干すのよ」

 21時くらいに食べ終わって、洗濯物を干して寝るというのが日課だった。洗濯物は靴下とかパンツとか、洗濯ばさみに干す系の『小物』と、ハンガーに干す服とかズボンの『中物』、物干し竿にかけるバスタオル類の『大物』に分かれていた。

「小物は室内で干せるから楽だねー」

「うん、そうだねー」

 小物は私の担当だった。母に合わせてそう答えたけど、比率的に小物の量が一番多かった。5人家族1日分の洗濯物を干すのに、大物は5分、中物は15分、小物は30分くらいかかった。




 そうそう、土日は母も昼過ぎまで寝ていた。自室から出ると、『あんたたちの物音がうるさくて起きた』と怒られるから、母が起きるまでは自分の部屋から出れなかった。

 その頃、お兄ちゃんは塾に行くようになってたから、私となみ兄でテレビを見るか遊ぶかして時間をつぶしてた。


「何食べたい?」

 母は起きると、決まってこう聞いた。いつも昼の2時くらいだった。

「そんなにお腹空いてないから、簡単なものでいいよ」

 今の生活に慣れてきた私となみ兄は、とてもとても自然にそう答えるようになった。そう答えると母は上機嫌でリビングに戻っていくから。本当はとてもお腹が空いてたし、食べたいものもあった。でも、母の機嫌が悪くならないように気を使えるようになった。


 ちなみに、そう答えると必ずスパゲッティが出てくる。私はたらこで、なみ兄はミートソース。塾が休みの日なんかは、お兄ちゃんはペペロンチーノとかボンゴレとか、毎回違うソースを食べていた。とてもいい匂いだった。

「ねえお母さん。私もお兄ちゃんが食べてるの食べてみたい」

「陽菜は食べれないから。それにたらこ好きでしょ」

「……好き」

 それから、私はずっとたらこを食べ続けた。同じ理由でなみ兄はミートソースを食べ続けた。




「陽菜ちゃんちょっとおいで」

 ちゃん付けされるときは大体機嫌が悪い。きっと怒られるんだろなぁと思いながら母の元に向かった。

「壁に鼻くそがついてるけど」

「私……知らない」

「知らないわけないでしょ」

 大体いつも、私の否定が否定されるところから始まる。

「お兄ちゃんがこんなことするわけないじゃない。やるとしたら陽菜かなみ兄のどっちかでしょ。でもなみ兄はまだ帰ってきてないんだから陽菜しかいないじゃない」

 溜め息交じりの、すごい嫌な言い方だった。

「でも本当に知らない……」

「じゃあお兄ちゃんがやったっていうの?それとも幽霊がやったんか?」

 ここから現実でループが始まる。日によるけど、平均3回くらい。


「……でも、本当に陽菜じゃないも――」

 その日も、突拍子なく左頬にビンタが飛んできた。一瞬目の前が真っ白になったあと、私は大泣きした。

「うわああああああん」

「正直に言いな。誰がやったん」

「陽菜、陽菜がぁ、陽菜がやりました」

 泣きながらだから、しゃくりも入って大体こんな感じに答えてた。

「なんであんたは一回嘘つくの!」

 そう言って、母はもう一回同じところをビンタする。追い打ちで私の泣き声もさらに拍子がかかった。

「嘘つくから叩かれんねんで」

 捨て台詞のようにその言葉を置いて、母はリビングに戻っていった。


 鼻くそが家の壁とか机の裏についてて、累計で20回くらいは怒られた。でも、その頃の私は鼻くそを食べてたから本当に全部知らない。多分犯人はなみ兄だと思う。

 正直に『やってない』というよりも、嘘でも『やりました』って言った方がいい時があることを8歳で学んだ。




 私となみ兄がこの家に来た理由は、実母の虐待ということになっている。

 でも、私は今の母よりも実母の方が好きだった。叩かれる頻度も理不尽さも、今の母の方が圧倒的に多いから。


 小学3年生くらいから、どういう経緯か覚えていないけど、週末だけ実母のところに帰るようになった。なみ兄は実母が嫌いだったから、帰るのは私だけだった。ただし、母のことを実母に話さないこと、今はおばあちゃんと住んでることにすること。私にはよく分からなかったけど、とりあえず言われる通りにした。

 実母の住んでる場所は電車に乗って10駅くらい。小学生からしたらプチ旅行みたいだったけど、そんなことよりも実母に会えることの方が嬉しかった。たまに会う実母はとても優しくて、今の母よりもやっぱり好きだった。私は、実母と一緒に住みたいと思った。


「ママ、家着いたよ」

 日曜日、実母の家から帰ってくると、家に着いたことを報告するため実母に電話をかけていた。大体夜の9時くらい。父と母とお兄ちゃんとなみ兄はご飯を食べている時間だった。

「泣くなら部屋で泣きな」

 実母とまた1週間会えないのかと思うと、電話の前で涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。そんな私の姿を見て、いつも母は私を一喝した。やっぱり母のことは好きになれなかった。


「陽菜ちゃん。あなたの実母さんは働いてないのよ。お父さんから無理矢理お金をもらって、そのお金で生活してるの」

 ある時、母がそう言った。どうやら私の実母は悪い人みたいだ。

「陽菜が週末遊びに行くと、実母さんはお父さんから余計にお金をもらってるの。陽菜が実母さんと楽しんだ分だけ、私たちが不幸になるの分かってね?で、今週も実母さんのところ行くの?」

「……行かない」

 ほとんど脅迫だった。でも、そんな私に母は決まってこう言った。

「自分で決めたことには責任持ちなさいよ」

 それから、実母の家には行かなくなった。私が、実母の家よりも今の家の方がいいと言ったことになった。


 それから1ヵ月ほどして、父に連れられて実母の家に行くことになった。私が、実母と今の家のどっちで暮らしていくかを決める話し合いをするようだった。

「陽菜はどうしたい?」

「私はママと住みたい」

 父に聞かれた私は迷わず答えた。すると、父の顔色が少し変わって、実母と二人で話をするから隣の部屋で待ってるようにと言われた。1時間くらい経ったと思う。ふすまが開いて、父が部屋に入ってきた。実母はテーブルで泣いていた。

「もう一回聞くけど、陽菜はパパとママ、どっちと住みたい?」

「ママがいい」

 私はそう答えた。

「もし陽菜がママと住むなら、パパはもうママにお金をあげられへんで。そうなったら陽菜も生活できへんで」

「でも……ママと住みたい」

 よく分からないけど、私は悲しくて泣いた。その姿に実母が『もういいやんか』と父に泣きながら話しかけた。今度はふすまが開いたまま、父と実母が言い争いをする。でもさっきとは違い、数分くらいでその言い合いも終わって、また父が私に尋ねた。

「陽菜、ほんまにママと住むでいいんか?」

 私が悲しかったのは、きっとこうなることが分かってたからだ。私が『パパと住む』と答えないと終わらないんだなと思った。実母と住むことはできないのだなと思うと、とても悲しかった。

「……パパと住む」

「分かった」

 その言葉で話し合いは終わった。

 最後に私を抱きしめさせて欲しいと実母は父にお願いした。父もそれは了承した。いつも二人で寝ていた寝室に入ってきた実母は泣きながら、私を強く抱きしめてくれた。子供ながらに、これが本当に最後なのだと理解した私も、今日一大きな声で泣いた。

「行こか」

 という父に手を引かれて、玄関に向かった。

「バイバイ」

 と私が言うと、実母も『バイバイ』と泣きながら笑って言葉を返してくれた。




 小学生高学年になり、私の素行不良が目をつくようになった。と言っても、授業を邪魔したりとか、漫画に出てくるヤンキーみたいなことをしていたわけではない。でも、万引きは多くなった。

 最初に捕まったのは小学2年生の時。家の近くのセブンイレブンで紙パックの飲み物を万引きして捕まった。店を出て腕を掴まれたときの心臓が止まる感覚はおしっこを漏らしそうになった。勿論、そのあとは店の裏に連れていかれて家に電話をかけた。電話してから10分後くらいに店についた母は、まず私の鼻に裏拳を入れた。鼻血で店の床が血だらけになりながら、母と一緒に店長に謝って何とか許してもらえた。

 そんなことがあったから、二度と万引きはしないと思っていた。でも、それから数年が経ち、また万引きをするようになった。2回目に捕まったのは、家から少し離れたところにある公園横のローソンだった。今度は食べ物だった。万引きした理由は、スリルを求めているとかではなく、単純に欲しかったから。欲しいなら買えよと言われるだろうけど、母に『欲しいから買って』と気軽に頼める間柄ではなかったし、お小遣いもなかった。じゃあ、お小遣いがあれば万引きしなかったのか?と問われると、正直分からない。だから言い訳するつもりはない。

 他にも、小学校で友達のものを盗んだこともあった。それがバレて、母と一緒にその友達の家に謝りにも行った。そんな私に母もストレスは溜まってたのだと思う。


 そんなことがあったからか、家の中でも不思議なことが起き始めた。母の財布に入っているお金が無くなったのだ。

「お前、財布からお金盗ったやろ」

 夕方、拭き掃除をしているとそんなことを言われた。その額は千円くらいだった。この頃から、母も私のことを名前では呼ばなくなった。

「私盗ってない」

「でも盗むんはお前くらいや」

 そう言って、やっぱり私は叩かれた。叩かれて、私がやりましたと嘘をついた。すると、母は持っていた掃除機の棒の部分で私の頭を思い切り叩いた。その衝撃で、ぐわーんと視界が揺れた。さすがにヤバいと思った私は私は大泣きしながらも、何とか手で頭を守っていた。それでも、何度も何度も掃除機で頭を殴られ続けて、最終的に掃除機の棒の部分が折れるまで殴られた。

「お前のお小遣いから弁償させるからな」

 多分爪が割れて、床に少しだけ血が垂れていた。


 それからというもの、母のお金は1週間に1度くらいのペースでなくなった。その度に私は殴られた。

「何に幾ら使ったか全部書け」

 ある時、そう言われて紙とペンを渡された。とりあえず私は、食べ物や飲み物、文房具などを書いてみた。すると、それを見た母が、『桁が全然足りない』と私を叩いた。母曰く、私が盗ったお金の総額は数百万円にものぼっていたようだ。私はいったい何にお金を使ったのだろう。小学生ながらに数百万円の使い道を必死に考えた。

「そんな考えるふりしなくていい!」

 必死に考えていると、それがわざとらしく見えたのか、そんな言葉とともにビンタが飛んできた。やっぱり私は泣いた。それから私は電化製品をはじめ、思いつく限りの高いものを書いた。

「ほんまお前はろくでもないヤツやな」

 そう言われた。

 それから数日して、借用書を書かされた。お金以外にも、母が持っていた宝石類もなくなったらしく、借用書の額は数百万か数千万円かだったと思う。そこに私は拇印を押した。宝石は砂場に埋めたことになった。




 たまに中高生が自殺するニュースが流れてくるけど、今考えても不思議なほどに当時の私は自殺を考えたことがなかった。本当に、1ミリも考えたことがない。もしかしたら私はメンタルが強いのかもしれない。

 でもよくよく考えてみれば、小学生が自殺したというニュースはあまり聞かないし、案外そういうものなのかも。


 その話は関係ないけど、私は精神科に行くことになった。母の見立てでは、私は精神病のようだ。私は小学校を休んで、よく色々な病院に連れていかれた。そこで、様々なテストをやった。木を描くテストとか、カードの順番を並べ替えるテストとか。多分IQも図られていたのだと思う。テスト自体はやってて結構楽しかったけど、気を書いてるときに『果物は?根っこは?』なんて言われるから、その度に描き足した。あんなに誘導をして本当にテストできているのか、今になって思うと少し不安になった。

 結果は……教えてもらっていないから私のIQがどうだったのか、精神病だったのかは私にはわからない。だけど、小学校のクラスも変わらなかったし、病院に入院することもなかったから、社会で生きていけると判断されたのだと思う。


 ただ、母の強い意志で一つの薬は処方された。リタリンという薬だった。

「お前は注意力散漫だから。お前の母親もそうだから。遺伝だから」

 母は常々私にそう言い聞かせていた。病名はADHDというものらしい。確かにその症状の一つの『忘れ物が多い』にはとても当てはまった。例えば、その薬を学校に持っていって、給食後に保健室に行って先生の前で飲まないといけなかった。でも、そもそも保健室に行くのも忘れて、家に帰ってくるまで薬の存在を忘れていることがよくあった。

「ふざけてんのか?」

 と、よく母に殴られた。母からすると、『食後に保健室に行く』ということを忘れることが冗談としか思えないらしい。確かに、今の私もそう思う。でも当時は本当に忘れていた。




 小学5年生の時、また大きな出来事があった。山に囲まれた場所で5泊6日くらいする自然学校でのことだった。

 キャンプファイヤーをした後、その広場に腕時計が落ちていた。銀色の、大人っぽい腕時計だった。それを拾った私はすぐに自分の腕につけて、仲のいい友達に自慢した。次の日、違うクラスの男子が腕時計が無いと言って騒ぎになった。夜寝るまではあったから、誰かに盗られたかもしれないということだった。少し話は違うけど、私はすぐにこの時計がその子のものだと分かった。けど、返そうと思うよりも、自分のものにしたいという思いが勝った私は時計の裏に自分の名前を書いた。

 友達に見せびらかした昨夜の私のせいで、自警団的な男子グループはすぐに私のところに来た。布団の下に隠していた時計もあっさりと見つかってしまった。名前も私が書いたことがバレた。私はその男子に謝りに行って、一応その場は収まった。


 自然学校が終わって数日がたった頃、母が私を呼んだ。ここ数日は怒られるようなことはしてないなと思っていた私だったけど、要件が自然学校で私が腕時計を盗んだことだと知って冷や汗が止まらなかった。

「ほかの子の腕時計盗んだってホント?」

「盗んだんじゃなくて拾った」

 そこで頬を目いっぱい叩かれた。

「お前のせいで、学校で大恥かいたわ。なんで未だに人のもの盗むの?」

 母は泣いていた。その涙に心が痛むことはなかったけど。

「ホントに盗んでない」

「じゃあ学校の先生が嘘ついてんのか」

 次は頬じゃなかった。私が何か喋る度に、体中の至るところを殴られた。多分、今までの人生で一番殴られ続けた。

「お前、盗った後に名前まで書いたんやってな」

「書いてない」

 私は嘘をついた。多分、その嘘をつくことに何のメリットもなかったけど、これ以上殴られたくないと思って本当に嘘をついた。そのせいでまた殴られた。名前を書かなかったらここまでにはならなかったのかなと後悔した。




 その日以降、私の晩御飯は袋のインスタント麺か、マヨネーズごはんになった。お盆の上に丼ぶりが一個だけ乗っている。それを自室に持って行って食べるのが私の夜ごはんになった。

 インスタント麺の時は、一品だけトッピングが乗っていた。一度、ニンジンが乗ってたことがあったけど、いくら噛んでも全然噛み切れなかった。多分、ニンジンの皮だった。マヨネーズごはんは、実母と暮らしていた時にテレビで見て食べたことがあった。それが美味しかったという話を数年前にしたことがあったから、たぶんそのせいだと思う。

 それでも、まだ出てきたらマシだった。数か月もすると、たまに夜ごはんがない日もあった。だから、給食に出てくるコッペパンの半分をバレないように給食袋に詰めて、家で食べるようにした。

 給食がある日はいいけど、金曜日に晩御飯が食べられないと、お昼も食べれないから本当に体が動かなかった。当時の私はお小遣いももらってなかったし、そもそも外出も禁止されていたから自分ではどうしようもできなかった。


「誰にも言うなよ」

 私が晩御飯を食べていない翌日は、なみ兄がそう言ってコンビニのおにぎりを私にくれた。母からは、私となみ兄はよくケンカをするから家では喋るなと言われていた。実際、よく喧嘩していたからなみ兄のこともそんなに好きではなかったけど、なみ兄だけは助けてくれた。私にあげたのがバレるとなみ兄も怒られるからと、ごみも回収して公園とかコンビニのゴミ箱に捨ててきてくれた。




 日中はそんな感じで、夜の生活も少し変わった。父が家に帰ってくると、母に叩き起こされるようになった。時刻は深夜の0時から3時くらいの間だった。


 飼っていた犬を見てて思ったけど、生き物って寝ているときに目が半開きになってる。私も大体、寝てると『母に叩かれそうだなー』という夢(?)を見ることがあって、その数秒後には本当に叩き起こされていた。

 そんな感じで深夜に起こされると、リビングに連れていかれた。そこには決まって父もいた。私は立ったまま、母にこれまで私がどういうことをしてきたかとか、今週もお金が無くなったとかで叩かれていた。

 同じくリビングにいた父はというと、あまり関心がないようで、テレビを見ながらだったり、仕事をしながら母の言葉を聞き流していた。

「もう、私この子殺して自首しようかなと思ってる」

 一度、そう言って母に包丁を首元に突き付けられた。その時私は泣いていたのか、泣いていなかったのか覚えてない。その時の父は仕事をしていて、そもそも私の方を見ていなかった。




 そんな生活を半年ほどして、私は児童養護施設に行くことになった。施設に行く前に1ヵ月ほど、一時保護所という場所に行く。よく知らないけど、たぶん施設に行くための準備とか、家庭に問題がある児童を預かる感じだと思う。


 実は私は小学3年生の時に一度、この一時保護所に入ったことがある。一度目の万引きで捕まった後くらいだった。施設には小学生から高校生まで20人くらいいて、勉強したり遊んだりする。年上に叩かれることはあったけど、家にいるよりもずっと天国だった。

「家に帰りたい?施設で暮らしたい?」

 その時は施設に行く話は出ていなかったけど、一時保護所を出る時期になって、施設の職員にそんなことを聞かれた。

「家には帰りたくない」

「でもお母さんは家に帰ってきてもいいって言ってるよ」

 私の答えに、職員はそう返した。この会話も、家に帰りたいというまで終わらなかった。


 でも今回は、施設に行くことが決まっていた。県内の施設は定員がいっぱいだから、県外の施設に行くらしい。正直、私にとってはあの家から出れるなら県内とか県外とかどっちでもよかった。


 一時保護所に行ったのはちょうどクリスマスの時期で、クリスマス会なんかした。元旦もここで過ごした。もし、私が父に電話をかけたのが本当にクリスマスイブなら、ほぼちょうど4年間ということになる。




 そのあとの私は3か所ほど施設を回った。別に悪いことをしたわけではなくて、県内に戻ってきたり、年齢制限が理由だったり。

 児童養護施設と言っても十人十色で、私立の施設はルールが結構緩いけど、院長先生の絶対王政みたいな感じ。逆に、県営の施設は厳しい部分が多いけど、職員がとてもしっかりしてた。とりあえず、『ガイジ』って言うとメチャクチャ怒られる。


 施設に来る児童はみんな何か問題があって、でもみんな普通だった。今は少なくなったけど、男女が一緒に遊んだりもできたし、施設内で恋愛することもあった。それくらい、みんな普通だった。

 ちなみに、知能とかに問題がない限り、施設の子も普通の学校に通う。児童養護施設って大体一個の市に一つくらいあるから、どの学校にも3~4人くらい行ってる。同じ学年に一人は施設の人がいたかなって感じ。みんな知らないだけで、意外と身近にいると思う。


 こんな私も高校まで施設で暮らして、そのあとは大学に進学した。

 たまにこの身の上話をすると、だいたい笑われる。あまりにフィクションチックすぎて、私も話しながら笑ってる。多分、今までの人生で、私のこの話を真に受けてる人はいないと思う。

「全然そんな人生歩んできたように見えないわ」

 という言葉を貰うことも多かったりする。まあ、生まれてすぐ捨てられたとか、ドラマでしか見ないような人と出会ってきた私からすると、私の人生って別に不幸ではないし。

「お母さん嫌い?」

 ということもよく聞かれる。うーん、どっちでもない。母との生活よりも施設での生活の方が長いし、私も母に迷惑をかけた自覚はある。だから、おあいこということで、勝手にだけどこれからは別の人生を歩んでいくことにした。

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