第42話 新生


『全国のプロレスファンの皆様こんばんわ。いよいよファイナルを迎えたわけですが、今日は雰囲気が少し違います。やはりあの襲撃事件が影響しているのでしょうか』

『あのような凶行に出るなど思いもしませんからね。ダン選手の安否が気になります』

『そのダン選手ですが、未だに姿を見ていないと報告が入っていますが、果たして会場には現れるのでしょうか』

『必ず来ます。あのゲドキングを打ち負かしてくれるでしょう』


 実況席が必死に盛り上げようとしているが、会場の異様な雰囲気を消すことはできなかった。普段のファイナルとは明らかに違う。

 ここまでの試合も高い水準を保っていた。皆を楽しませるに足るものだが、今日はどこか客が集中していないのだ。

 悪役を憎む殺気や怒りに満ちた空気とも違う。善玉を待ち望む明るいものともまた違った。不安と期待が入り交じり、どこか落ち着かない。心だけが浮いているような感覚だ。

 原因などはっきりしている。

 ここにいるほぼ全ての者は事件を知っている。彼らは一様に同じ思いを抱いていた。


『恐ろしい何かが起きるのではないか』


 ゲドキングは既に入場を果たしており、コーナーポストに寄り掛かっていた。相変わらずブーイングは激しいものだったが、それでも今日はいつもよりどこか大人しい。あれだけのことを仕出かしておきながらだ。

 それほどまでに観客はダンのことが気になっている。主役の登場を待ち望んでいるのだ。

「だ、大丈夫なのか」

 セコンドに入っている男が不安げに問いかける。この空気の中ではゲドキングにしか聞こえない。

「すまないな。本来ならあんたが立つべきだったのにさ」

 その正体は今日のメインを張るはずだったガジャドラスである。顔は覆面で隠しているので、万が一にも正体が知られる恐れはない。

「この落とし前はちゃんとつけるよ。美味しい場面を必ず用意するさ」

 突然のカード変更に困惑したのは彼も同じだ。ちゃんと報いなければいけない。

「い、いや、それは構わないが。今はそれどころじゃないだろう」

 生唾を静かに飲み込む。会場を眺める目が怯えていた。

「どうするんだ? このまま来なかったら?」

 団体のレスラーはもちろん、全職員が抱えている思いだ。

 今日の主役はまだ姿を見せていない。あれ以来、音信不通のまま当日を迎えてしまった。町でダンを見た者もいない。

 試合会場と開始時間は変更していないので問題ないのだが、ここまで連絡が取れないとやはり不安は付きまとう。何しろ会場に来るという根拠は小次郎の推測だけで、明確な理由がないのだ。

 彼の心の傷を考えれば、試合を放棄しても不思議じゃない。ステージ裏は戦場のようになっており、スタッフたちの胃に穴が空いてもおかしくなかった。

試合間の休憩や余興などを、さりげなく長引かせながら時間を引き延ばしたが、ここが限界だろう。

「一応プランは説明しただろ」

 当然最悪の可能性も考慮しており、緊急の対戦カードは用意していた。

「できるのか? この空気で」

 ガジャドラスの心配は的を射ている。これもまた団体の皆が等しく抱いている心配だ。

 観客が盛り下がるとか、空気が白けるなどという段階はとっくに超えている。下手したら暴動に発展する恐れもあった。とことん煽り続けた代償である。

 他の団体がやらかしてしまったときの映像が脳裏をよぎる。激しい怒号に宙を舞うゴミや座布団。行き場のない感情が爆発し、理性が崩壊する。会場は破壊され尽くすかも知れない。

 巨大な不発弾に火が点けばどうなるか。被害状況など予想できなかった

ここまで積み上げてきたものが、一気に崩れ去る可能性もある。FWEの未来すら終わりかねないのだ。


(きっと俺も終わりだな)

 どれだけ頑張ったところで流れを覆すことはできないだろう。師匠ならともかく、自分の腕では無理だと感じている。つまり破滅が付きまとっている。

(一、二、三)

 目を閉じて気を静める。プロレスの神に祈りながらも縋りはしない。

頭だけはどこまでも冷静に時間を数える。限界点を過ぎれば、どんな酷いことになろうと、次のプランを実行する。

(十五、十六)

 心臓が早鐘を打っている。刻まれる時間が永遠のように感じた。暗闇はどこまでも続いている。

 次に目を開けたとき、広がるのは闇か、光か。


 突如として声が上がった。小さな波紋はやがて巨大な波となって観客席を飲み込んでいく。

 演奏団がダンの入場曲を勇ましく奏で始めた。勢いよく瞼を開け、花道を見据える。

 待ち望んでいた相手がついに姿を現した。光に包まれながら、ゆっくりとリングに向かってくる。

 それを初めて見たとき、ゲドキングに稲妻が走った。頭も肉体も全てが釘付けとなる。

 身体に刻まれた無数の傷痕。筋肉が脈動しており、何倍にも大きく見せる。まさに鋼のごとき肉体だ。炎のように髭が揺らめき、汗が蒸発していく。力強い足取りは花道ごと踏み砕きそうだ。

 厳しい顔つきでリングを見据える姿には鬼気迫るものがある。並の者ならとっくに戦意を喪失しているだろう。小さな身体から発せられる威圧感は呼吸すら許さない。オーラのようなものが全身から立ち上っていた。

 先程までとは歓声の色合いが変わってくる。ざわめきは応援よりも動揺や困惑の方が強い。待ち望んでいた善玉の登場だというのに、すっかりその迫力に吞まれてしまった。


『来たぞ、来たぞ。待ち望んだ男がやってきたぞ』


 流石はプロの実況である。異様さは充分すぎるほど伝わっているはずだが、何とかいつものように進行しようとする。

 ダンのリングインと同時に喚声は上がったが、やはりどこかまばらである。困惑の方が強いのだ。完全には気を取り直せていない。

 二人は目を合わさぬまま、それぞれのコーナーで待機する。

 お互いに背を向け、その瞬間が訪れるのを静かに待った。


(こりゃ凄いわ)

 背中越しでも威圧感が増しているのがわかる。刃物で切り裂くというより、巨大な鈍器のような圧迫感。肉体と精神を容赦なく粉砕する。

 流れていた汗が一気に冷たいものに変わった。さっきまでとは違った意味で心臓が大きく鳴っている。意識を強くも保たなければ、すぐにでも吞まれてしまう。

我ながらとんでもないことをしたものだ。

 『成る』のではないかと思ったが、まさかここまでとは。ラジオで楽しそうにお喋り姿はどこにもなく、手芸を愛する普段の優しき面影もない。

 怪物を作り出すとはこういう気分なのか。マッドサイエンティストになったみたいだ。己の手で生み出したモノに襲われるのも、実によくある展開である。

「た、戦えるのか。本当に、アレと」

 恐る恐る様子を窺う。ガジャドラスの掴んだロープが震えている。とても優秀な選手だが、あの状態のダンとは戦えない。戦うビジョンを描けないのだ。

 それくらい今日のダンは仕上がっている。下手すれば、この先だってあんな状態の彼とは戦えないかもしれない。

「やるさ。こいつは俺が招いたことだ」

 先が読めないのは同じである。自分が負けるという結末以外は、何も決まっていない。打ち合わせなどほとんどしていないのだ。

 ある程度してきたシミュレーションも全て吹き飛んだ。あれを見たら変えざるを得ない。本当にギリギリの状態だった。

 恐怖で竦みそうになる手足。肉体の震えが止まらない。不安と緊張で呼吸が止まりそうになる。素の瀬田小次郎ならとっくに逃げ出しているかもしれない。

 だが今は最凶ヒールのゲドキングだ。

 この舞台を徹底的に恐怖で染め、最悪の絶望を与え、どん底へと叩き落す。ならば相手が誰だろうと退くことはできない。最高の試合を作り上げるのだ。


「いいさ。全部受け止めてやるよ」

 頭の中にヤバい物質が零れていく。感覚が研ぎ澄まされ、流れる血潮が燃えていく。麻薬に浸るよりも心地よい。どんな快楽もこれには届かない。

 アドレナリンやドーパミンとは違う未知の物質だ。これを科学などで解明できるはずがない。リングに上がれた者だけが味わえるのだ。

 あれを何とかしてこそ一流。少しは師匠に近づけるかもしれない。


 コーナーに額をつけ、呼吸を整え、頭を整理する。


 ゴングが今、高らかに鳴った――。

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