異世界プロレス列伝
アンギラス
第1話 リングの下で
「ここはどこだ?」
瀬田小次郎は呆けながらも周囲を確認する。ほんの数秒前までいつもの稽古場でテレビを観ながら技の練習をしていた。コーナーポストからマットに向かって飛び下りたら、全く知らない場所にきていたのだ。悪い冗談にしか思えない。
「夢でも見てるのか」
頬を抓ってみるが痛みがはっきりと伝わってくる。軽く身体を動かしてみるが特に異常はなく、ジャージも脱がされた後はない。
誘拐されたのかもしれないと思ったが、すぐに頭の中で否定する。狙うならもっと金持ちの家を狙うだろう。
「師匠、どっかで見てるんですか。また何か企んでるんですか。何とか言ったらどうです」
恐ろしいことに一番可能性のある答えがそれだった。自分を鍛えてくれている師匠は突拍子のないことをいくらでもやる。だとしてもここまで気づかれずに実行できるのか。本当に一瞬としかいえないスピードだった。
石造りの部屋は八畳ほどの広さで、木で作られた椅子とテーブル、ロッカーが備えられている。どこかの控室といったところだろうか。もちろんテレビもなければ、冷蔵庫もない。
テーブルには見慣れた物が置かれていた。オープンフィンガーグローブとヘッドギア。ご丁寧に膝パットとマウスピースまである。手に取ってみるが出来はいい。
「誰かいないのか。カメラでもあるの?」
わざと聞こえるように独り言を呟きながら、部屋の中をうろうろと歩く。ドッキリテレビという可能性が一番高いので、みっともなく狼狽えている姿は晒さないようにする。それでも未だに混乱は収まらない。動いているのは少しでも心と思考を落ち着けるためだ。
いくら呼びかけても反応はなく、カメラも見つけられなかった。とりあえず外に出てみようと思ったとき扉が開いた。
「時間です。入場してください」
入ってきたのは同年代くらいの女の子だった。肩口まで伸びた黒髪に大人しそうな雰囲気。容貌は整っているが他者を惹きつけるというより、ひっそりと咲いている印象だ。
小次郎の姿を見て、目を丸くしながらぽかんと口を開ける。まるで時間が止まったかのように反応がない。何となく手を振ってみたが動じなかった。
「ちょ、まだ準備してなかったんですか。もうすぐ始まりますよ」
ようやくスイッチが入ったのか、顔を赤くしながら早口でまくし立ててくる。先程まで無反応だったのが嘘のように慌てていた。
「ああ。すまない。すぐに終わらせる」
全く見知らぬ場所にいるのに、警備員を呼ばれる様子はなく、女性は部屋を出て行ってしまう。
(なるほど。そういうことか)
何となく話が見えてきた。テレビかイベントの企画で勝手に連れてこられたのだろう。記憶がないのは睡眠薬か何かを飲まされたのかもしれない。自分の師匠ならこんなことをしてもおかしくない。本当に迷惑な話である。
かわいそうなのは彼女である。上の人間には打合せをしていただろうが、末端の人間には話を通していない。試合時間はもうすぐなのに何も準備をしていなかったら焦るに決まっている。
(問題は何をやるかだ。ボクシングじゃないよな。やっぱりシュートかな)
ジャージを脱いで、グローブとヘッドギアを装着する。下に自前のリングパンツを履いておいて本当によかった。下手したら無理矢理履かされていたかもしれなかった。
準備を済ませて、部屋を出ると女性の後をついていく。同じような部屋がいくつもあるのを見る限り、やはりあそこは選手の控室だろう。気になるのは蛍光灯や備え付けのテレビといったものが見られないところだ。これでテレビ局という線はなくなった。今時地方の古びたイベント会場でもあると思うのだが。
「あんたは何ていうんだ? 名前くらい教えてくれてもいいだろ」
廊下を歩きながら軽く質問する。緊張を解すためでもあり、少しでも情報を得るためである。何しろ未だに怪しさが拭えない。どこなのかもわからないからだ。
「私ですか? マリアと言いますけど。何か気になりましたか?」
戸惑いながらも口にする。こんなタイミングで会場スタッフが、選手から名前を聞かれることなどあまりない。こういう反応は当然だ。
「試合が終わった後で飯でもどうだ。あんたみたいな人となら楽しそうだ」
「えっ? はっ、な、何を」
あわあわと手を振る。こういうことに慣れていないのがすぐにわかった。尤もこんなことを言っているが、小次郎は誰とも付き合ったことはない。堂々と嘘をつけるのは師匠に教えを受けたからだ。普段のマイクアピール練習の賜物である。
「色々と迷惑をかけたからな。そのお詫びだよ。個人的に付き合いたいが駄目なのか」
構わずにどんどん押していく。もしどこかでカメラが回っているなら、こういうシーンは盛り上がるポイントにもなるからだ。
「も、もうすぐ試合が始まるんですよ。冗談は止めてください、ジェット選手」
出てきた名前に耳を疑う。一体どんな名前でエントリーされているのか。そもそも偽名を使う必要などあるのか。
「大変な仕事なのかい。随分疲れている風に見えるが」
「ええ。人手が足りなくて急遽呼ばれたんですよ。ほんとに忙しくて」
肩を落としているが目の光は明るい。小さな頃の自分と同じ目をしている。
「でもクラフトアーツは好きですから。近くで試合も観られるし、結構役得なんですよ」
クラフトアーツ。聞いたこともない格闘技である。名前からして恐らくマーシャルアーツなどの派生だろうが、日本にそんな格闘技があっただろうか。
ここまできて小次郎の頭は再び混乱し始める。一度出した結論は脆くも崩れ始めた。
(まさかここは外国なのか。いくら師匠でもそこまでやるかな)
発展途上国や貧しい地域なら、施設が整っていないのも理解できるが、あまりにも大掛かりすぎる気がした。海外に連れてこられるなら流石に気づくだろう。そもそも普通に日本語が通じているのである。考えれば考えるほど泥沼にはまっていく。
「あなたも格闘技歴が長いんですか。私と歳が変わらなそうなのに堂々としてますから」
「これでもそれなりに緊張してるさ」
これは偽りのない本音である。学生の身でありながら何度もリングに上げてもらったが、緊張しないことはなかった。心臓が激しく鼓動し、縮み上がるような感覚。肉体は熱いのに流れる血が冷えている。
また未だに何をやるのかわからない状態なのが、不安をより加速させる。ここが何処なのか見当もつかず、イベントマッチなのか、ガチなのかもわからないのだから。
それでも表向きは平静を保つ。怯えている姿を見せる訳にはいかない。プロレスラーとしての意地でもある。
(ごちゃごちゃ悩むな。どうせ試合をすることになるんだ)
顔を叩いて気持ちを入れ替える。小さな呼吸を何度か繰り返し、大きな呼吸へ。何があっても動けるように精神を良い状態に持っていく。
やがて通路が途切れ、大きな扉へと行き当たった。余計な説明など必要ない。ここは通路と戦う場所を隔てる境界線。この先には別の世界が広がっている。
(鬼が出るか、蛇が出るか。違いなんてほとんどないか)
マリアが扉を開く。差し込んでくる光に目を瞑る。ゆっくりと開いた瞼に映ったのは巨大なホールだった。規則正しく並べられた椅子には観客がそれなりに座っている。
中央には当然のように『それ』があった。この広い空間で何よりも巨大な存在感を放っている。今までうるさかった音が静かになっていく。視界が澄み渡り、雑念は完全に消え失せた。この状況で最も求めていたものがある。
ここが何処で、何をするのか未だにわからない。だが『それ』があるなら上がるだけだ。いや、上がらなくてはいけない。
「急いでください。遅れてますよ」
マリアと同じスタッフが慌ただしく動いている。どうやらかなり時間が押しているようだ。どう見ても日本人に見えない者が何人もいる。やはりここは外国なのかもしれない。
もう案内は必要ない。大地を強く踏みしめながら前へ進んでいく。導かれるように『そこ』へ辿り着いた。
「助かったよ。それと一つ大切なことを言い忘れてた」
ご丁寧に最後まで付き添ってくれたマリアの方を振り向いた。
「何かありましたか?」
怪訝な顔をするマリアを見ながら、小さく笑みを作り、静かに告げる。
「俺はクラフトアートの選手じゃない」
目が点になり、言葉を失う。言っている意味が理解できていない。頭がおかしくなったと思われたかもしれない。
「えっ、あの、何を言ってるんです。選手じゃないなら、あ、あなたは誰なんですか」
口調がしどろもどろになっている。何とか言葉を絞り出している状態だ。あまりに堂々としている様子を見て、どうやら嘘を言っていないことだけは伝わっているみたいだ。
「俺は瀬田小次郎。プロレスラーだ」
慌てふためくマリアを無視して、リングに上がる。ようやく戦場に足を踏み入れたのだ。
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