第5話

 人の記憶は薄れていく、というけれど、マチ子との思い出は、全てマコトの中で鮮明に残り続けていた。


 たとえば、中学の頃の合唱コンクール、緊張でガチガチになりながらもマチ子が弾いたピアノの伴奏。付き合い出して初めての冬、一緒に眺めた海の夕暮れ。皆で泳いだあと、カキ氷を食べながら盗み見たマチ子の横顔――。


 中学校に上がったマチ子が、ロングの髪をばっさり肩まで切った時や、高校の帰りにアイスの当たりくじを引いた時の様子。それから、ピアノのコンクールに出る練習をしていた真面目な彼女の背中だとかも、なぜかとてもよく覚えている。


 どうしてだろう。マコトは不思議に思ってしまう。


 どうして彼女のことだけは、こんなにも鮮やかに覚えているのか。


 ――これが、恋というやつではないのか?


 考えたマコトは、ふとお婆ちゃんの言葉を思い出した。答えは、きっと自分の中にあるけれど、大きく育つまでは分からないモノなのだろう。


「でも、僕の心の中には、どうやら既に彼女との思い出が溢れ返っているようだ」


 輝き出した夜空の星を見上げて、つい呟いた。


 まるで毎年冬を待ちわびている、彼女からもらったマフラーのようだとマコトは思った。鮮明で、その気持ちだって忘れることなんてできない。


 その思い出も、品物も、彼にとって宝物だ。それはマチ子自身が、マコトにとってもっと大切だから。


「そっか。ゆっくりでいいのか」


 マコトは、夜にすっかり飲み込まれた空を見つめていた。夜空には、あちらこちらに星が灯り始めている。


 なんとなく分かるようで、分からないような、言葉では言い表せないその素敵な気持ちがする温かさを、マコトは「恋」と呼ぶことにした。


 ――僕がマチ子を好きだという気持ちは確かで、僕はあの日からずっと、マチ子に恋をしている。


 マコトは、このままマチ子を待つことにした。


 静まり返った住宅路の中、家の中からは賑やかな声がもれていた。


 蒸し暑い夏の夜風が、何度も吹き抜けていった。空き地に停められた車の下から、休んだ一匹の野良猫がマコトを警戒して見つめていた。


 しばらくすると、一台のワゴン車が静けさを蹴散らしてやってきた。


 空き地に入る前に急ブレーキを踏んで、家の前に立っていたマコトの前で停まる。


「マコト君、どうしたの?」


 車の窓を開けたマチ子の母が、目を見張った。そこまで驚くことないのにと思って、マコトはおかしくなって軽く笑った。


「マチ子を待っていたんです」


 そう答えながら、運転席の向こうに彼女を見た。その途端に最後の悩みの尾も、息を潜めて自然な笑みが顔には浮かんだ。


 マチ子の母は呆れたようだが、ふっとマチ子を急かして車から降ろした。


「私はちょっと用を思い出したから、あんたは先に、マコト君と家に入ってなさい。いいわね?」


 マチ子の母は、マチ子に有無も言わさずにっこりと笑うと強い口調で言った。そしてハンドルを切り、空き地の臨時駐車場を越えてどこかへと走り去ってしまった。


 マコトは、マチ子と向かい合った。ぎこちなく苦笑したのちに、言葉を交わした。


「こんばんは、お誕生日おめでとう」


 そうマチ子が言い、


「うん、こんばんは。来てくれてありがとう」


 そうマコトは答えた。


 マチ子は、小奇麗なワンピースを着ていた。マコトが耳上の髪留めに気付くと、彼女は遠慮がちに笑った。


「リエちゃんにすすめられて、買ってきちゃったの。どうかな?」

「いいと思うよ。家の中で見せてもらってもいい? ここは暗くて、キラキラとしたデザインまではよく見えないから」


 マコトがそう続けると、マチ子は嬉しそうに頷いた。


「そうね。家で、見せるわね」


 そう答えた彼女が、ちょっと恥ずかしそうに視線を落とした。両手で持ったバッグは、彼女がピアノのコンクールの時にいつも持っている上品なものだった。


「リエちゃん達がね、可愛くして行きなさいっていうの。それで、その……」


 どうやら、ピアノのコンサート会場でもないのに、きちんとした服を着ているものだからマチ子は落ち着かないらしい。


 マコトは思わず笑ってしまった。


「大丈夫だよ、すごく似合ってる。僕の方こそ、ランニングウェアでごめんね」


 マコトがシャツをつまんで見せると、マチ子は安心したように微笑んだ。


 ふと、マコトは不意に胸が高鳴るのを感じた。もう一度、彼女が好きであることを心の中で繰り返す。


 そばにいて、こうして笑ってくれるのが、一番嬉しいことにも気付いた。


「ねぇマチ子、僕ら、恋愛未満なんだってね」

「あら、リエちゃん達に聞いたの?」

「皆そう言ってるよ」


 マコトは、マチ子の手を取った。 


 華奢な手は、ひんやりと冷たい。家の方へと一緒に歩き出しながら、手を握り返してくれたマチ子が小首を傾げた。


「私もね、皆にそう言われるのよ。でも、マコト君が好きなことは変わりなくて……」


 握る手に力がこめられ、マチ子の足が止まった。みるみる赤くなる彼女の顔を見て、マコトも頬をほんのり熱に染める。


 数十秒、二人は動かなかった。


 玄関の向こうから、どっと騒がしい声がもれた時にハッと顔を見合わせた。


「ゆっくりで、いいんじゃないかな」


 マコトは考えながら、そうようやく言葉を紡ぎ出した。


「ゆっくり、ゆっくり進んでいけばいいと思う。僕もマチ子が好きだ。こうやって手を繋いでさ、一緒に一歩ずつ、育んでいければいいね」

「うん、そうね。ゆっくり、ゆっくりでいいのよね。それまでこうして、手を繋いで一緒に進んでいけば、何も怖くないもの」


 マコトは、玄関前まで進んだ後、立ち止まってマチ子を振り返った。


 この前話していたドラマの真似で、また紳士を演じてうやうやしく礼を取ってみた。マチ子はすっかり緊張も飛んでしまったような、素敵な笑顔を見せてくれた。


「その時が来たら、僕とキスをしてくれますか?」

「はい。その時が来たら、私にキスをしてください」


 ふわりと流れていった夜風に、お互いのシャンプーの匂いが交じり合った。マコトは、今にも泣きそうな顔にしまりのない笑みを浮かべて見せた。


 隣に彼女がいて、笑わせている自分がそこにいると思うと、ただただ幸せで胸が熱くなった。もう、これで充分なのに、それでも胸の奥に芽生えた新たな熱は止みそうにもない。


 笑うマチ子が、世界で一番可愛いと思った。


 開けた玄関の隙間からこぼれた光が、彼女の姿を照らし出す。

 


 マコトは、なんだかとても、マチ子にキスをしたくなった。

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僕らが、いつかキスをしたくなったのなら 百門一新 @momokado

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