第4話

 午後五時。お婆ちゃんの家に、叔母さんが迎えに来るという電話が入った。


 少しばかり熱の収まった青空は、まだ日中の天気が続いている。沖縄の夏は、午後八時くらいまで平気で空は明るい。


「じゃあ僕、先に戻って待ってるね」

「大丈夫かい? 一緒に、車で行く?」

「ううん。叔母さんの車に、僕の自転車は乗せられないから」


 マコトは自転車を起こすと、来た道を戻るように走らせた。


 すぐに肌の上に汗がまとわりついてきたが、風が心地よかったので気にはならなかった。強い日差しは影を潜め、穏やかな明るい光がそこには広がっている。


 肺に、思いっきり空気を吸い込んだ。焼けたアスファルトと、土と、畑の匂い。そして、やはりすぐそこに見える海からの潮風がした。


 海は、まだ明るい日差しにキラキラと波打っていた。


 綺麗だ。産まれた時から、ずっと見てきたけれどマコトはそう思った。


 潮風の匂いを嗅ぎ分けていると、やっぱり家の近くにある船場を想像してしまう。二、三台の車が道路を走り抜けるたび、マコトはそこに叔母さんの持つワインカラーのワゴン車がないかと横目に見たりした。


 畑側から素早い影か飛び出して来たのは、しばらく自転車を走らせていた時だった。


 歩道を、畑から飛び出してきたマングースが横切っていったのだ。


「うわっ」


 マコトは、反射的にブレーキを踏んだ。だが運の悪いことに、タイヤの先端が石に当たって、走り去っていったマングースを確認する間もなく自転車は横転した。


 途端にアスファルトの熱気につつまれて、蒸し暑さを覚えた。右肘を擦り剥いただけですんだが、自転車で転ぶことなんて年に数える程度しかない。


 それが多く発生する誕生日は、やはり厄日以外の何者でもないのだ。


「やれやれ。まぁ、マングースをひかなくて良かったよ」


 マコトは、気を取り直して自転車を立て起こした。軽く倒しただけなので、自転車も無事だったのは幸いだと思った。


 何せ中学三年生の誕生日、つまずいた拍子に、自転車ごと海にダイブしてしまったことがあった。今日は、まあそんなついていないわけではないとも思える。


 家に着くと、父と叔父さんが、げらげら笑いながら庭で取っ組み合いをしていた。エプロンを着た母が、畳の大広間に二つ並べられたテーブルにお菓子やドリンクを並べている。


 マコトが手伝おうとすると、母が汗だくの彼を見つめて鼻白み、「風呂に入ってきなさい」と告げた。


 しばらくすると、家は賑やかさを増した。


 従兄弟のケイ兄が、大学の様子を母に語って談笑に華を咲かせた。酒を飲みつつ庭先で空手の試合を始めた父と叔父さんを、叔母さんが金切り声で叱る。


「んもうっ、ケーキもこれからなのに、あなた達ときたら!」

「叔母さん、それくらいじゃ父さんと叔父さんは止められないよ」

「本当に困った人達だことっ」

「まぁまぁ、落ち着きなさいな」


 お婆ちゃんは、そんな叔母さんをなだめた。オードブルや料理の並ぶテーブルに、紙コップなどを揃える彼女は嬉しそうだった。


「そうねえ。でも、そろそろ中に入ってもらわないといけないわねえ」

「ケイ君、あの人達をどうにか中に入れてちょうだい。クーラーかけるから」


 爽やかな笑顔が似合うケイ兄は、マコトが見守る中、父と叔父さんの試合に飛び込んだ。笑顔のまま、二人をあっさりと負かした。


「くそぉっ、現役を引退したくせに……!」

「お前、年々強くなってないか?」

「あはは。さあ。おじさん達、中へどうぞ」


 ケイ兄は、あくまで丁寧な物腰で促した。


 さすがケイ兄。マコトは感心するばかりだった。空手で複数の優勝記録を持っているだけはある。


「全く、お前にはすっかり敵わなくなっちまったな」


 父と叔父さんは、そうぶつぶつと言いながらテーブルの席に着いた。外はすっかり夕暮れ空になっており、淡い橙色の光が庭を温かく染め上げている。


 そして誕生日会が始まった。


 酒と料理が進み、各々好きなことをしながら食べていく。


 小さな従兄弟達がやってくると、お婆ちゃんが笑顔で出迎えた。オードブルの鳥肉を少しつまんだだけのマコトは、父と叔父さんにもまれるケイ兄を残して大広間を出た。


「母さん、マチ子から連絡はあった?」


 母は冷蔵庫から、新しいビール缶を取り出しているところだった。思い出したように「さっきあったわよ」と言って、マコトを見た。


「マチ子ちゃんのお母さんがね、一緒に映画を見に行った子達を送りながら、こちらに寄るって言っていたわ。ほら、こっちからだと南風原(はえばる)は遠いでしょう?」

「うん、そうだね」

「マチ子ちゃんのお父さんが、先に来るそうだから」


 その時、玄関の呼び鈴が鳴った。


 マコトは、母に「僕が出るよ」と答えて走った。玄関を開けると、マチ子の父が大きな顔を覗かせた。


「お誕生日おめでとう、マコト君」

「ありがとうございます」


 マチ子の父の声を聞き付けたのか、家の奥の方から「お~、ノブヒロかあ!」と嬉しそうな父の声が上がった。


「よしよし、上がってこい!」

「ったく、もう飲んでいるのか?」


 マチ子の父は言い返すと、マコトに「数十分もすればマチ子も来るよ」と微笑んだ。


 マコトは、落胆を隠した笑みを返した。玄関の呼び鈴が鳴った時、こんなに早く到着するはずがないのに、一瞬『マチ子だ』と期待して飛び出してしまったのだ。


「南風原町からこっちに向かうとなると、もう少しかかるよなぁ……」


 なんだか大広間の賑やかさに戻る気分でもなくて、マコトは玄関から外へと出た。


 夜の風景へと変わった空は、まだ東の空の方がほんのりと明るかった。頭上に輝く星を見つけたが、それが一番星なのか衛星なのかは分からない。


 どっちだと思う、と訊きたくても、隣にマチ子はいない。


 難しいことだらけだ。マコトは、一番星かもしれない輝きを眺めて思った。


 よくは分からないけれど、今、隣にマチ子がいてくれたらいいのにと思う自分がいることは確かだった。


 さっき玄関を開けた時、父の傍らに恥ずかしそうに立つマチ子を想像してしまい、あれは去年のことだったのだと直後に思い出した。

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