第4話

 都会には、本当に多くの人が集まるものだ。


 道路も歩道も、ビルも駅も、人、人、人の波が出来る。時間に余裕を作った憲明は、「恋を探すため」にわざわざ通勤を徒歩に変え、日常的に散歩をするよう心がけた。何日経っても、沢山の人間の中の一つに心が向かう事はなかった。


 男の数ほど女の数もある、また逆も然りというが、溢れ返る通行人の動きは彼の中で風景と化すばかりで、性別すら記憶にとどまらなかった。


 道を横切った野良猫だとか、電柱に頭から突っ込んだチワワだとか、ドーナツショップの前で母親にだだをこねる男の子は鮮明に覚えている。彼はそのたびに「やれやれ」と首を横に振り、自分の目的を心の中で復唱したりする。


 夏になると、憲明は毎年の恒例行事として、実家に戻って家族一同で食事会をした。他の兄弟達は、みな家庭を築いており、甥や姪達はすっかり大きくなっていた。憲明は話の間に口を少し挟む程度で、相変わらず酒が入っても外見に変化は見られず、両親と兄弟達の心配は拭われなかった。


 秋になると、外気は急速に涼しくなっていった。


 その間、彼は女性に対して「トクトクトクトク」とした感覚を何度か自覚した事はあったが、確かめる事は出来なかった。というのも、厳格さが容姿にくっきりとした彼にじっと見つめられた人間は、心の底から畏怖を覚え、男女関係なく逃げ出してしまうのだ。


 町中で迷惑行為をして平気な顔で過ごす若者も、憲明の姿を見つけると、途端に口をつぐんで慎重な態度で小さく息を殺した。鞄をぶつけて通り過ぎようとした女性も、彼が呼び止めると「何よ、たかが鞄でしょ」ときつい口調で振り返ったが、直後に息を呑むと「その、すみませんでした」と走り去って行ってしまった。


 よって、彼が「トクトクトクトク」の正体や原因を探ったり、確かめたりする事は出来なかった。それでも、彼は恋の兆候だと信じて疑わなかった。相手が男だった時や、明らかに恋とは別の感情が働く場面もあったものの、夢中になっていた彼は、それを苛立ちや不快感に結び付ける事が出来なかったのだ。


 よしよし、これはいい兆候だぞ。――憲明は次第に、達成感に似た満足を覚えるようになった。


 彼は夏以来、週一で医者のもとへ通うようになっていたのだが、この日もまた機嫌が良かった。「健康に充分に気をつけてちょうだい」と泣きそうな顔で母に心配された夏の一件があってからは、散歩がてらに例の医者のもとへ顔を出す、という関係が続いていた。


「恋、か……うむ。若い事は良い事らしいな」

「五十里さん、血圧が上がっていますよ」


 医者は、遠まわしで『聞き流します』宣言でそう言った。特に調べる事もないが聴診器をあて、舌の様子を診させてもらうついでに「虫歯がありますよ」と指摘したり、時々体重と心拍も計った。血液検査は、数カ月に一回ある程度だ。


 二人の付き合いは、早いものでもう十年になっていた。この頃になると憲明は、医者には自身についての事をよく語るようになっていた。


 彼は最近になって、自分は恋に興味があるのだと打ち明けた。憲明は初めて気兼ねなく、相談し語り聞かせる事が出来たし、医者の方も淡々と受け止めた。それは二人が友人として認め合っているからこそである事に、不思議とどちらも気づいてはいなかった。


「会社でも、心拍と体温が上昇しているのが分かるのだよ。歩く時も、随分と足が軽いような気がする」

「精神の動きを実感している、という事ですかね」


 医者は、首からさがっている聴診器に指で触れ、続いて自分のネクタイがしっかり元の位置にあるかを確認した。その間も、憲明は話し続けている。


「胸の内に敏感になった、とでもいうのだろうか。とにかく不快な感じはしない。自分で心音を感じるのは、実に不思議な事だが、例の本の六章にある症状の全てに合致するし――」

「五十里さん、血圧が上がっていますね」


 言葉数の少ない医者は、やや眉根を寄せ、微々ながらに困惑を声に滲ませてそうしめくくった。他にどんな言葉で憲明を説得していいのか、他人に疎い医者には分からなかったのである。


 医者は自分の事を棚に上げ、ここまで心に鈍い人間に出会ったのは初めてだ、と考えた。彼に遠まわしに事を尋ねられても、医者は普段から親しい友人との付き合いがないため、言葉をどう組み合わせていいのか分からない。的確な質問である場合は、相手に「失礼な奴め」と思われるほど正確に即答する事が出来るのだが、とにかく憲明との付き合いは、彼にとっても新しい事であった。


 憲明が医者に直球な質問をしたのは、だいぶ涼しくなった秋晴れのある日中の事である。憲明は、一つの確信をもと喜々として病院にやって来たのだ。


「一人の女性の肩がぶつかったんだが――」


 憲明は、珍しいほど饒舌に情景を語り出し、医者も彼と同じように、自身の確固たる意思のもと客観的にイメージするよう努めた。


 この日、憲明は毎週訪れる休日の時間を、どうやって消費するかぼんやりと思案していた。彼はこれまでに広い範囲を散歩していたので、今日はどうしようかと考えたのだ。恋を探すためとはいえ、ただ歩いて帰ってくるだけでは少々効率が悪いような気もしていた。


 社長である憲明の仕事量は、もちろん半端ではなかった。勤務外に書類や各情報を整理したり、経営成績のチェックも自宅に持ち帰る。メールのチェックは食事をとりながらでも行い、経済を含む新聞は必読品だ。しかし、ゆとりを意識してからは、絶対に通勤時間や休日には仕事を入れないように心がけてはいる。


 プライベートな用事であれば構わない。そう決めた彼は、散歩ついでにプライベートな何かを済ませてしまう事を多くした。


 しかし、私用をまるで考えない彼にとって、ずっと続いてくれる用事はなかった。しばらくするとネタも尽き、何かなかっただろうかと部屋の中を見回しても、アンティークの家具も絵画もどっしりと部屋に構えていて、特にこれといって欠けている必要物は見当たらない。

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