第5話

 その時、彼の脳裏に浮かんだのは、公園で鯉に餌をやっている人々の光景であった。以前そのそばを通り過ぎた際、えらく微笑みの似合う爺さんが「まるで自分が飼っている鯉のように思えてね」と、毎日同じ時間にやってくるような事を聞いたのを覚えていた。


 鯉か。いいかもしれない。


 餌やりの何がいいのか全く分からないまま、憲明は自宅を後にした。業務時間内とは違い、意識的にゆっくり歩く事を心がけていたから、充分に時間は稼ぐ事が出来た。


 都心の公園に着いたのは、昼食時間にはまだ少し早い時間だった。散歩がてら鯉のいる大池に辿り着いた時、聞き慣れたお昼のメロディーが遠くの時計台から聞こえてきた。


 彼は、少々古い型の「鯉の餌」自動販売機で一パック分を購入した。初老の男と三人の少年がいたので、憲明は彼らの隣から池を覗き込んで、見よう見真似で餌を投げ入れてみた。


 餌をやると、水面いっぱいに突き出た鯉の口が、気味の悪い生物のようにパクパクと餌を飲み出した。憲明は、動物に対して特に愛憎の分け隔てを持っていなかったが、その光景があまりにも衝撃的で、隣の少年に餌を押しつけて足早にそこを離れてしまった。彼が魚を不気味だと思ったのは、生まれて初めての経験でもあった。


 相変わらず人が町を埋め尽す中、彼は目的もないまま進み続けた。足先から指先までゾワゾワするようなおぞましさが、喉元までせり上がってくる。淀んだ暗い水面から、数百の鯉が一斉に大きな口を開ける光景は、彼の脳裏に忘れ難い強烈さでもって刻み込まれてしまっていた。


 その映像を振り払いたいとばかり考えていたので、この時は珍しくも、彼はそれ以外の事を何も考えていなかった。身体に鈍い衝撃があった時、彼はようやく我に返った。体格のがっしりとした彼は何事もなかったのだが、携帯電話を開いたままの少女が露骨に不機嫌な顔をして彼を睨み上げた。


 憲明が口を開く前に、顔が異様に黒い少女が、キラキラと光る爪を覗かせながら金髪をかき上げて「おっさん、邪魔だよ」黄色い歯を剥き出しに吐き捨ててきた。彼女の後ろから別の二人の少女が続いて、憲明の脇を通り過ぎていった。


 袖とスカートの裾が短い制服は、三人とも同じようで見分けがつかなかった。黒い顔も強烈な化粧の目と唇も金髪のカールも、振り返って見ると、一体誰が自分にぶつかった人間なのか見分けがつかなかったほどだ。


「しばらく、三人の後ろ姿を見送ったよ」


 回想して話し続けた憲明は、そこでようやく一息ついた。普段話しをしない人間であるため、ずいぶんと体力を消耗するその行為には、適度な休憩が必要である。


 聞き手になっている医者は、整った顔の冷淡な無表情面のまま一つ肯き、冷水の入った紙コップを彼に手渡した。彼は「ありがとう」と自然に礼を言って受け取った。クビリクビリ、と一気に喉へ流し込む。


「強烈な女子高生ですね」


 医者は一言、そう感想を述べた。それでどうして憲明の機嫌が晴れやかなのか、と彼は真剣に考え、それ以上掛ける言葉をなかなか見つけられなかった。しかし医者の中には既に、もしやこういう事なのでは、という嫌な予感に似たものが出来上がってもいた。


 すると憲明は、空の紙コップを脇に置くと、こう続けた。


「彼女達を見送るうちに、例の症状が出たのだ。微力だった鼓動が、次第にトクトクトクと脈打って――」

「いいえ、違います」


 医者が彼の言葉を遮った。


 憲明は怪訝そうに、まじまじと医者を見つめた。


「人の話は、最後まで聞いてから答えるものじゃないのかね」

「いえ、今まさに確信したところです。若い身体におっさんが染みついたような貴方なのに、どうして妙なところで幼いのでしょうね」


 無表情の奥で、医者は自分でも混乱している事がよく分かっていた。けれど憲明は、分からずじまいで一度だけ首を傾ける。


「君が言いたい事はよく分からんが、まぁ、聞け。実はだな、今度こそ分かってしまったのだ。今俺が感じているこの感覚が、実は恋だという事を。科学的にもぴったりと合致する」

「いいえ、違います」


 医者はぴしゃりと即答した。


「それは恋ではありませんね」


 彼は銀縁の眼鏡を、神経質そうに中指で押し上げながら視線を一度チラリとよそへ逃がす。


 医者はその短い数秒間の間に、憲明に恋ではない事を証明する方法を考え、そしてこう言った。


「たとえば、の実験を一つしてみましょう。いいですか。今から私のいう言葉を聞いていてください」


 憲明は「分かった」と肯いて、唇を横一文字に引き結んだ。


 医者は、すっと息を吸い込むと、彼の瞳を見据えて淡々と嫌味の言葉を連ねた。本来なら強い罵倒に使用されてもおかしくない、憲明ならよく知っているクレーマーが使うような類の言葉だったが、呪文の如く話す医者の唇から出て来る声は、ねちねちとした権力者のそれのようだった。


「どうです。これでも恋と言えますか」


 数分後、医者は変わらず機械的な口調でそう尋ねた。憲明は、じっくり考えるようにして自身の胸に手をあてる。彼の鋭い眼差しは白い床を見つめ、深く思案する様子が、沈黙の中に緊張した空気を漂わせていた。


 どちらかというと表情にも乏しい二人は、嫌な空気を感じるでもなく、見つめ合う形で目を合わせていた。視線での会話が成立しているわけではない。二人はそれぞれ全く噛みあわない意見を持って、私情の覗かない眼差しは無機質に混じり合うばかりだ。


 次第に、憲明の顔に僅かな困惑が浮かんできた。それは眉根をほんの少し寄せるほどの微々たるものだったが、途端に医者の顔の中で秀麗な眉がピクリと反応した。


 医者の膝の上に置かれた中指が、トントン、と白衣を叩き始め、組んでいた足が降ろされる。


 しばらくして、答えを待つ医者に向かって憲明はこう尋ねた。


「先生、俺は先生に恋をしているのだろうか」

「いいえ――」


 答えながらも、医者はすぐさま憲明を外に追いやっていた。淡々とこなされる手際は、素早くて無駄がない。憲明は席を立たされた途端にクルリと回れ右をされ、気付くと扉の外に立っていた。


 彼が振り返ると、そこには相変わらず表情のない医者の顔があった。


「――違います」


 医者はそう言葉を締めくくり、ピシャリと扉を閉めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る