第3話
仕事に忙殺された七年間、憲明は、ますます「恋心」というものに強く惹かれていった。
自身に一番疎い感情の動きといった事に関して、彼はまるで子供以上に無知なまま年月を送ってしまっていたため、それについて真面目に考え続ける姿勢は、どこか滑稽ですらあった。けれど外見や生活の様子に変化が出ない性質は、部下達や両親に、彼のそんな心境を知らせなかったのである。
三十二歳になった憲明は、確かに擦り切れるほどにまで読み込んだ「指南書」の甲斐もあって、知識の方は進歩していた。恋の予兆とは、どうやら胸がドキドキするらしい事を、彼はつきとめていた。
上半期の決算が終わった頃、遅すぎる初恋を求めた彼は、行動に移さなければならないと本格的に考えた。二十代の頃とは違い、実績も経験も積んだ若社長には少々時間のゆとりがあった。
憲明が、自身についてひどく疎い人間である事は明確だったが、そのため、三十二歳になるまでに彼が病院に運び込まれた回数は、すでに十を軽く超えていた。
突然身体が強張って意識がなくなり、ふっと記憶が途切れた後には病院にいる事が常だった。疲労の感覚を知らない憲明は、「何故こんな事が起こるのだろうか」と真顔でかかりつけの医者に尋ね、そのたびに医者は真面目くさった顔で「過労ですよ」と答えたのだ。
憲明は、独立した後は五十里家の通う大病院から足を遠ざけ、ある町医者を自身のかかりつけ医としていた。
会社を立ち上げた際、「腕がいい」と取引き先の男に紹介されたのがきっかけだった。その病院では大きな病気の早期発見率も高いらしく、ケアに対しても手厚いと評判があるようだった。
憲明は医療に凝る方ではなかったが、当時は副院長ですらなかった三歳年上の、彫像のように無表情なその医者を指名した。
そいつは表情に愛想の欠片もなく、鋭い切れ長の瞳や整った面長の白い目鼻立ちは、声からも感じるそっけなさを一段と強めた。けれど医療を商売として見ているわけではない、どこか身近に思える町医者を目指す彼の淡々とした姿勢や風変わりなその雰囲気を、憲明は不思議と気に入っていた。
気付けば「紹介だから」という気持ちすら忘れて、彼はそこへ定期検診に通っていた。当時家を出たばかりだった憲明と、冷たい外見と話し方のため周囲の人間に誤解を与えてしまう、人の良いその医者の二人は、お互いの不器用にも気付かぬまま友人となっていったのだ。
二人は、どこか似た者同士だったのだが、医者の方は憲明と違って相手の心には疎くても、自分の気持ちには驚くほど素直な人間だった。研修時代に出会った一回りも年の離れた患者の少女に一目惚れし、それを面と向かって彼女に告げたほどである。彼女が成人した後に二人は結婚しており、双子の男の子と可愛らしい女の子が誕生していた。
「君は、どうやって結婚をしたのだ」
秋晴れの続いた週、憲明は過労で倒れた後の面談で、ふとその医者に尋ねた。すると医者は、相手が患者である事を思わせない露骨さで、馬鹿じゃないのか、と顔を顰めた。
医者は、一度目頭を揉むように瞼を閉じ、細い銀縁眼鏡を人差し指で押し上げた。そして数秒ほど時間を稼いだ後、目尻の皺もみあたらない鋭い眼差しを憲明に戻して、こう言った。
「恋をしたから結婚したのでしょう。世には政略結婚やお見合いもある、とは思いますが」
「『運命の相手なら分かる』というやつか。十八章に書いてあったな」
「――は?」
医者が間の抜けた声を上げた。憲明は、毎日のように目を通している本を思い浮かべながら「なんでもない」と上の空で答えた。
医者は、彼が自分の思考に没頭している事に気付いていたが、――注意を促すような咳払いでもしようかと一瞬は考えたが、結局は面倒になって――機械的に口を動かした。
「とにかく、あなたには休養が必要です。忙しい中に身を置きすぎています。少しスローダウンした方がいい――と、あなたの部下も思っている事でしょう」
不器用な医者が眼鏡を中指で押し上げた時、憲明の方は心筋梗塞の生々しい写真が載ったポスターへ視線を向けたまま、ほんのりと夢見心地な顔をしていた。事情を知らない人間が見たら、勘違いを起こさせるような光景だった。医者は、余計に彼の事が心配になった。よく眠れる薬とビタミン剤を、多めに出してやった。
憲明が恋の予兆を探す事を実行に移したのは、退院したその数日後の事である。とにかく「指南書」でも勧められていたように、自分から町や公園を散歩する事にしたのだ。
独りで目的もなく町を散策するのは、初めての経験だったが、観察というのはなかなか面白いものであった。鳩は一羽ごとに柄が極端に違っていたし、いつもは素通りする町に沢山の物音や声が溢れている事にも気付けた。
こんなにも人間がいたのか、と彼は不思議に思いながら立ち止まって人混みを振り返り眺め、そこからたった一人の恋の相手を探す方法について、ぼんやりと考えたりした。
七年の努力は、憲明をすっかり変えてしまう事は出来なかったが、文豪の作品と同じ要領で得た知識だけは一人前だった。
一目で恋人同士と理解出来る男女には目が留まったし、表情や仕草を見て「あ、こいつは恋をしている途中なのだな」「相性が正当ではなく、そろそろ別れてしまいそうなカップルだ」「女をリード出来ていない男だな。こいつは恋なんてしていないんじゃなかろうか」と、彼なりに分析するまでになっていた。
彼はその他に、努力によって得た大きな成果を一つ得ていた。
最近「ドキドキ」というやつを自覚し始めているのだ。
確かに心拍が上昇し、胸の辺りがトクトクトクトクと脈打つのが分かる。耳元まで感じるほどではないが、ほんのりと体温も上昇しているような気がする。それらの全ては、「指南書」に書かれている症状とほぼ一致していた。
これは恋の兆候だ。
憲明は、その予兆を信じて疑わなかった。胸が「トクトクトクトク」とするのは、いつも前触れがなく大抵不意にそれを覚えた。気付くのが遅い時もあれば、瞬時に脈打つ鼓動を自覚する時もあるなど、その辺は曖昧である。おかげで分析は早急には出来そうにない。
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