第2話

「ははは、社長らしいですね。実は、彼女が女優志願だったのを覚えていますか? オーディションで選ばれて、デビュー作で賞をもらったらしいので、そのパーティーの招待状が届いているんですよ。ビデオも用意してありますので、出席する前に、その映画を一度ご覧になってみてはいかがでしょうか」

「分かった。見ておく」


 渡された映画は、有名な監督が初めて恋愛をテーマとして作った映像作品だった。田舎暮らしの若い娘と、都会からやって来た男が出会い、なんでもないような風景の中で、その恋の過程が語られていくものだった。


 憲明はこれまで、映画というものを見た事がなかった。これが普通なのかと思いながら――映画というやつはどうしてじっと座って見ていなければならないのか、この間に俺はもう一仕事出来るんじゃないのか、と彼は苛々した――台詞がほとんどないその作品を見始めた。


 どうやらこの映画は、主人公の二人が静かに寄り添いあう風景描写に、恋の苦しさや甘さが表現されているらしい。憲明にも、それぐらいの事なら理解は出来た。


 でもそれだけの事である。彼は座って五分もしないうちに欠伸をもらし、何もしないで座り続ける歯がゆさに貧乏揺すりを始めた。


 しかし、はじめは「くだらん」と頬杖をついて欠伸をもらしていた憲明だったが、次第にテレビ画面から目を離せなくなった。会社から帰宅したスタイルのまま、気付けばただ沈黙して映画を見入り続けていた。


 一時間もない映画が、ほとんど台詞もなく終わってしまうと、彼はそれを再び冒頭にまで巻き戻して鑑賞した。深い夜が沈んで行き、次第にカーテンの外が白んで来るまで、憲明は動く事を忘れてしまったかのように、テレビの前から動かなかった。


 映画の中で流れる二人きりの風景や、彼らの短い台詞の一つ一つが、憲明の耳にこびりついて離れなかった。理由(わけ)も分からず、彼は恋人達の短い言葉のやりとりに耳を傾け、心に対して急速な興味を覚え始めたのだ。


 憲明は、恋という感覚に惹かれた。


 それが、どういう風に感じるものなのか、彼自身全く予想もつかない。


 けれどテレビ画面に流れる二人の風景を何度も目にしているうちに、何故かソレが欲しいと強く思った。二人で見つめ合い、そっと寄り添う間に孤独がないのだという事を、その時の憲明はまるで気づかなかったのだ。


 彼はビデオを止めると、慌ただしく身支度を済ませ、車庫と庭のついた広い一軒家を飛び出した。すぐさま会社へと向かい、常に早朝の暇を自宅で持て余しているその会長に電話を入れた。


 娘の主演映画を見た、という憲明からの予想外の連絡に対して、会長はこれまでの接待以上の興奮と喜びを見せた。憲明は、人との会話で胸に熱を覚えたのは初めてだったので、どうしてなのだろう、としばらく考えたが、結局答えは分からなかった。


 彼が唐突に父の声を聞きたくなったのは、その直後の事である。


 朝も早い時刻だというのに、憲明は用件もなく実家へと電話した。母と手短に挨拶を交わした後、父から近況と他愛のない話を聞く。何か用があったのかと尋ねられれば、自分から話す事など特にない事を思って首を傾げるばかりだ。


 しかし父は、親としての勘を働かせて憲明にこう言った。


「私は、常々お前の幸せを願っているのだ。妻と出会い、お前達に恵まれた事が一番の幸福だと思う。昔、お前のために参考にしようと読んでいた本があるのだが、もうお前が持つに相応しいだろう。実をいうと、私が父親となって、一番恥ずかしい買い物がアレだったように思う。馬鹿らしいといって捨ててしまっても構わない。その本を、お前に贈ろう」


 それからしばらく、憲明は父から送られてくる本の存在を忘れていた。例の映画の影響で探究心が昂っていた彼は、その日の内に書店を訪ね、心や恋に関わるすべての本を、手当たり次第に購入して持ち帰ったからである。


 翌日が休日とあって、その日購入した書籍はリビングいっぱいに広がった。彼は鷹の目の如く鋭い眼差しで活字を追って頁(ページ)をめくり、一分一秒でも早く情報を知り得ようと必死に取り組んでいった。


 子供向けの絵本のような簡単な解説書から専門書、今の女性に流行(はや)っているという恋愛本まで、彼は片っ端から読破していった。ある種の系統の本になると、身体に現れる心拍異常や特徴のような、たとえば「恋をするとアタシの耳元までドキドキする」や「彼に触れるとアタシの指先までジンジンしてくる」といった直接的な書き方がなされていなかったので、書店で流し読みした彼は見本にならないかもしれないと、手をつけない事を決めた。


 父が七年前に購入したという本が届いたのは、それから数日後の事だった。几帳面な父らしく、保存状態が良く傷みの少ない文庫本は、それでも、何度も繰り返し読まれた形跡が見て取れた。


 様々な関連書を数日で読破していた彼は、恋愛指南、と記されたその本の題名を見て胡散臭さを覚え、桃色の背表紙にはうんざりと顔を顰めた。何気なくその本を拾い上げた拍子に、一枚の手紙がハラリと落ちた。


 それは父からの伝言だった。それを読んだ時、文庫本に抱いた彼の第一印象は一変した。


『憲明へ。この本には、あまりにあたり前の事ばかり書かれていたので、あの頃は全く参考にならなかったのだ。私が経験して感じたような事ばかりが、ただ簡素に書かれているだけで、それは中学生が読むような、まあ、そんな本だよ。ようやく先日になって妻に打ち明けたのだが、一読するなり笑われてしまった。けれど、あの時は、私だって必死だったのだよ。時が来たら、もしお前の必要になるのならと思って大事に取っておいたのだ。/父より』


 父が、母と恋をして、感じた事が書かれている本。当たり前の、男女が恋をした時に感じる事がまとめられた内容の――それが、憲明に興味を呼び起こした。


 期待して試しがてらに読んでみると、その文庫本は題名が記す通りだった。憲明には、恋に関する全てがそこに書かれているように思えた。恋の出会いや発展までが、簡易でありながら分かりやすく説明されている。


 文字は専門書のようにぎっしりと詰まっているわけでもなく、まるで子供向けの詩集や、童話のように読みやすい。三十六からなる短い章の間には、ほんのりと葉や月や雫のイラストが付き、なぜか不思議と見飽きない水彩でもあった。


 憲明はいまだ、自身が孤独である事に気づいていなかった。彼はただ、自分も「恋」とやらをしてみたいと思っているにすぎないから、寄り添ってくれる人のいる人生を自分自身が渇望しているなどとは、まるで考えもしなかったのだ。


 恋とは、一体何なのだろう?

 恋とは、一体どこに宿るモノなのだ?


 そして、なるほどと思う。恋とは、とても素晴らしいモノであるらしい。指南書にある通り、俺はまず、恋の予兆とやらを探さなければならない。


 けれど働き盛りの二十五歳の青年実業家は、あまりにも多忙すぎた。彼は利益の拡大や信頼の固定といった、様々な事に追われた。


 しかしながら、彼が自身について、最も疎い人間だったのは救いでもあった。先頭を切って動き、会社を指揮するクールな彼を、部下達は尊敬の眼差しで見つめた。憲明は二、三時間という睡眠しかとる事のできない毎日に、疲労の気持ちを知らないがために疑問すら覚えなかったのである。

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