第三章:営業
第14話
ジョコジョコジョコジョコジョコジョコ――アラームの音が鳴る。月曜日の朝、七日間に一度だけ訪れる社会人にとって最も厄介な一日。イコは、眠気眼を寝間着の袖で擦りながらも、ゆっくりと持ち上げた。瞳は、まだ景色を完結させていない。全体の線をぼやけさせ、朝の憂鬱さから健全な精神を隔離している。鼻をくぐる香りは、朝の爽やかさなど持ち合わせず、自分が何年も匂いを付け続けた布団が持つ、体臭が重ね塗りされた他人には受け入れがたい個人資産だけをもたらしていた。薄汚い個人資産は、金貨などの金属臭に特有の優越感を付属するように、己だけの王国を厳重に保護していた。そんなあらゆる束縛を振り切り、なんとかイコは上体を起こした。
土日を利用した魔導書庫探索は、イコに疲労感とウィッチを与え、期待感と達成感に望みの褒美を与えなかった。憂鬱に体の操舵権を渡し、右手で上体を支えようと布団につけば、ムニョリと何か柔らかいものを揉みしだいた。昨晩も深い夜に追い越されることなく魔導開発に明け暮れたから、隣に美女が寝ている可能性は低い。とはいえ、彼も二十代後半の年頃の男、魔導のような完全性とはかけ離れた、一か所のバグのようなミステイクがあっても何らおかしくはない。夢の中で膨らませた妄想をそのままに、イコは隣の柔らかさに桃色の期待を込めて視線をやった。そこには、黒いスライムが寝ており、その少し上に頭蓋骨が転がっている。実際のスライムは、頭蓋骨が外れないはずだが、どうにもウィッチにそうした常識は通用しないらしい。
「…な、なんだ?」
突然全身を揉みしだかれたのだから、当然ウィッチは目を覚ましてしまった。そんな彼を面倒くさそうに右手で持ち上げ、イコはポヨポヨと揉み続ける。
「や、やめっ」
「なんというか、適度に湿り気があって…リアルだな。何がとは言わんが」
「止めんか!馬鹿者!」
フニョリと体を捻り、ウィッチはイコの手から脱出した。布団の上で何度かバウンドすると、犬のように体をブルブルと振るう。スライムの身体可動域は、軟体動物なみであるようで、イコは興味深そうにその様子を観察していた。
「…む?今日は、昨日言っていた「出社」か?」
「正解だ」
「では、吾輩も連れて行ってくれたもう」
「理由を聞いても?」
「現代の魔導について知る為に、是非職場を見学させて欲しいのだ。魔導に携わる会社に勤めているのだろう?」
「そうだが…ま、いいか。申請さえすれば、使い魔の同行は禁じられてないしな。会社員の使い魔なんてペットみたいなものだし」
「おぉ!ありがとう、心からの感謝を」
「気にするな。それより、申請には名前が必要になるんだ。教えろ」
「そ、そんな横暴に名前を聞かれたのは初めてだ。とはいえ、今は候の身。我が名は「アレイスター・クロウリー」である」
「なっが」
ウィッチは、イコの二文字からなる即答に、どんよりと表情を暗くした。そんななか、イコは以外にも豊かな表情が作れるスライムという生命体に興味を抱いていた。朝食にベーグルを一つ咥え少し天井を眺める。
「じゃあ、真ん中を取ってスタークって呼ばせろ」
「…ふむ、スタークか。悪くない」
明らかに表情が切り替わり、何故か笑みを零すスターク。そこに先ほどまでの暗さはなかった。イコにとって名前とは、符号的な意味合いしかなく、心から呼ぶのが面倒だったから仮名を付けたに過ぎない。とはいえ、スタークの反応を得て、これから名前に対してもう少し慎重になるべきだと学習していた。
――◇◇◇――
イコは、スタークを肩に乗せ、自社ビルを見上げていた。背後には車が走るも、地球のようなエンジン音はなく、風切り音だけを鳴らしていた。一見すると鉄筋コンクリートにも見える灰色の50階建て木造ビルは、あくる日のサイクロプスのような迫力がある。地球では成立しないような高層ビルの建材も、魔導による硬度の強化があれば材質は軽ければ軽いほど好まれるようになる。街並みを木造ビルが支配するのは、当然のことだった。その代わりに、形状よりも色合いで個性を見せようと、他のビルは赤だったり黄色だったりと、子供が適当に積み木を放り込んだおもちゃ箱のような街並みが完成していた。
「これが…ビル。昔は石を並べたものだが、今は木を組むのか」
「バヘイラ建国当初は、昔の石造建築をぶっ壊すのが大変だったらしいな。その点、木なら必要なくなったら燃やすだけ。ちゃんとバリアを張れば、燃え広がることもない。利便性の高い建材を求めて木に辿り着くのは、ある意味当然だったのかもしれねぇ」
「確かに論理的思考だと言えるが、当時はその領域に辿り着けるほど、国家間の仲が良くなかったのも原因だろう。戦争を警戒すれば、木を建材になど出来まい」
「ま、バヘイラは他国と大分技術差があるから、木でも十分戦争に対応できるけどな」
「そ、そうなのか!?今度建材を強化する魔導陣を見せてくれ」
「国家機密に決まってんだろ。普通に公表されてたら、他国に真似されまくりだし、脆弱性を発見された暁には、目も当てられん事態を招くだろうが」
「た、確かにな。流石に諦めるか」
「…とはいえ、今度俺が解析したやつを見せてやる。本物を見たことはないが、9割がた正解だと自負している」
「ほうほう、そうした談義を膨らませるのは好きだぞ」
彼らは、不気味な笑みを浮かべながらビルを見上げていた。
「ちょっと君、何をしているんだ!スカル・スライムを連れて、見るからに怪しいよ!」
すると、紺色の制服を纏った男性警備員がイコの肩を叩いた。
「あぁ、いや。ここの社員なんですけど、久しぶりに見たら良いビルだなって」
「ここの社員さん?社員証あるの?」
「これです」
会社用のリュックサックから、IDカードケースを取り出し、それを警備員に見せた。
「…ふむふむ、大丈夫そうだね。君もあんまり紛らわしいことしちゃ駄目だよ。最近は色々あって、厳しくするように要請が来てるんだから」
「色々って、何かあったんですか?」
「そんなことも知らないの?駄目だよ、自社のことはしっかり知ってなくちゃ。あんまり声高には言えないけど、魔導企業を狙うテロ組織が暗躍してるらしいよ。マイクロスクロール社なんて格好の的だから、我が社でも特に厳しく警備をしているんだ」
…テロ組織…か。言われてみれば程度だが、イコもその手の知識を知らないわけではなかった。なんでも、魔法の開放を目的としたテロ組織がいるらしく、魔法に知的財産権を設けている点に不満があるようだ。どうにも魔導による金儲けが気に食わないらしく、魔導企業を標的にしているらしい。いくつかの企業は、既に小さな被害を受け始めているらしく、配達物が届かなかったり、書類の一部が紛失していたりと被害は様々だった。
「あぁ、エブソックの方でしたか。毎日ありがとうございます」
「いやいや気にしないで!これも仕事だからさ!」
「警備会社は危険と隣り合わせですから、大変そうですよね」
「まぁねぇ…でも、そんなこと言っていたら家族を養えないからさ!」
「いやぁ、俺も頑張りますよ」
「ハハハ、若者はいいねぇ!」
「ところで話は変わりますけど、使い魔の申請がしたくて」
「あぁ、いいよ。じゃぁどっちにしろ警備室に来てもらうことになるね。偽装を避けるために、申請書は決められた場所にしかないんだ。さ、こっちに来てよ」
警備員は、嬉しそうにイコの先導を始めた。
前を歩く彼をよそに、肩から小声でスタークが感想をもらす。
「人並みに敬語も使えるのだな」
「うるせぃ」
警備員の後に続き社内に入ると、幾人もの会社員が二人の前を通り過ぎる。右へ左へと通過する社員たちは、いつもよりも早歩きだった。
「騒がしいな。緊急事態か?」
「不正解だ。ま、知らなきゃ解らなくて当然だけどな。近々ワールド・マジカル・エキスポ、略称WMEが開催されるんだ。要は、世界中の企業が集う自社製品発表会だな」
「ほぅ、それは是非参加したいところだ。現代魔導が集う素晴らしい機会じゃないか」
「ついてきたきゃ勝手にしろ」
冷たい返事をするも、拒否ではないその言葉に、スタークはイコの人柄を学び始めていた。横暴な口調に横柄な態度という最悪の組み合わせは、彼の優しさに黒い布を覆わせている。光が差すのを待とうとも、黒は中々内側を透けさせない。彼の人柄を知りえるには根気が必要なのだ。布に覆われた真実を知らなければ、同僚も危険なダンジョンには同行しなかっただろう。スタークは、薄ら笑いに自分の思考をそっと隠した。
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