第4話


 第零部隊に所属する男が自席に戻ると、早速デスクに先程奪った書類を広げた。最初に仕様書に細かく目を通し、依頼主と自身の間にある認識のひずみを知識で丁寧に埋める。筒状に丸められたスクロールを広げると、そこには魔導陣が描かれていた。


 右手から腕時計を外し、スクロールに描かれた魔導陣の真ん中に置いてから、文字盤を包むケースを、12時を基点に右に二回転、それから左に一回転させながら、ケースの外周上にある赤い点を四時に合わせ、更にケースを押し込むとカチッと音がなった。するとスイッチをきっかけに、腕時計からスクロールに描かれた魔導陣が浮かび上がった。腕時計の裏側には、スクロールの魔導陣を吸い出す機構がある。


 腕時計は、マイクロスクロール社が開発・発売をしている製品の魔導記憶機構「マイクロスクロール」である。時針、分針、秒針に対応した数の魔導を記憶でき、それぞれの針が12個ずつ、計36個の容量がある。それぞれの針に対応した三つの「りゅうず(腕時計の側面のねじ)」を数字に合わせて回転させると、二時なら二時の魔導陣が発動するというわけだ。男が行った動作は、魔導陣登録の所作である。


 男は、記録した魔導陣を早速発動した。腕時計から、直径十センチほどの魔導陣が浮き上がり、一秒ほど男の指先で、線香花火のように小さな光がチカチカと点滅を繰り返していた。間近でなくては、見逃してしまう程に小さな作用だった。


 …うん、バグってるな、と男は嬉しそうに笑った。彼にとってバグとは、好物のケーキに等しい。男の名前は「N・イコ・ラス」。白髪のマッシュヘアで、定規で引いた線のような前髪が眉毛を通り、後頭部にまで続いている。後ろは刈り上げで、おしゃれさと清潔感を両立させていた。細い金縁の眼鏡のレンズの向こう側には、小さな黒目がキョロキョロと動き回る。背は185センチと高く、やせ形で色白い肌をしており、長身を深緑のドクターコートのような研究作業着が包んでいる。開いた前ボタンの奥に、深い茶色のワイシャツ、下には黒いズボンという出で立ちをしていた。


 通常なら、社内で魔導を起動する場合、上階にあるテストルームを使う必要があるが、イコだけは、オフィス内での起動を許されている。入社時に、イコが魔素保有量測定器にて、「1」という数値を叩きだしたことは、余りに有名である。イコは、ほとんどの魔導を起動しても、微細な作用しか起こせず、それに目を付けたラナが、上司より魔導起動の特別許可を取得したというわけだ。尚且つイコは、その微細な作用から、魔導陣のバグを見つけてしまう天性の才能があり、彼のデバック能力を飛躍的に向上させていた。ここで考えられる問題点は、魔素の過剰使用による欠乏症である。極わずかな魔素しか持たないイコは、一度でも魔導を起動すれば、魔素が枯渇してしまう。例えば、とても小さな小銭入れしかない財布を想像してみてほしい。さながら満員乗車状態の小銭入れから500円玉を取り出し、101円の商品を購入したとする。返ってくる399円のおつりは、小銭の数に換算すると、13枚になる。次に体積に換算して500円玉と399円を比較すると、当初よりも確実に肥大しているはずだ。人体には、呼吸から体外の魔素を取り入れる性質があり、イコの場合、体内から全ての魔素を支払ったとしても、呼吸による釣銭の方が大きくなる。その為、魔素欠乏症にはならず、無限に魔導陣のバグを検証し続けることができてしまうのだ。


 イコの対面に座るミームは、スクロールをニンマリと不気味に眺めるイコを観察し、


「ほんとぉ、イコさんって変人ですけど、凄いですよね」


 と、心からの感想を零した。


「そうねぇ。テストルームだってワークスペースだから、使用するには、それなりの申請時間が掛かっちゃう。それが無いだけでも、相当なバフなのに、根幹の処理速度も尋常じゃないから、正直言って無双状態なのよねぇ」


 未だにチェリアの背後に立つラナが、頬に手を当てならが気だるそうに答えた。二人とも対面からイコを眺めるも、実際の距離以上に遠く感じてしまっている。当然、そんな二人との感情的な隔たりに気付くこともなく、イコは作業を続行していた。…確か仕様書には「最強の卵焼き」だとか書いてあったな。とある一流シェフの全ての火加減を完全再現するための火力調整用魔導で、フライパン型魔導記録機構「ホームシェフ(他社製品)」に登録して使う専用魔導陣だったはずだ、とイコは、情報を脳内にて整理していた。イコは、テスト起動時の微細な反応から、とても細かな熱変動が起きていることに気付いていた。一流シェフの火力調整は、卵焼きだけではなく、魔導陣さえもふんわりとさせているようだった。魔導陣の熱変動構文に、イコは目を付けた。へぇ…今時珍しい。繊細な操作が得意なAELF言語を用いてるな、と観察の結果、素直に感心してしまう。


 エンシェントエルフ言語、通称AELF言語。古いエルフが用いた言語で、一つ一つの構文が長く、術式容量が肥大化してしまう。その為、現代では余り用いられなくなってしまった魔導言語である。そうした弱点を代償に、多言語よりも深い意味合いを持つ構文が多く、より繊細な魔導を開発することができる。


 熱変動構文内のミスを探る為に、イコは再度魔導を起動した。小さな光の点滅を、ジッと観察してから、視線をスクロールに戻した。…やはり、記載されてる熱変動と少しだけ違うな。おそらく、そんな複雑なミスじゃない。AELF言語の意味合いが深すぎて、解釈間違いしてるっぽいな。そのせいで、優先順位付けをミスったって感じか。


 イコは、仕様書を閉じて表紙に戻った。…ほうほう、担当者は二人…か。興が乗って、新しいことに挑戦しちゃったんだな。題材そのものは確かに面白いし、魔導言語の厳選も目の付け所がいい。でも新しい魔導言語に挑戦するなら、もっと専門家の意見を取り入れるべきだった。じゃなきゃ、初歩的なミスに足元を掬われちまう。まぁ、そのおかげで俺達みたいな桶屋が儲かるから、親切に教えてやることはないが。


 イコは、魔導陣専用のペンを持つと、サラサラとスケートリンクを滑るように走らせ、決まったプログラムをこなすように修正を始めた。使用頻度が低く難解な魔導言語であるAELF言語も、イコからすれば母国語に等しかった。


 今回の火力調整魔導は、魔法等級でいうと「中級」にあたり、容量は124MB

(メガバイト)である。通常なら、三人がかりで一日はかかるデバックだが、イコならば一人で一時間ほどしか要さない。普段なら、ラナは「上級」以上の魔導を持ち込むが、今日に限り大量のデバックをこなした後だということで、安いデバックを持ってきたのだろう。

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