第一章:灰社員の日常
第3話
ここは、株式会社マイクロスクロール、世界NO1シャアを誇る携帯型魔導記憶機構の「マイクロスクロール」を開発した実績ある大企業である。
マイクロスクロールのような魔素を動力にする「魔具」だけではなく、魔導そのものの開発をも手掛け、ほとんどの生産レーンを自社にて完結させている。バヘイラ国内だけではなく、他国にもマイクロスクロール社の支社があり、事実上世界NO1の企業である。
そんな大企業の本社の中でも、特に苔むした地下一階にて、一人の少女がデスクでうつ伏せになり眠っている。睡眠中だというのに、彼女の無気力さは、存分に周囲に伝わるのだから、よほど疲れているようだった。まるで、地面に投げつけられたスライムが、ひしゃげて広がっているかのように無気力な様だ。
そんな彼女の肩を、同僚が揺さぶる。すると、ガバッとメンコがひっくり返るように、凄まじい勢いで少女の上体が起きた。彼女の口元には、ちらりと光が…涎だ。
「にょにょにょッ…にょうき(納期)は?」
彼女の名前は「チェリア・ファスト」。栗色の髪を、スカートみたいにふんわりと浮かせたボブヘアと、淡い青色の瞳に浅黒い肌が特徴だ。髪色に合わせた茶色のカーディガンと、その中に白いワイシャツ、それから黒いスカートという一般的な会社員の服装をしている。前職が冒険者という異色の経歴を持つ、20歳のあわてんぼうである。
「間に合いましたよ」
と、端的に「ミーム・マーム・モーム」が答えた。彼女は、黒色の髪を肩くらいまで伸ばし、瓦のように輝かせている。定規よりも正確な直線を引く前髪は、彼女のきっちりとした性格を事前説明していた。開発・使用の優秀な魔導の才能を持つが、実家が貧乏でバヘイラ魔導学院を断念。以降も独学で魔導を学び、とあるきっかけで大手マイクロスクロール社に入社した天才である。毎日のように白衣を纏う姿は、まるで研究者のようだが、白衣が床に着きそうなほど背の低い、無口が好きな半引きこもりでもある。
「よ、良かった~~…寝ちゃってごめんなさいです」
冒険者臭の残るあべこべな敬語で、ミームへとお礼を言うチェリア。ミームの年齢は18だが、16歳の時に入社したので、チェリアよりも一期早い。
チェリアは、ホッと一息こぼしてから、コップを持ち、コーヒーで口をゆすいだ。まだ口内がむにゃむにゃとして、スライムを噛んでいるかのようだったからだ。それからデスクに置かれた案件の仕様書に視線を落とすと、下部には「マイクロスクロール社・魔導開発部門・デバック課・第零部隊」と宛名にある。
彼女たちが所属する「第零部隊」は、去年250件の案件をこなした化物デバックチームである。優秀なチームなのは間違いないが、マイクロスクロール社におけるデバック課とは、窓際的な立ち位置であり、車内の地位は決して高くない。魔導開発部門内という狭い領域内では、確固たる地位を築いていたが、身内的な側面は否めなかった。
更に言えば、この部署には変わり者が所属している。
ミームは、チェリアに完了報告だけすると、自席に戻ってしまった。喜びを分かち合うでもなく、挨拶に近いとても簡素な報告だった。少しの寂しさがありつつも、眠気眼を擦りながら、チェリアは周囲を確認した。普段なら仕事人のミームも、寝ずの作業に疲労感を抱え、自席でボーっとしている。
第零部隊は、計四人。「田」の字に席を並べ、ミームはチェリアの左に座っている。対面に座る仲間を見れば、未だに作業を続ける影を見つけた。彼を見て、チェリアは思わず苦笑いをした。これが彼のいつも通りであり、まるで物言わぬ植物が、水だけですくすくと育つように、案件だけを食物と化し、日々デバックをこなし続けている。所属当初は、間違いなく開発畑の人間だったはずなのに、ひとたび養分を獲ると急成長を遂げ、現在では比類なきデバッカーである。
「何とか間に合ったわね」
突然、チェリアは背後から声をかけられた。振り向けば、美しい女性が立っている。
彼女は「ラナ・トリノ」、この第零部隊の隊長である。齢28にして、部隊を一つ任されるエリートでありつつも、窓際的立ち位置であるデバック課という部署そのものに不満を感じている。赤髪のロングストレート、前髪を中心から分け目に沿って分ける美麗ワンレンヘアの持ち主であり、やや薄く開かれた目は、彼女の内に籠る野心を理性的に隠蔽しつつ、同時に彼女の妖艶な美しさを過剰なまでに高めている。黒いワイシャツの上から黒いジャケットに、更に黒いミニスカートを纏い、あえてネクタイをしない。全身黒衣のその姿で、周囲の部隊からも畏怖を集めていた。
ラナは、今の今まで上司に掛け合い、ギリギリまで時間稼ぎをしてくれていた。いくら処理速度がNO1の部隊でも、今回ばかりは案件を抱え過ぎたと、ラナは少しだけ反省していた。
彼女は、以前に所属していた部署で、上司とトラブルを起こし、この窓際的部署に飛ばされてしまった――いわゆる左遷である。昇進のチャンスを得られぬ今の立場から、何とか現状を改善しようとあがいた結果、デバック課の自社内の立場向上という結論に至り、日陰の優良物件であるミームやチェリアを面接して社外から部隊に呼んだ。
「よく二人とも頑張ってくれたわ。二人の力がなければ、間違いなく乗り越えられなかったと思う。今回は、流石に私も反省するところがあったわね、ごめんなさい」
ラナは、チェリアとミームの肩に手を乗せ、苦笑いに近い笑みを零す。部下たちの肩には、上司の不安からくる手の震えが、服という曖昧な境界線を渡って、上下関係という垣根を越えた後、上司の人間的な弱さを二人へ伝えていた。彼女達は、深海からマイクロスクロール社のような大陸に引き上げてくれた上司に、心から感謝をしており、同時に深い信頼感を抱いている。その信頼関係もまた、彼女たちがNO1部隊という確固たる地位を築けた大きな要因だろう。
「さて…と、それじゃこれが私からの労いよ」
ラナは、くるくると肩を回してから、二人の眼下に書類を置いた。それなりの厚みがある紙の束とスクロールが計三つずつ、十センチ以内におじさんの顔があるかのような奇妙な圧迫感により、二人の脳から正常な思考能力が追い出されてしまった。
「あにょ(あの)、こりゃりゃ(これは)?」
強制的に脳を寝ぼけさせられたチェリアは、呂律を捨ててでも現状確認を急ぐ。
「新しい案件。本当に今回は反省したの。時間稼ぎを使えば、もっとうまく案件をさばけるって気づけたのよ。そうねぇ…これで、1.25倍は処理力を稼げると思うわ」
満面の笑みで、ラナは答えた。肩に伝わる震えは、武者震いだったのか、なんて冷静に考えるミームをよそに、チェリアは完全停止した脳を制御できず、その場で泡を吹いて椅子をひっくり返した。これが日常なのか、同じフロアにいる他の部隊が騒ぐことはない。
「あらあら大丈夫?」
ラナは、そっとチェリアに近づくと、右手の腕時計の文字盤を包むケースを一時間分右に回した。それからチェリアに触れると、腕時計から直径10センチほどの魔導陣が浮き上がる。すると、気絶していたはずのチェリアが、水辺の疑似餌に食いついた魚のようにピシャリと起き上がった。下手な力自慢の使い手が操るマリオネットでも、もう少し滑らかに動くのではないか、とミームは思った。
「モ、モンスター…」
奇怪な動きをするチェリアに驚愕するも、ミームにとってこの光景は、道端に転がる石よりも見慣れたものであり、「モンスター」という言葉は、決して彼女の現状を形容したものではない。チェリアは、冒険者特有の頑強な肉体を持ち、ある程度の副作用のある強化魔導なら行使されても、翌日にはスッキリとした顔で職場に戻る。そんな彼女専用にラナが開発した魔導が「モンスター」である。
「さぁ、働きなさぁい」
と、ラナが優しくチェリアに声をかけ、肩をポンと叩く。直ぐにチェリアは椅子を起こし、それから案件の紙をぺらぺらとめくり始めた。ギンギンに目を見開いて、超近距離で紙を見つめる彼女の姿に、思わずミームは同情してしまう。自身の肉体強度が人並みでなければ、あんな姿をする自分も未来の一ページに記帳されていたのかもしれなかった。
余談だが、ラナのオリジナル魔導は、モンスターの手前にレッドブル、奥にブラックアウトが待ち構える三段階強化魔導である。
隣席のおぞましい光景にミームが恐怖していると、その間にスッと男が割り込み、新たな仕様書と試作品を手に取った。
強化魔導を必要とせずに、案件をこなし続けるこの男こそ、真のモンスターなのかもしれない…と、ミームは思った。恐怖の向こう側にいる彼は、下を見れば、深い闇が広がるほどに、深い峡谷に掛かる橋の上を早歩きで渡り切り、対岸から更に奥の景色を優雅に見つめているようだった。この先に何があるのかという期待感と共に、未知の世界へと没入する彼には、畏怖と尊敬を捧ぐしかないのかもしれない。
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