第24話
歴511年皐月30日 京府
春の陽気で一気に木々が芽を吹き、桜や躑躅が淡い桃色の花を着ける京府。
花の香りが町中に満ち、今まで京府を覆っていた死臭や腐敗臭を幾分か薄める。
町は荒みつつも未だ栄華を誇り、穏やかな日差しと相まって道行く民人の顔も幾分明るい。
しかし、季節に変わりなく京府の片隅には行き倒れや物乞いに身を落とした者、盗賊に襲われた哀れな犠牲者の屍が溢れていた。
貴族が通る大路やその貴族の邸宅の前後は流石に清掃が行われており、その様な有様では無かったが、それでも全体に漂う退勢や荒廃の気配は消しきれない。
それでも、民人は農事や商事に勤しみ、貴族は優雅な生活を送る。
停滞と怠惰な繁栄が京府を支えているのだ。
中でも一際その大きさと壮麗さで他を圧する京府の中枢の貴族街。
取り分け今の世を謳歌している、硯石基家の屋敷には、文人貴族の主立った者達が集まっていた。
しかし、唯一の仕事である朝議の後に招集されただけに、皆一様に機嫌は悪い。
午前中の朝議で決定する政務方針について意見を述べ、議題を採決し、大王へ報告するだけが彼らの仕事である。
それから後は全てその方針に基づいて中級以下の官吏や貴族が政務を進めるだけだ。
午後は優雅に歌会や花見、それに酒宴が待っている。
それを知りながら、高位の、しかも限られた文人貴族達を集めた基家の顔も硬い。
その顔を見て、何かが起こったことを悟った貴族達の顔も強張る。
普段であれば曲水宴が行われているはずの大きな池と綺麗な水を湛えた遣り水の庭には、山から取り移した桜の巨木が花を散らし始めており、そよ風が吹く度に優雅な花吹雪が起こっているが、誰もそれを見ない。
今また、この季節には珍しく一陣の北風が吹き、淡い桜色の花びらが舞い散り、漂い、さざ波を立てていた池水にはらりはらりと落ち、浮く。
その桜吹雪に負けぬほどの色彩豊かな服をまとった貴族達が居並ぶ広間。
風が貴族らの傍らを通り過ぎるのを待って、基家が口を開いた。
「梓弓の少将に付けた軍監からようやく文が参った」
「久秀からの報告ですか?……一向に報告が来ないと思えば、何を今更?」
「はて、どうにも遅いようですが……」
季節外れに冷たい北風に一時身を震わせていた貴族達であったが、基家の言葉に気を取り直して感想を述べる。
しかし、基家は微動だにせず、手にしていた文を貴族達に向かって下手に軽く投げた。
「とにかくその方らも読め」
いかに今をときめく硯石大臣といえども、高位貴族たる者達に対する態度では無い。
流石に眉をひそめ顔をしかめる貴族達を余所に、基家は言葉を継いだ。
「疾く読め」
「はあ。それでは……」
基家の一番近くにいた年嵩の貴族が文を拾い上げ、不審感一杯に黙読する。
最初は投げやりな態度であった年嵩の貴族だったが、文を読み進める内に目元が険しくなり、緩やかに持っていた文を両手で強く握る。
「こ、これは……!?」
「街道に潜ませた山渦どもから連絡が来なかった理由がようやく分かった」
久秀からの文には、行武が陸路を採らずに、あろう事か海路にて一気に広浜国へ到達していることが記されていたのだ。
しかも、既に広浜国の南端に拠点を設けて情報を集めているという。
「各地の国府も素通りということでは……国司共から報告が無かったのはこういう事でしたか……」
年嵩の貴族から文を回されて読んだ貴族の内の1人が呆然とした様子で言う。
その意見は図らずも基家以外の全ての貴族の持った感想。
まさか、下位とは言え建国の祖に連なる由緒正しき貴族が、荷船に乗って荒波を越え北へ向かうとは誰も思っていなかった。
「裏を掻かれた形になってしまいましたな」
「致し方あるまい、然りとて何か不都合が合ったわけでは無い。ただ妨害をくぐり抜けてしまったと言うだけのこと。反乱の鎮圧が済んだわけでは無い。これからよ」
別の貴族が溜息を吐きながら言うと、また別の貴族が取りなすように言う。
確かに、行武は陸路に仕掛けた妨害をかいくぐっただけのことで、未だ何かを為したわけでは無い。
文によれば、かつての北伐の拠点を修築し、拠点化を進めているとのこと。
楠翠国なんすいこくの雄之湊おのみなとと京府の外港である大伊津おおいつを使い、既に航路も拓かれつつあるとも書かれている。
雄之湊も大伊津も公湊であり、国内航路である以上、船舶の運用や入港を規制する法や制度は無い。
大伊津から先の京府まで船で入るには許可が必要だが、行武はそこまで求めるつもりは無さそうである。
ゆくゆくは東先道や東間道、北辺道の納税を船舶で行う計画とも書かれている。
速やかに大量の貢納が京府に送られるのであれば、道中の喪失分も少なくなるのは必定で、京府に住まう貴族達にとっては悪い話ではない。
加えて、自分の配下に収めているとは言え、国司となった者を監視することも容易になる。
国司からの報告や国司に出す命令も素早く送れるようになる上に、人の交流が盛んになれば情報も自然と入ってくるようになるからである。
しかし、それを為そうとしている人物には大いに問題がある。
「東先道と京府を海路で繋ぐとは……梓弓の老少将め、侮れぬ」
「……如何しますか?」
基家のつぶやきを聞きつけた若手の貴族が声を掛けると、基家は大きなため息をついて白い息を吐くと、疲れたように声を発した。
「別段どうもせぬ。海路が構築され、諸税が京府に速やかに運ばれるようになるのであれば、むしろ推奨すべき事。朝廷の意向や令も今まで以上に行き届く。国司の交代や受領などを始めとする地方の統制もしやすくなろう」
「確かにそうですが……梓弓少将めに功を為さしめますぞい」
基家の言葉に、没落貴族の勃興に繋がりかねないという危惧をはっきり直言する老貴族。
その言葉に、何時も無表情な基家が僅かに顔をしかめて言葉を継ぐ。
「致し方なし、そもそも為高のこととて我らには本意では無かったはず」
「それはそうですが……」
「為高殿とて乱を起こそうとして起こしてしまったのではありませぬ」
「それは浅はかと言うもの」
貴族らが為高を擁護すると、顔をしかめたまま酒杯を傾けてから基家が言葉を継ぐ。
「あの阿呆めが無茶をしておらねば、先の大王や梓弓の老少将などの介入を許さず、北方の統治は我らの意のままになったのだ……お主らは我ら文人貴族がこの朝廷の政務を取り仕切るまでにどれだけの労苦と費えを要したか忘れ去ったか?我らが栄華を極めんとした目的を忘れ果てたか?」
「そ、それは……」
基家の静かな気迫に気圧され、貴族らが押し黙る。
「ただただ我らの栄華のみを追及するのであれば、名を貸した荘園を増やし、雑色共に言いつけて私田を増やせば済むこと……さにあらず、大王の威令の下に我ら文人貴族が政務を執り、遍あまねくこの瑞穂国を統制することこそが目的であろう」
「……ははっ、誠にもってそのとおり」
貴族達が畏まるのを見て取り、基家はゆっくりと言葉を発する。
「武を軽んじ、人死にを忌避し、穢を恐れ、清浄を第一とした風潮を作るのにどれ程の時を要したか、語るまでもあるまい。それもこれも武による解決を封じるため……此度、初めて大王の交代に武力が用いられなかったことは、我らの勝利である。その勝利の前には、没落した武人貴族を反乱鎮圧に用いることなど些末事よ。大勢たいせいに影響は無い。そもそも乱は百害あって一利なし、鎮めて貰わねばならぬ。むしろ鎮圧が速やかに済めば、為高らも命を拾うやも知れん……無論、乱を誘発した責めは負わせねばならぬが、やりようによっては無罰にも出来よう」
固唾をのんで基家の言葉を聞いていた貴族達は、その最後の言葉を聞いてほっと胸をなで下ろす。
その姿を内心の忌々しさを見せず無表情で観察していた基家は、かたりと膳の上に赤塗の酒杯を置くと、簡潔に宣言した。
「堅苦しい話はここまで、後は我が邸の風物を愛でつつ酒杯を傾けて頂きたい」
夕刻、集まった貴族達が帰邸し静まった広間と庭を眺めつつ、基家は改めて用意させた酒器と乾烏賊を載せた土器を並べた膳を横に、言葉を発した。
「大王の交代や崩御の度に武力衝突を繰り返しては国内外に混乱を招いてきた武人貴族を排し、脆弱な律令を強化することで国内を統制して内憂を絶ち、外患に備える。その余禄として我ら文人貴族が財を成しただけのこと。それを何時しか忘れ去り、財を成すことを一義に据える者が多過ぎる……かく言う自分とて、富貴には心強く惹かれる者。しかし本義を見失ってはならぬ。見失えば、ただの圧制者である事実のみが残る……」
昼間に比べて明らかに減った花を見て取り、そしてその下の地面や水面に浮き沈みしている花びらを目にする基家。
「梅と違い、桜は儚い物よ……」
酒杯を取り、ついっとあおると、基家はふと空に目を移した。
同じ空の下とはいえ、北辺の蕃地で苦闘しているであろうかつての政敵を思い、ふっと笑みを口に上らせ、基家は再び口を開く。
「梓弓行武と言えば、かつては武人としてだけで無く一流の官人でもあったと聞いていたが、存外他愛の無い事よ。未だ武功で事を為そうとは、片腹痛し……まず、その武功も台無しにしておこう」
基家の言葉に反応し、座した広縁の影から漆黒の陰影が湧き出す。
「分かっておろうな?」
「……」
基家の言葉を受け、漆黒の陰影は僅かに揺らめくと、水面に沈むかのようにして再び広縁の影へと姿を消した。
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