第23話
行武の天幕の中で、砦の造営に精を出す行武以下の納税人足や国兵達を余所に、紙束や木簡、竹簡を並べてはひっくり返し、石版に蝋石で計算式を書き付けては消すを繰り返す者らがいた。
他ならぬ、征討軍の台所を預かる財部是安と畦造少彦だ。
2人は額を付き合わせ、お互いの顔を見合わせてから深いため息を同時につく。
そして、これまた同時に同じ言葉を吐いた。
「「銭と米が足りませぬな」」
余りに息の合った、しかし生臭い内容の言葉に滑稽さを覚えた是安が苦笑を漏らし、少彦は何とも言えない形に口元を歪めている。
「今年と来年までは問題ありませぬが……」
「その先は行かぬようですな、流石に財が尽きる」
少彦の言葉を引き取り、是安が再びのため息と共に言うと、少彦は困った顔をそのままに口を開く。
「そうは言っても、あくまでも米と給金を朝廷がまともに送ってこないことを前提にした計算ではありますが……」
「そうなる可能性は高いでしょうな。殿様もそこは楽観視しておられませぬ……あの楽観論の塊のような見かけではありますが、いやいやどうして、殿様は情勢判断については冷徹で誤りがありませぬ」
是安の言葉に、今度は少彦が溜息を吐いた。
今の朝廷に大局を見る政治家がいるとは思えない。
それは実際に下級とは言え官吏として朝廷で働いていた少彦がよく分かっている。
各部署を折衝に回って実感したが、北方の反乱を真面目に鎮圧しようという意思が朝廷や官吏から感じられないし、第一に反乱を自分のこととして捉えていないのだ。
その当事者意識の無さが、本来全てに優先するはずの反乱鎮圧という重大事件すら政争の具と為している朝廷。
その為に行武に対する嫌がらせや妨害行為の実行を掣肘する理由や意思が存在しない。
何を優先して行うべきなのか、何が本来の目的であるのか、そしてその目的達成のためには何が必要であるのか、更には、政治上、社会上絶対してはいけないことをしないという当たり前の常識すら欠けてしまっている。
派遣した軍に糧秣や資金を送らない、援兵を送らないなどは最後の部分にあたる。
目的を間違って把握し、優先順位やことの順序を誤り、自己都合のみで動く朝廷、ひいてはその朝廷を構成する官吏や貴族達に、行武を支援する理由や義理、命令系統は最早存在しない。
辛うじて先の大王の遺命があるだけなのだ。
既に砦の造営に取りかかって1か月が経ったが、後発の糧秣や補充の武具、資金の輸送は無い。
そして、その計画や命令が発せられたという知らせも無いことは、楠翠国や京府と藻塩潟を行き来している早速武銛配下はやみたけもりはいかの者達から情報が上がってきている。
「再来年までには何とか収穫の目処を付けねばなりますまい」
「如何にも……特段の災わざわいが無ければ、ぎりぎり間に合うくらいでございましょう」
少彦の言葉に、即座に頷きながら応じる是安。
土造りや最低限の灌漑設備を整えるには、2年くらいはどうしても掛かってしまう。
如何にかつての水田跡があるとは言え、そう簡単にはいかない。
この地において最初から稲作を目指すことはせず、最初は大豆、麦、黍、陸稲を主体に作付けを行い、灌漑設備の稼働出来る場所では稗や粟を作る。
そして、伐り開きの終わった場所で蕎麦を育てる他あるまい。
何れも米に比べれば収量に劣るが、痩せ地や灌漑設備の無い場所やそれが不十分な場所でも育つので、差し当たっての作付けには適している。
蕎麦はその中でも極めつけに痩せ地には強く、栽培期間も短くて済む。
幸いにも行武は朝廷からの補給が無い事を見越してそれらの種子を用意させており、当然是安と少彦もその存在を承知している。
「なかなか骨が折れる仕事となりますでしょうな」
「それでも、少将様の元での仕事です。信頼出来ない貴族や上司の指示に惑わされることもない。骨は折れるかも知れませんが、遣り甲斐もあります」
是安は少彦の言葉に少し驚いた風にその顔を見直すと、ひっそりと笑みを浮かべる。
「殿様のことを気に入って頂けましたようで……家令冥利に尽きるというモノでございます」
「ふふふ、少将様に見出されたことで、これ程の充実を頂けるとは思ってもみませんでした。少将様には感謝しかありません」
笑顔に笑顔を返しつつ、少彦はかつて朝廷で感じたことの無い充足感を噛み締めつつ、是安と細部の調整を進めるのだった。
本楯弘光は、山下麻呂と周囲の警戒を兼ねて耕作予定地を回る。
既にこの地に到着して1月余りが経ち、砦に近い場所にはようやく田の形らしきものが出来てきていた。
季節は初夏。
京府より遙か北の地とは言え、日差しも徐々に強くなり始めている。
雨の日が多く、2人が見回る耕作予定地にも大きな水たまりが幾つも出来ていた。
白い雲と青い空を写し込んだその水面を、小さな水馬あめんぼがすいすいと切って進む。
蒸し暑さを感じ始める季節であるが、2人の格好は対照的だ。
方やだらしなく着崩した直垂ひたたれの上から、あちこちの紐を緩めて短甲を申し訳程度に引っかけている山下麻呂。
方や礼式の通りにきっちりと短甲に衝角付兜を着込んだ本楯弘光。
武器も持っていない山下麻呂に対して、弘光はきちんと腰に片刃の直刀を提げている。
そして、2人の歩く速度が違うために、その間は徐々に開きつつあった。
「あのよ、思うんだが……」
憮然として切り出した山下麻呂はお世辞にも任務を果たそうという態度では無い。
面倒事を押しつけられてしまったことに対する不満が漏れ出ていると言い換えてもいいだろう。
しかし、弘光は山下麻呂の不満を察しながらも、何食わぬ顔で若干自分より下がって付いて来る山下麻呂を振り返って聞く。
「どうかしたのか?」
「なあ、まあ……言うけどよ。見回りなんて必要ネエだろう?」
半ば諦めた様子でそう答える山下麻呂。
流石にその不満を他の納税人足や国兵達に聞かれては不味いと思ったのか、少し低くなる山下麻呂の声。
弘光は苦笑しつつも律儀に回答を口にする。
「私たちが見回っているという事こそに意味がある、少将様はそうおっしゃっていたと思うが?」
「まあ、そうなんだけどよう……」
行武の台詞を持ち出された途端に弱気になる山下麻呂。
普段は伝法な口調の山下麻呂だが、行武には滅法弱いのは、周知の事実だ。
それもこれも京府での初顔合わせが余りにも鮮烈で思い出深い以上に、行武の情けの深さとその武力に心服してしまっていることが大きい。
山下麻呂も村や郡こおりでは力自慢の大男だったのだ。
行武はしかしそれを武力のみならず、心でも服させてしまったのである。
納税人足達も山下麻呂の思わぬ弱みに生暖かい目を向けるのみなので、山下麻呂としてはそれも歯痒い。
正面切って何かを言われたわけでは無いが、自分の弱みを皆が知っていることを薄々察している様子である。
その正に弱みを持ち出され、山下麻呂はふて腐れた態度を改めないままではあったが、心なしか周囲に視線を向け始める。
身体を揺すって下がっていた短甲を上げ、紐や帯をきっちりと締め直す山下麻呂。
「こうやってきっちり見て回ることに意味があるんだ」
「そうかい」
汗をだらだら掻きながら、一応職務を果たそうとし始めた相棒に弘光が苦笑を保ったまま言うと、山下麻呂はぶっきらぼうに答えつつも視線を周囲に向け続ける。
あちいあっちいと言いながら、だらしなく手で顔に風を送りつつ視線を送る山下麻呂の視界の端に、ただならぬものが映る。
「全く、俺はただの納税人足だってのに……おい」
「ああ、ケンカだろうな」
呼びかけに対して素早く反応する弘光に少し驚きながらも、山下麻呂は慌てずその後姿を追って走り出す。
「全く、こんなクソ暑いのに良くやるぜ」
「暑いからこそだろう。こう暑いとどうしても苛々しがちになるからな……やめろ!そこの者共!」
律儀に山下麻呂の愚痴めいた言葉に応じながら、鋭く制止の声を上げる弘光。
耕作予定地で泥を跳ね上げてとっくみあいを始めようとしていた数名の男達が、その声を聞いて慌てて逃げ散ろうとする。
しかし、その直前に山下麻呂が追い付き、更に追い付いてきた弘光に捕まる男達。
「くそ!」
山下麻呂に突き飛ばされ、弘光に足を鞘で払われて転倒する男達は、あっさりと観念して汚れるのも構わず泥地に座り込む。
観念こそした様子だが、ふて腐れた態度については変えるつもりは無いようで、そっぽを向いたり、むくれて俯いたりしている。
人数は3名、いずれも小柄であり、その顔付きからも和族である事が分かった。
「お前ら、見ない顔だな。柵戸きのへか?仲間内でケンカとは……」
柵戸とは北辺開拓のために朝廷から送り込まれた和族の農民や工人のことである。
世代を経ると共に地域に根付き、そして夷族と交わってこの地の民となった者達だ。
田を拓き、麦や蕎麦を育て、森で狩りをして獣肉を得る。
和族と夷族の習俗を併せ持つ、正に架け橋とも言うべき者達。
しかしながら実情は違う。
南に行けば蛮族と忌避され、北にゆけば雑じり者と蔑まれる、ある意味この地でしか生きていけない者達である。
そんな彼らも、今回の夷族の反乱には和族側として巻き込まれてしまい、土地や家を捨てる他なく、流民となってしまったのだ。
藻塩潟にもそんな流民と化した柵戸達が多数逃れて来ている。
行武は彼らを快く受け入れ、藻塩潟の田畑の再開拓に参加させていたが、各地から寄り集まった者達に連帯など無く、また全てを奪われた者達の心は荒んでいた。
絶えず諍いが起き、行武の威令に服さない者もいる。
行武は彼らに対してはなるべく温情をもってあたっていたが、それも時と場合による。
原因はともかく、流血の事態ともなれば処罰せざるを得ない。
捕まった彼らも荒んでしまった者達なのだろう。
捕まっているにも関わらずふて腐れた態度を改めることもせず、また、捕まった際に乱れたぼろぼろの着物を悪びれること無く直している。
「少将様のことを舐めおって……」
「へっ、朝廷のお偉方がなんだってんだ、こんな辺地で働かせやがって」
「誰も俺らを助けてくれねえんだ」
「そ、そうだそうだ」
弘光の怒りに触れても、謝罪するどころから居直りの言葉を吐く男達。
しかし、山下麻呂はため息をつきながら口を開いた。
「十分に給米は出てんだろ?」
「あれっぱかしじゃ腹の足しにもならねえよ!」
「そりゃ、バクチの種にしてちゃ、いくらあっても足りねえわな」
男の内右側にいた1人が吐き捨てた言葉に、すかさず山下麻呂が言葉を被せるようにして発した。
目を剥く弘光に苦笑を横顔で返し、山下麻呂は身を強張らせた男達に言う。
「大方バクチのカタを払えねえってんで、そっちのを締めてたんだろ、ありがちなこった」
山下麻呂の指摘に右側にいた2人がちっと舌打ちをしながら目を伏せ、左端にいた1人がほっと息をつく。
「まあ、洗いざらい吐いて貰おうか」
「仕方ねえな」
怒りに目を吊り上げる弘光を手伝い、駆けつけてきた弘光配下の国兵達を振り返りながら、山下麻呂は溜息を吐く。
「どこでも人のやることってのは同じってこったな」
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