第22話

文化薫る京府から遙か北に位置する、ここ広浜国。


 朝靄のかかる早朝、行武は1人城柵を抜け出して周囲を歩く。


 目指すのは、城柵の西にある小高い丘だ。




「よっこいせ……と、ふう、やれやれ、年は取りたくないもんじゃ」


 完全武装で軽々と険しい森の中を歩き通し、丘の上に出た行武は、そのまま大岩に手を掛けて登り始める。




「よ、ほっと……ふむ。50年前はもそっと軽く登れたもんじゃがのう。やれやれ」




 大岩の頂上から東には、行武が修築の上で拡大した梓弓城柵がある。


 炊煙が登り始め、兵達も起き出したようだ。


 宿直番とのいばんの兵と見張りを交代し始めている様子が遠目に見える。


 北と西には針葉樹が主体となった森の中に村落の点在する光景が広がる広大な地。


 城柵の更に東を見れば、遥か広大な水平線の彼方まで続く大海が見える。


 南には、山脈の影になって見えないが、峠の向こうに広平国がある。


 北に位置するだけあって朝夕は涼しいが、それでも夏の訪れを感じさせるぬるい空気が周囲に満ち始めている。




 牧歌的とも言える光景だが、よく見れば遠方の開かれた場所にある村落は焼かれて薄い煙を上げており、田畑は酷く荒らされている。


 当然ながら村落やその周辺に人影は無く、周りの針葉樹を切り出して作られたと思しき場所にのみ、動く人の姿があった。


 周囲の状況が示す通り、朝廷の支配が及び始めて未だ50余年の地域ではただ今反乱の真っ盛り。


 その開けた場所にいるのは、当然朝廷側の人間でも、ましてや植民農民でも無い。




 夷族いぞく。




 古代まつろわぬ民として度々朝廷と敵対し、反抗し続けてきた異民達いみんたちだ。


 50年前に他ならぬ行武の大叔父による征伐と懐柔を受け、朝廷の威令に服した夷族達だったが、それからも文化的な相違や差別に苦しめられ、またその見目麗しい姿形から奴隷として諸外国に売られてしまうという悲劇にも見舞われた。


 それでも、朝廷による支配を良きものとして受け入れ、文化や文明に馴染み始めた彼らを襲ったのは、変質した国司という朝廷からやって来た悪徳支配者だったのである。




 正に朝廷の権威と力を背景に、支配を推し進めてきた50年間。


 夷族は支配に慣れ始めていたのだが、それを覆す出来事が他ならぬ国司の横暴によって引き起こされてしまった。


 紆余曲折あったが、それ故に行武は征討軍として見せかけの兵である納税人足と、弾正台から引き抜いてきた国兵を合わせた300人を率い、船を使って朝廷の目を欺きこの地へやって来たのだ。




「ようやくじゃわい」




 そうつぶやいて大岩の頂から周囲を見回す行武。


 都を出る事既に半年余りが過ぎており、季節は夏へと変わりつつある。


 周囲の木々も緑が濃くなり、大岩の上にも雑草がちらほら伸びている。


 いつ見ても変わることの無い季節の営み。


 齢70になる筋骨逞しい老人であるが、白い口髭と短い顎髭に、温厚な顔付き、黒い目には優しげな光をたたえ、行武はつぶやく。




「なつかしいのう……」




しかしそんな優しげな雰囲気にそぐわず、彼の装いは鈍色に光る短甲と手甲に兜、腰には長剣を帯びて足結いで袴を絞っており、その背には梓で出来た大弓と矢がたっぷり詰まった箙がある。


 断じて官人が着用するゆったりとした朝衣や官位を示す色鮮やかな布冠ではない。




 行武は、武人。




 そして征討軍の指揮官である少将としてこの地に再びやって来た。


 兜には、その少将である事を示す雉の尾羽が1本、正面中央に付けられていた。


 さわやかな朝風が、一本雉尾羽を揺らす。


 この国において戦乱が絶えて早くも50年。


 大王に敵対的な貴族は滅ぼされ、庶民は支配に慣れた。


 北方の夷族や南方の隼人は朝廷の威に服し、西方の諸国とは友好関係を継続しており、南方の蛮徒や海賊も最近は大人しい。




 しかし、支配が浸透すれば反抗する者達も現れる。


 時代が進めば腐敗する者が出てくる。


 朝廷においては大王の力は制限され、武人貴族に代わって文人貴族がその力を振るって自分達に敵対する者を排斥しつつある。




 地方においては、特に文化の異なる人々は度々小規模ながら反乱を起こし、最終的には鎮圧されこそすれ自分達の誇りと生活を守ろうとそんな朝廷の支配に抵抗し始めていたのだ。














「……梓弓若中将様あずさゆみのわかちゅうじょうさまとお見受け致す」




 広浜の風景を眺め、初夏の朝風に吹かれて感慨に浸っていた行武の背中に、突然低い男の声が掛かった。


行武は慌てることも振り返ることもしないまま、その声に応じる。




「如何にも、とは言えんな……かつてはそう呼ばれておったこともあったが、今は落ちぶれた梓弓老少将あずさゆみのろうしょうしょうじゃ」




 そう自分で言ってから、その名乗りが思いの外気に入ったのか、行武は天を仰いで腰に手を当て、あっはっはっはと朗らかに笑い声を上げる。


 声の主はそんな行武の様子に面食らったようだったが、少しして笑いが収まった行武に再度声を掛けた。




「……梓弓行武様」


「うむ」


「……我ら土蜘蛛、いえ揺曳衆ようえいしゅう一同、復帰をお待ちしておりました」




その言葉と共に、多数の者達が跪く気配がした。


 行武がゆっくり振り返ると、大岩の岩肌に張り付くようにして黒頭巾に黒装束をまとった者達が跪いているのが視界に入る。




「散々こき使っておいて頼み事をするのも気が引けるのう」




 目を細めて言葉を発したと思われる先頭の男に少し不本意そうに言う行武。


 しかし、ゆっくりと頭を左右に振った男は静かな所作で言葉を発する。




「我らの主は梓弓成武様あずさゆみしげたけさまと、行武様以外に居りませぬ。我らの受けた恩は、末代までのもの、その縁えにしは常世のものでございますれば」


「……義理堅いことじゃが、わしゃ50年の間お主らの忠義に報いることは何もしておらん。わしへの義理立てや恩返しは無用じゃ」




 行武が穏やかに言うと、揺曳衆と名乗った者達から明らかな憤りの気配が立ち上った。




「その言葉、優しさから頂戴してはいると思いまするが、我らにとりましては受け入れ難きものにて」


「まあ、そう言うと思うてはおったが、わしの心情じゃ、仕方あるまい。わしには既にお主らの忠義に報いる術が無い」




 今でこそ揺曳衆と名乗ってはいるが、彼らの正体は天狗てんぐとも土蜘蛛つちぐもとも呼ばれる漂白の民。


 朝廷からも、夷族からも忌み嫌われている異能の持ち主達だ。


 その異能は、金銀銅鉄など各種金属や宝石類の採掘や精錬、そして水源探査や炭焼き、材木選別など多岐に渡る。


 その最も特殊なものとして各種金属の採掘や精錬があるが、山を崩して木を切り、水を汚染する彼らの生業は、農民や各種産業に従事する民達と激しい対立を産むものだ。


 唯一商人達とは積極的な交流があるが、それも足下を見られて不利な取引を強いられることも多い。




 しかし、行武とその大叔父の成武は彼らを縁故国である楠翠国の砂鉄採取や水銀採取に雇ったのをきっかけにして交流を持ち、正式な戸籍を作成して朝廷に認められた民としたのである。


 もちろん、彼らの優れた採掘能力や精錬技術を得たいが為である事は言うまでも無いが、今までの貴族には無い柔軟な発想で異能の民を受け入れたことで、彼らは安住を得ることになった。


 漂泊するのは今まで通りだが、きっちりと戸籍を持っているために無用な差別を受けることも無く、また正式な交渉をして国司から採掘許可を得ることも出来る。




 そうして彼らは梓弓成武から一任された梓弓行武によって、数百年の長い闇の歴史から表へと引っ張り出されたのだ。


 梓弓家はその異能の民達から大恩人としてあがめられることになる。


 そして山歩きで培われ、淘汰を生き抜いてきた異能の民が持つ優れた身体能力を提供されることになった。


 しかし、それも50年前に行武が失脚して武人貴族が落剥した政変の後、他ならぬ行武の手によって解消させられたのである。




 それでも行武の根回しで異能の民の戸籍が解消されるようなことは無く、楠翠国で変わらず登録が続けられており、彼らは朝廷の領域のみならず、未開地や蛮夷の領域、更には諸外国にまで出かけてその異能を振るって生計を立てている。


 その彼らが行武のつれない態度にざわつく。




「静まれ……」


「しかし棟梁っ」


「静まれと言っている……」




 若者と思われる配下の者の言葉を押さえ込み、棟梁と呼ばれた先頭の男が黒頭巾を取り払う。


 現れたのは、行武と負けず劣らずの老いた顔。


 しかし、その面影は行武の記憶の中にあるものと、いささかも違っていなかった。


 目を見開いて驚く行武。




「何と……烏麻呂からすまろか!?」


「……お久しゅうございますな、行武様」




 静かな笑みを浮かべる烏麻呂に、行武は歩み寄ってその肩を抱く。


 烏麻呂はかつて行武の影の護衛と伝達役として身近にあり、常に行動を共にしていた影の側近とも言うべき存在だ。


 そして、かつて政争に敗れた行武が、心を鬼にして放逐した者でもある。




「いや、誠に……久しいわい」




 その彼が、また自分の前に姿を現してくれたことが素直に嬉しく、行武は相好を崩しかける。


 しかし、その別れは決して良いものでは無かっただけに、心苦しさが先立ち、これからどう言葉を続けて良いものかと戸惑う行武。


 その顔を見て、薄い笑みを再び浮かべる烏麻呂。




「恩義などと言うのも軽々しき大恩を受けております。命ごときでは返せぬもの……何卒我らの忠義を受けて下さりませ」




 久闊を呈しようと思った機先を制するようにして烏麻呂が言うと、思わず渋い顔で離れる行武。




「その話は50年前に……とっくに、終わったはずじゃ」


「いいえ、終わっておりませぬ。今こうして表舞台に戻られた。この日を一日千秋の思いで待ち望んでおりました……此度こそ我ら一同、終生行武様に尽くす所存にて」




 その言葉で更に渋い顔になる行武。


 彼らは行武からすれば、恩義を感じ過ぎているのだ。


 それ故に先走ったり、やり過ぎたりすることもしばしばである。


 自分のことを思ってくれるのは嬉しいが、やり過ぎは困るし、そのやり過ぎで命を落としたり、不名誉な事態を招いたり、また彼らの行く末が脅かされることは避けたい。


 行武はそう思って失脚した後に彼らを召し放ったのだ。




 影から自分を見張っている者が居ることは分かっていたが、まさか彼らがずっと自分にくっ付いて来ているとは想像の埒外である。


 どう断ったものかと思案する行武を見て、烏麻呂は配下の者達に目配せする。


 その仕草に不吉なものを見て取った行武が身構える中、彼らは全員が懐から音も無く短剣を抜き放ち、その首筋に分かり易く当てた。


 気色ばむ行武が険しい表情で言う。




「……何の真似じゃ」


「見てのとおり、行武様は我らの忠義をお疑いのご様子ゆえ、証明致す」




 周囲の木々を揺らした風が、烏麻呂のはだけた頭巾を騒がせ、次いで行武の身体を触る。


 先ほどはぬるく感じられた初夏の風も、寒々しさを伴って行武の身体の脇を通り抜けていった。




「我ら揺曳衆300名、行武様にお仕えすべくここに参上致した……我らの望みはただ1つ、末代までのものと思い定めし恩を、多少なりともお返し致すこと」




 自分の首元に当てた刃物を微動だにさせず、言い切った烏麻呂。


 そこまで言うと、烏麻呂は穏やかな笑みを浮かべ、何とかこの事態を打開しようと身体と頭を動かす行武を見て、ゆっくりと言葉を継いだ。




「それを果たせぬとあらば、行武様を追ってここまで来た意味もなし。我ら主立った者が、まず命をなげうち、次いで一族郎党ことごとく自刃しその恩の大きさを知らしめるのみ」




 その言葉を聞いた行武が溜息を吐き、肩を落とす。




「これじゃからのう……」




 早くもやり過ぎの面が出てしまったようだ。


 こうなったら彼らは決して引かない、恐らく本気で命を絶つだろう。


 苛烈に過ぎるが、過酷な環境で生き残ってきた彼らに中途半端な道は無かったのだ。


 それ故に安定しつつあるのに、このような暴挙とも言うべき行動に出る。


 行武は再度溜息を吐いて剣の柄にやっていた手を外し、腕を組んで仕方なしに言う。




「お主らも大概よのう……是非もなし、わしごときがえらそうに言えたものでは無い上に、一度は召し放った身じゃが、出仕を許そうぞ」




 行武のどこか諦めたような、そして嬉しそうな言葉を聞き、烏麻呂は良い笑顔を浮かべて短剣をしまう。


 それを合図に、他の揺曳衆の者達も短剣を一斉に納める。




「……我ら屹度お役に立ちましょうぞ!」


「やれやれ、引退同然と思っておったのは、一体何だったのやら」




 そう憎まれ口を叩きつつも、行武は旧友との再会に嬉しそうに破顔するのだった。

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