第10話

屋敷に戻った行武は武装を解き、濡れそぼった衣服を脱いで女房から替えの服を受け取った。


 衣服の下から現れたのは、老人とは思えないほどの頑健な肉体。


 正に筋骨隆々とした身体は行武の自慢であるが、それも最近は衰えた。


 自嘲気味に微笑むと、女房を下がらせて手早く替えの衣装を身にまとい、慌てて駆け寄ってきた是安へ即座に命じる。


「是安、この屋敷を売り払い、わしの資産一切を処分せよ。武具や馬匹、糧秣以外は全て金に変えてしまえい」


「と、殿様っ!?」


「……北国の乱を治めるよう言いつかった。ここにはもう戻れぬわい」


 驚き慌てる是安に、行武はいつになく沈痛な表情で言う。


 年齢的にも最後のご奉公となるだろう。


 しかも、行武が今際の大王から預けられたのは、反乱鎮圧という危険極まりない上に、厄介なもの。


 何年かかるか分からない上に、自分の寿命がそれまであるかどうかも分からない。


 今は頑健ながら、老いを感じ始めてからどれ程たっただろうか?


 かつてはこのような寒さは何ほどのことも無かったが、今はたまらなく寒い。


 頑健極まりなかった自分の身体だが、確実に衰えが来ている。


 女房が差し出した火鉢にあたりつつ、行武は考えた。


 確実に衰え、ゆっくりとはいえ死に向かっていることを身体で感じている以上、過酷な辺地での生活の後、再びこの京府の地へ戻ってくるなどということは見込めない。


 と言うより、不可能だ。


「き、北の地っ?は、反乱っ?」


是安は反乱鎮圧という重責を行武が負ったことを知って仰天し、素っ頓狂な声をあげる。


「おうさ、承ったわい」


「しょ、処分が解けたのでございますかっ?」


 過去の政変において少将へと据え置かれることになった行武。


 是安の見たところ、未だ昇任はしていないようだが、武功を挙げれば、あるいは反乱鎮圧という重大任務に成功すれば昇任することは間違い無い。


 そして今まではそういった華々しい功績を上げ得る地位に行武が昇ることはなかった。


 それが今回は違うのである。


 正に昇任する可能性のある責務を任せられたのである。


「大王はお許し下さったと言うことだろうが、他の貴族共の思慮は分からぬ」


「あの様なことで一々処分を受ける方が庶民からすればおかしいと思われますが……」


「わはははは、如何にも是安の申すとおりじゃが、貴族とはそういうものだ」


 是安の言葉に大笑いと共に言う行武。


 是安ら庶民にすれば取るに足らない理由と感じられた過去の政変も、血縁や純潔性を重んじる貴族社会においては十分に政変の理由たりうるものなのだろう。


 それで行武が地位を失ったのは事実であり、そのお陰をもって救われている民が多くいるのも事実。


「たかだか夷族の貴人と契ったくらいで……北の地や西の地、更には南や東の地ではそれも普通でございます」


「普通が普通でないのが今の貴族で貴人じゃ。京府の貴人達は、自分ら以外に貴人が存在することを認めておらぬ。そして和人以外も人と認めておらぬ」


 ため息をつきながら言う行武が鎧を是安に預けると、屋敷で雇う女房衆が集まってきた。


 誰も彼も、行武の北辺派遣を知ってか顔色は良くない。


 なぜなら彼女達も行き場の無かった所を行武に拾われた者ばかりだからだ。


 行武はそんな彼女達に笑顔を向けて言う。


「その方らの勤め先は世話しておく、心配せずとも良き者達に頼み置く故に、心安くせよ」


「……殿様」


 声を詰まらせる女房衆に、集まってきた子供達は自分の母親へと駆け寄ると、行武に厳しい視線を向ける。


翻って行武は、その子供達に優しい笑みを返した。


「何も心配は要らぬ。わしが良いようにしてやる」


「とのさまはおれたちをみすてるのか?」


「これ!」


 子供の1人が行武に投げかけた言葉を聞き、是安が顔を青くして慌てて窘める。


 しかし行武はその子の手を優しく取り、笑みを深めて言う。


「そうではないのじゃ、わしは先の大王より北の辺地へ行く役目を仰せつかったのでな、お主らと共にあれなくなったのよ」


「……おれたちを、すてていくのか」


「そうではない、そうではないのじゃ……わしとて子らと分かれるのは辛い、だが危険を伴うお役目じゃ、子らにも危難が及ぶやも知れぬのでな、聞き分けてくれい」


 行武の言葉に、子供達は一様に下を向く。


 行武が自分達を捨てるような人物でない事は、彼らも分かっているのだ。


 それでも他家に自分達やその母親を預けなければならないような、そんな重大な事態が起こった、いや起こってしまった。


 優しく諭すように話す行武の言葉そのものより、その態度で理解を深める子供達。


 やがて誰ともなく鼻をすすり上げる音が漏れ始める。


「何も心配は要らぬ、お主達にも少し早い自立の時が来ただけのこと、お主達なら立派にやっていけよう。わしは北の地でそなたらの名が聞こえて来るのを待つとするわい」


 そこまで言うと、行武は子供達全員を大きな身体で抱えるようにして抱き込んだ。


「……立派に育てよ」


 


 


 梓弓家の家令、財部是安たからべのこれやすは、温和な見かけとは違ってかなりのやり手である。


 それもこれも、銭勘定をあまり気にしない主君である行武に鍛えられたからだ。


 尤も、鍛えられたと言っても不穏な意味はなく、文字通り行武から加減乗除の手解きを受けた後に勘定方の見習いを経て、今では梓弓行武の家の運用管理一切を担っている。


 かつての上役や先達は他家に奉公換えしたり、行武の支援を受けて商家を興したりして独立して行き、10年ほど前から是安が家令となって行武の財務を管理していた。


 年齢は20歳をいくつか過ぎたころで、行武の家における勘定方は彼1人である。


元々朝廷で財務を取り仕切っていた財部家の末席に連なる者ということもあり、才能はあったのだろう。


 財部家そのものは、かつて同じ財務や税務を司る集貝家ためがいけとの政争に敗れ、朝廷を追われて庶民となったが、その才は是安の中に確かに流れている。


 夜半になり、子供達も落ち着いた屋敷の書院。


 蝋燭を2本だけ灯した薄暗い部屋で、正座して書き物をする行武の元へ、是安が大量の書類や竹簡を持って現れた。


 板張りの廊下から、是安が跪いて声を掛ける。


「殿様」


「おう、是安か、入ってくれい」


 古ぼけた木で出来た衝立の陰から発せられた行武の声を聞き、是安は書簡の類いを抱え直して部屋へと入る。


 衝立に負けず劣らず古ぼけた自分の文机の端へ書類を置く是安に、行武がおもむろに声を掛けた。


「是安よ、武具や糧秣を除いてじゃが、この屋敷と家財一切、売り飛ばせば如何程になろうか?むろん、宝物の類いも売って良い」


「……お屋敷は場所が場所ですので、おそらく300両ほどにしかなりません。武具の類いや衣類、糧食について除外すれば、家財や宝物類などで千両ほどにはなりましょうか……蓄えは密かに4千両ほどあります」


 行武の問いに、淀みなく回答する是安。


 それを聞いた行武は筆を止めて硯の上に置き、顎に手をやりながら思案する。


「ふむ、屋敷を売った300両は退職金や女房達の奉公換え宛てへの迷惑料として使うか……残るは5千両よのう」


 庶民からすれば一財産に違いないが、貴族の財産としては極小さい。


 とても弾正長官などと言う高位にある貴族に見合う財産ではなかった。


 因みに、同格同位の硯石家に連なる者であれば、桁が2つほど違うだろう。


 落ちぶれたといえども貴族。


 そんな行武でも、全財産をつぎ込めば3千名の兵を1年間何とか養うくらいのことは出来る。


「大王から兵の召集と諸経費については公費で賄う命を受けておるが、硯石の者共が何を言い出すか分からぬからな」


 それは是安も懸念していたことなので、行武の言葉に黙って頷く。


 いかに先代大王の命令といえども、実務を行うのは官人であり、貴族である。


 しかも財務に関することは、硯石家とも懇意の大蔵家が握っているのだ。


 公費の支出を十分に受けられないだけならまだしも、下手をすれば一切支給されない可能性もある。


「あまり公費を宛てにはせぬ方が宜しいかと。どの様な阻害妨害があるか分かりませぬ」


「左様なことはないと思いたいが、今の朝廷のありようでは分からぬ」


「はい」


 難しい顔で首を捻る行武に、是安も同意の返事を返し、それから一呼吸置いて言葉を発する。


「最悪の場合、公費支給がない、それは致し方ございません。しかし北鎮将軍の位があれば、軍費に充てる諸経費や食料は赴任先で徴収出来る事になっているはずです」


 確かに反乱鎮圧や外敵討伐のために軍を預けられた将軍には、強制力を伴う現地においての戦費調達が認められている。


 概ねは国司から兵糧や税として納められた布類、金銭を融通して貰う形だが、過去には村や町から徴発した例もある。


 行武も当然その権限については知っている。


「うむ、それは分かっているのじゃが……それとて、季節や国によっては1年待たねばならぬ。無い物は貰えぬからのう。最低1年分の食う分だけの手当は必要じゃ」


「はい、当面の分は当家出入りの商人や、都の商家を通じれば手配できましょう。後は道々金銭をもって買い入れる形にする方が良いかと思います」


 行った先が収穫後であれば良いが、不作や収穫前である場合は融通できるほど食料に余裕が無い事もある。


 徴発や強制徴収といった手段は、後々に禍根を残すので取りたくない。


 また、禍根を残してまで実行した所で十分な食糧を確保できない可能性もあるので、悪手と言えよう。


それならばある程度の量は都で揃え、道々余裕のある場所で買い入れる方が良い。


 むろん、国庫からの支給があった場合も同様に、糧秣と金銭で半々にして受領するつもりでいた。


「既に手配は先程済ませています。明日には商人達が査定と搬送にやって来るでしょう」


「おう、是安は仕事が早くて助かるわい。何分わし最後のご奉公じゃ、宜しく頼む……それから是安よ。自身の身の振り方も考えておいてくれい」


「はっ?」


 発せられた思い掛けない言葉に、呆気にとられる是安。


 その様子を見た行武は、ゆっくりと言葉を継いだ。


「その方ならば財部の者達を始めとして都人の間に伝手もあろうから、商家としてやっていけるじゃろう。我が梓弓の関係者である書状もしたためて与える。長年の労苦に報いるにはいささか少ないが、店を出す元手くらいはわしが出すわい」


「いやいやいやいやいや、何を仰っているのですか!」


 一瞬後、呆けていた是安が勢い込んで片膝を立てて言い募る。


「殿様の最後のご奉公とあればなおのこと!付いてゆかぬ訳にはまいりません!」


貴族として落剥して久しいが、それでも是安ら財部の一族は商家や商人として都でそれなりの財を成し、生活の道を切り開いていた。


 その彼らの前に再度立ちふさがった硯石家。


 都での商売に掛かる運上金を上げたのだ。


 特定の貴族に対する奉納金を納めている商家や商人には免除され、また同様に特定の貴族と取引がある商家や商人もこれを免除されるものだ。


 都の商業を統制するためと言う名目で、貴族から信頼や利益を得ている商業者達に対する優遇策である。


 朝廷から放逐されて以来、貴族社会とは距離を置いていた財部の一族はこれで大打撃を受けることになってしまう。


 都人相手に手広く商売をやっていたこともあだとなった。


 取り扱っていた品のほぼ全てに運上金を課せられ、優遇された商家や商人達との競争に敗れてしまうことが目に見えていたのである。


 市井の者達と交わっていた行武は彼らの窮状を聞く。


 丁度部下であった父を事故で失った是安母子を養っていた行武。


 その事実を利用して、自家の勘定方の者として彼らを雇い入れていることにし、更には財部の経営する商家を遡って梓弓家の指定にし、運上金免除を得た。


 行武の働きかけによって、財部の一族は難を逃れられたのだ。


幼いながらも一族の者を救われた事を知った是安は、その後商家を営む本家からの申し出を断って行武の下で働くことにしたのである。


「父亡き後、私ども親子を養って下さったばかりか、一族まで救って頂いた恩はまだ返せておりません!」


「“恩”のう、大層なこともしておらぬが、義理堅いことじゃの……しかしそれは気にせぬで良いぞ?進みたい道があらば申してみよ」


「私の進む道は殿様と共にこそあります!」


 穏やかに諭すように言う行武に、是安は顔を真っ赤にして叫ぶように言葉を発する。


 そのあまりの勢いに、さすがの行武も気圧されてしまうが、計数に明るい是安が来てくれるというのであれば、北鎮軍の勘定方は安泰だ。


「お、おう、そうか?わしとしては勘定方を任せられる者が居れば心強いが……本当に良いのか?」


「是非ともお伴させて頂きたく存じます!」


「ううむ、分かった……宜しく頼むわい」


 最後に行武がそう言うと、是安は顔を紅潮させたまましっかりと頭を下げるのだった。


 そんな是安に、行武はふと思い付いたかのように言葉を継ぐ。


「おう、そうそう、間もなく浮塵子の連中がやって来る。小間使いとして連れて行く故に、手配を頼む」


「はっ!?」


「是安も見知っておろうが、ツマグロとスジクロが頭じゃ、まず使いものにはなるゆえ、任せる」


 呆然とする是安に、行武はそう言い置いて部屋から出て行く。


 しばらく呆然としていた是安は、行武がまた悪い癖を出したことに思い至り、ようやく我に返ると、今日最大の叫び声を上げた。


「と、殿様あ!!!?」

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