第8話

真名人の言葉に、離れていた基家と大兄の王子、更には大生形が慌てる。


 先程の物とは違い、今度は政治的な意図があるので慌て方も半端ではない。


「ま、まだ遺言を聞いておらぬっ」


 大兄の王子が青い顔で言い、基家が密かに暗い笑みを浮かべる。


 本来であればここに呼ばれた大兄の王子が次期大王だ。


 しかし先代はその確実な言葉を残せなかった。


 中立の大生形と気骨溢れる行武をわざわざ呼んだのは、大兄の王子への継承の立会人とするためであろう。


 しかしそれより先に大王の命が尽きた。


 行武の人事では負け込んだが、時間を使った甲斐があったというものだ。


 基家は大王の次男である神取王子かむとりおうじを手懐けており、彼の王子を大王にすれば硯石家は少なくとも30年は安泰だ。


 ならばここで大王継承をひっくり返してしまえば良い。


そう考えて基家が発言しようとしたその時、行武が血まみれの大王の遺骸を抱えて立ち上がった。


 そして驚く3人を睥睨して言う。


「大王の遺言は、わしが聞いた」


「何だと?今際の際の大王に言葉を発する力などある訳が無いっ!そんな遺言を発してはおるまいっ」


 思わずそう口走ったのは、基家。


 本当に遺言を発したがどうかは知らないが、発していないことにしてしまえば良いのだ。


 しかし行武は動じること無く、勢い良く言葉を発した。


「血を穢れと忌避し、大恩ある大王の最期を看取ること無く体を避けよった者共ごときが何を言うか!わし以外に大王の最期の御声を聞き取れる距離にいた者はおるのかっ」


 これには誰もが黙る他無い。


 全員が血を忌避して大王から離れてしまっていたのだから、当然だ。


 しかも誰もが大王が今際の際に何事かを行武に囁いたのを見ている。


 ばつの悪そうな仕草をする基家達。


 行武は彼らを順に睨みつけると、厳かに言葉を発した。


「では、畏まって聞けい」


 基家は小さく舌打ちする。


 他の貴族や官人ならいざ知らず、行武には如何なる脅しも通用しないことを知っているからだ。


 大王の遺骸を抱き上げた行武の前置きで全員が平伏する。


「次期大王は大兄の王子殿下、左大臣は硯石基家殿が引き続きせよ、更に斐紙大生形殿は右大臣となりこれを補佐せよと、大王の御遺言である」


行武から開陳された大王の遺言は、至極妥当な人事内容。


 これ以上無い妥当な人事に、誰もが口を差し挟めない。


 基家は悔しそうに唇を噛み締めて下を向いている。


 基家の発していた不穏な気配を二人も察していたのだろう、大兄の王子と大生形はほっと胸をなで下ろしている。


 行武はそれを見て一つ頷くと、真名人と彼に呼ばれて駆けつけた舎人に命じた。


「すぐに湯殿を用意致せ、大王を清めて差し上げるのじゃ!」


慌てて湯殿の用意に走る舎人。


 次いで行武は別の舎人達にも命じる。


「すぐに奥殿へ赴き、皇后陛下にお知らせせよ!お主は参議殿へ申し伝え、朝議を招集するよう要請せい!」


 矢継ぎ早に指示を出す行武であるが、その指示内容が妥当であるために誰もが口を挟めない。


行武は大王の遺骸を布団ごと横抱きにしたまま濡れ縁へと向かう。


「ど、どこへ行くのかっ」


 基家が忌々しげにその背中に怒声じみた声をぶつけると、行武は一旦立ち止まってから振り返らずに答える。


「湯殿よ、大王をわしが清めて差し上げるわ……それとも本来どおり、最高官位の硯石左大臣殿が為されるか?」


「い、いや……」


 大王の葬儀準備は国事行為である。


湯潅もしかり、本来ならば次期大王や高位大臣が行うべき事だが、死穢を嫌う彼らがそんなことをできるはずも無い。


案の定、基家はさっきまでの勢いはどこへやら、途端に尻込みし始めた。


「では黙っておれい!葬儀の準備でもしておるがよい!」


「うっ」


行武に一喝されて基家が後ろへと下がる。


その気迫に大生形や大兄の王子も口を出せず、歩みを再開した行武の背を見送ることしか出来ないのだった。






 しばらくして湯潅を終え、身体を拭き清めた上で死に装束をまとわせ、寝所へ大王を運ぶ行武がつぶやく。


「……何と軽くなってしもうたことか」


 かつて一緒に戦場を駆け回っていた頃の大王を知る行武は、最早自分の腕に収まる程にまでやせ衰えてしまっていたその身体を見てやるせない気持ちになった。


 筋骨隆々とした肉体を誇示し、固い大弓も軽々と引いていた大王。


 かつての勇姿を思い、行武は言葉を詰まらせる。


 これは病のためだけではない、武人気質であった大王が政治という闇の濃い世界にやむなく身を置いていたが故に重なった心労のせいだ。


 それでも意外に穏やかな大王の死に顔。


 しばらく無言で歩く行武に行き会う人影は無い。


 誰もが死穢を恐れて近寄ってこないのだ。


 国のために戦い、国のために増長する貴族と真っ向から向かい合ってきた大王の死を恐れる。


 その理屈がどうしても理解できない行武は怒気を含めて言った。


「ふん、何が穢れか……国を思いし大王に左様な物があるはずが無いわ」




 そうこうしている内に、長い廊下が終わり濡れ縁に入ると、すぐに寝所が見えて来る。


 寝所の前には舎人と真名人、それから先の典薬長官の和人が待っていた。


「ご苦労だったな」


「……苦労、か。苦労はしておらぬな」


 恥じ入って平伏している真名人に代わり和人が声を掛けてくるが、行武は一蹴する。


 既に大兄の王子や基家の姿は無く、寝所は清められて新しい布団が敷かれていた。


 そこへ大王の遺骸を横たえると、行武はすぐに立ち上がった。


「どこへ行くんじゃ?」


「無論、水浴びよ……穢れかどうか知らんが、大王の血がついておる故に。終わったらわしは帰る、北へゆく準備があるのでな」


 和人の問いに素っ気なく答える行武。


 軽く拭き落としはしたが、大王の喀血が未だ行武の鎧にこびりついているのだ。


 再度、和人が問う。


「……葬儀には出ぬのか?」


「ぼやぼやしておっては基家あたりが大王の最期の人事を覆しに掛かるわ。それこそ大王の弔いにならぬ。そうならぬ内に先手を打つのよ……それに」


 行武はそこで一旦言葉を切るとぐっと拳を握りしめ、何かに耐えるかのように声を絞り出す。


「大王とはしっかり別れを済ませた、思い残すことは無い」


「そうか……」


「ではさらばだ」


 寂しそうに言う和人。


 その姿に気付かぬふりをし、行武は寝所を後にした。


 雪はいよいよ激しく降り、足跡がしっかり付く程にまで積もっている。


 外を見ながらもそのまま清涼殿を後にした行武は、馬を引き取りに厩舎を訪れる。


 そしてその傍らに馬用の飲用水を賄うための粗末な造りの井戸小屋を見つけた。


 懐から辞令を取り出して愛馬の荷物入れへ押し込んでから、衛士に声を掛ける行武。


「……井戸を使わせて貰うぞ」


「え?ええ、どうぞ」


 衛士が普段は朗らかな行武がむっつりとした表情で言うのに驚きつつも承諾する。


 小屋の留め木に結わえてあった釣瓶の縄を解いて行武に差し出す。


「すまんな」


 礼を短く述べると、行武は一気に井戸の中へ釣瓶を落とし込んだ。


 驚く舎人を余所に、老人とは思えない強力で一気に縄を引き上げると、雪の降りしきる中であるにも関わらず、一切の躊躇無く桶の中の水を頭から被った。


 いくら温かい井戸水とは言っても、それは冬の外気に比べてのこと。


 水は水であり、その温度は低い。


 周囲に寒々しい水音がし、行武の口から深い溜息が白い湯気となって立ちこめる。


「少将殿!?」


「梓弓の少将様っ?」


「構わぬで良い」


驚き慌てる舎人達を手で制しつつ、行武はそう言って再び釣瓶を井戸の中へ落とす。


 釣瓶を差し出した衛士が驚愕の声を上げ、それを聞いた舎人や衛士達が集まってきた。


 唖然とする舎人や、集まってきた官人を前にし、再度勢い良く頭から水を被る行武。


 しかし行武は彼らの不審の目を気にした様子もなく言う。


「……気にしてくれるな、ちょっとした儀式じゃ、放っておいてくれ」


 ぽたぽたと頭から凍り付く程冷たい水滴を垂らし、行武はそう言うと再び井戸の中へ釣瓶を放つ。


 そして、もう1回。


 更にもう一度。


 最後の5回目の水浴びが終わると、水滴を顔から垂らしながら暗い鉛色の天を黙って見上げる行武。


 唖然として見守る衛士や舎人達は、3回目にして行武の目から水とは異なるものが溢れ出でていることに気付いた。


 そして彼が何故これ程執拗に水垢離をするのかも。


「少将殿……」


 大王の崩御とその直後の顛末は、側近く使える衛士や舎人達は知っている。


 他ならぬ彼らが控え、見守り、世話をしているのだ。


 彼ら以上にこの内裏の出来事を知っている者達はおらず、また彼ら程情報を共有し、且つ他言しない者達はいない。


「……驚かせてしまったのう、済まんかった」


 気が済んだ行武が、自分の周囲に集まった舎人や衛士、女房達にそう微笑んで言うと、何事も無かったかのように釣瓶を衛士に返却する。


「お陰で気が済んだわい……わしは北の辺国へ向かう。最早この場へ戻ることもあるまい、皆達者でな」


 兜に太刀、箙、そして自慢の大弓を衛士が行武の愛馬へ積むと、行武は礼を述べてからそう言い、手綱を受け取った。


 そうして門から出ようとした行武の背に、未だ幼さの抜けきらぬ声が掛かる。


「梓弓のじいっ」


 聞き覚えのある声に行武が振り返ると、濡れ縁に妙齢の婦人を伴った少女がいた。


 一目見れば、その生まれの高貴さが分かる程の雰囲気を醸し出す少女。


 長い黒髪は美しく梳られており、重ねられている着物は質の良い絹で出来ている。


 しかし見た目の華やかさとは裏腹に、少女は今にも泣き出さんばかりに顔を歪ませ、また傍らに立つ婦人の顔には深い憂いがある。


 周囲に居た舎人や衛士達は一斉に跪き、二人に相対した。


 そんな中、ただ行武だけを必死に見つめる少女は、絞り出すような声を発する。


「……行ってしまうのか?」


実に寂しげな声色。


 厳しい顔をしていた行武だったが、さすがに少し顔を緩めて振り返る。


「これはこれは、小桜姫様に御后様までお越しとは……この老体の見送りには過ぎた方々でございますなあ」


「はぐらかすでない、じい。本当に行ってしまうのか?」


 少女とは行ってももう大人の入り口に立つ年齢だ。


 それに彼女、小桜姫は聡い。


 自分の父親である大王が死に、大きな変化が自分の身の回りに起ころうとしていることを敏感に察知したに違いない。


 そしてその変化の渦中に行武があり、またその変化故に行武が自分の近くから離れてしまうことを悟ったのだろう。


 行武は何かと世話を焼いていた孫娘のようなこの姫君に、薄く微笑みを向けた。


「梓弓のじいめは大王の命で北の地に参りますからな。しばしお別れでございます」


「馬には……もう乗せてもらえんのか?」


「ははは、わしがおらずとも、姫様がおっしゃれば衛士や舎人が手配してくれましょう」


 姫の可愛らしいおねだりに、行武は朗らかに笑い声を上げる。


 かつて都大路を行武の馬に乗って散歩したことのある小桜。


 もちろん、勝手に大王の愛娘を連れ出した行武にはその後キツイ譴責処分があったが、都の風を肌で感じることの出来た小桜には忘れがたい思い出として鮮やかに残っていた。


 それからも赴任先の土産を献上したり、飼鳥を披露するために持参するなど、何かと面倒を見てくれた行武に小桜も大いになついていたのである。


「わしがおらずとも、姫様には皆がおりましょう。何ら心配は要りませんぞ」


 励ますように言う行武。


 しかしそれはどこか痛々しい響きを持っていた。


「……じいの、馬には乗せてもらえんのか?」


 行武は続いて、そして再度発せられた小桜姫の言葉に対する返答を窮してしまう。


 彼女がことのほか行武の馬に乗ることを好んでいたのは事実だ。


 行武の愛馬の気性が優しく、また行武が卓越した馬術の持ち主であるがために、その乗り心地が良かったのだろうが、小桜姫はそれ以上に、行武に本当になついていたのである。


 返答に困っている行武を見て、それまで黙っていた亡くなった大王の后で、小桜姫の実母である大王の后、奈梅が口を出す。


「姫、あまり行武を困らせてはなりませんよ」


「……じいは困っているか?」


「いえいえ、困っておりませぬが……じいは公事おおやけごとで都を離れねばなりませんのでな」


 奈梅の言葉に申し訳なさそうな顔をした小桜が言うが、行武は微笑みつつ応じ、身体を二人へと向ける。


 そしてしばらく考える素振りをしてから言葉を継いだ。


「それでは……そうですな。申し訳ありませぬ、最早じいめに姫様のお世話は適いませぬ故に、心利きたる者をお探しになると良いでしょう」


「じい以上に心利く者などおろうか?」


「きっとおりますでしょう、この国は広うございます。わしなどよりもずっと心利きたる者がきっとおります。そして姫様の力となってくれましょう」


不安そうに言う小桜へ、行武は微笑みをそのままに大きく頷いて言うと、今度こそ踵を返す。


 行武の愛馬が首を返す前に、そっとその鼻を小桜の差し出した手に触れた。


「じい」


「……別れは名残惜しゅうございますが、これもまた人の世の定め。北の地より姫様のご成長を祈念しておりますぞ」


 小桜の呼びかけに振り返ること無く朗らかに言うと、行武は雪の降る天を仰ぐ。


「雪は降り、積もりますが、春には解けて田畑に恵みをもたらします。人の世もまた同じ事、冬は必要なものなのです。そして春はきっと来ましょうぞ」


 行武の言葉を聞き、奈梅がためらいつつも言う。


「……梓弓の少将、そなたに春はあったのですか?」


「ははは、未だ来ておりませぬわい」


 奈梅の言葉に行武は改めて朗らかな笑い声と共にそう応じ、歩みを進める。


「春があった……そして冬が来た」


 そして内裏の門をくぐると、再び天を仰いでつぶやく。 


「小春日和こそあれ、わしの冬は何と長いことよのぅ……」

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