第7話
「今すぐ……交付せよ」
「……すぐに、でございますか?」
「二度は言わぬ、わしの命尽きる前に任命せよ」
「は……ははっ」
大王の意向に渋々応じた基家は、真名人が差し出した辞令紙と筆箱を手元に置く。
反乱勃発の報告が来たのは昨年の末で、実際に発生したのは一昨年の秋である。
規模がそれほど大きくないと判断された事と国司が親族の硯石為高すずりいしのためたかであった事から、反乱が発生した経緯や朝廷に報告が遅れた理由の調査、それに加えて責任の所在について曖昧にしたまま放置したのは他ならぬ基家である。
大王が病に伏せっているのを良い事に朝議を専断しているのは基家を始めとする文人貴族達で、大王もこれまでは寝所で受ける事後報告に対して不満を唱えてこなかったのだが、ここに来て責任を持ち出されては基家に抗う術は無い。
行武のような没落武人貴族に高位や新しい役職を与える事には不満があるものの、かと言って反乱を即座に抑えられるような武断派の人材が居ないのも事実。
ここは大人しく今際の際の大王に従う事にして、大王が崩御された後に正式な朝議で人事をひっくり返してやれば良いのだ。
真名人が用意した辞令紙に筆を走らせ、辞令をしたためる基家に大王が告げる。
「任期は……10年とする」
「10年!」
「何だ、不服なのか?基家」
思わず声を上げ、筆を止めた基家に大王が尋ねる。
行武の年齢を考えれば、これは終身任官に等しい。
在任中に官吏や将官が死ねばその遺族に年金が支払われる仕組みだが、この制度を私して久しい基家ら硯石家にとっては良い制度でも、他家が受けるとなれば話は別だ。
ましてや、没落したとはいえ梓弓の家は油断ならない。
かつては大王の最側近の武臣として、権勢を誇っていたのだ。
「い、いえ……鎮守府将軍でも任期は5年でございますので……それに巡察使は廃された役職でございますから」
「大王であるわしの命では不服か……いつから硯石の家は大王の決定に異を唱えられる程になったのか、わしは寡聞にして知らぬ。教えてくれんか基家」
「律令という物がございます。私や私の家が異を唱えるのではなく、律と令が大王の判断に異を唱えるのでございます」
かすれ声ながらも怒気を孕んだ言葉に、再び背筋に冷たいものが流れるのを感じながらも淀みなく回答する基家に、大王は大きな溜息を吐いてから言葉を継ぐ。
時代にそぐわぬとはいえ法は法。その根本となる律令は、未だしっかりとこの国の政治を形作っている。
「ふむ……基家の言は正しい。律令を蔑ろにしては国が立ちゆかぬ……」
「御賢察のとおりでございます」
「しかし、その律令に大王の裁量権も記されておるはずだ……」
「お、仰せの通りでございますが……律令には専断が過ぎた裁量は朝議に諮るべしとも記されております。もちろん、その裁量が否決され得ることも記されております」
「……わしの判断は専断が過ぎるか?斐紙の大納言、大兄の王子よ、如何?」
大王はじっと基家を見つめつつも、言葉だけでそう尋ねる。
確かに巡察使は権能が止められているだけで廃止された訳ではないし、任務地が広範囲にわたることから、職務に時間の掛かる巡察使の任期は不定期であった。
決して大王の専断が過ぎるという程ではない。
昨今、専断が過ぎているのは、むしろ朝議を牛耳っている文人貴族の方だろう。
それをおくびにも出さず、自分の都合の良い時にだけ専断権を持ち出す基家に、大王ははらわたが煮えくりかえる思いだったが、既に自分の寿命は尽きた。
事は円滑に運ばなければならない。
「専断が過ぎるとは申せませんでしょうな」
「……巡察使が必要と大王が認められれば、よろしいのでは?」
大兄の王子と大生形がそう相次いで回答すると、大王は満足そうに笑みを浮かべ、その直後咳き込み始めた。
翻って基家は無表情ながらも、怒気を孕んでいた。
しかし、今この場所で大王の決定をひっくり返すことは出来ない。
未だ大王は存命なのだ。
筆を止めた基家は、大王が一頻り咳き込み終わるのを黙って待つ。
その間、行武と大兄の王子、斐紙大生形は2人の遣り取りを静かに見守る。
行武は、自分の人生が今この時に変わろうとしていることを薄々感じながら。
大兄の王子は来るべき即位に向けて、硯石基家がどの様な手練手管を使うのかを観察する為に。
また斐紙大生形はこれから沸き起こる政争に少しでも有利な立ち位置に立とうと、周辺の人物を探りつつ二人の遣り取りを見る。
大王の咳の声だけが響く奇妙な時間が流れ、終わり、基家が徐に口を開く。
「では、7年で宜しいでしょうか?」
「……良きに計らえ」
根負けしたような大王の言葉で、止まった基家の筆が動き出す。
しかしそれは大王と硯石家の間で為された政治的決着だった。
「行武よ、兵は3000を許す……費用は国庫でまかなうが良い、頼むぞ」
やがて基家の手によって黒々と墨書された辞令が、大王のかすれ声と共に行武に手渡された。
黙って押し頂く行武に、大王はふっと笑みを浮かべた。
そしてその直後、激しく咳き込む。
「大王!……いかん、すぐに薬湯を補充せよっ」
外で控えていた真名人が慌てて舎人に命じる。
持っていた薬湯を真名人が大王に飲ませようとするが、それは果たせず大王は激しく喀血した。
鮮血が寝所を汚し、血飛沫の数滴が真名人に降りかかる。
「うっ!」
慌てて顔を袖で覆って逃げる真名人。
大兄の王子と斐紙大生形、それに硯石基家も顔をしかめ、慌てて寝所から遠ざかる。
しかしそれとは反対に、行武は手にしていた辞令を鎧の下へぐいっと押し込むと、血飛沫を浴びながらも動じること無くにじり寄り、大王の背中に手を当ててゆっくりと持ち上げた。
そして再び激しく咳き込み、喀血する大王の背をさする。
大王の血を鎧の胸に浴びる行武を、周囲の者達は息を呑んで見守るばかりで、手を出そうとはしない。
「……大王が苦しんでおられるというのに何という体たらくか!」
行武が叱責するように言うが、それでも手を貸そうという者は居ない。
それどころか、更に身を退く始末だ。
「仕方ないのだ……行武よ、時代というものよ……」
「わしは認めませぬ」
「ふははっ……相変わらずよのう」
強い口調で反駁する行武に、大王は苦しみながらも笑みを向ける。
「はあはあ……済まぬな、っ行武よ……わしが至らぬばかりに、苦労を掛けた……次の大王はそこの大兄の王子に任す、左大臣はそのまま……斐紙を右大臣にっ……げほげほ、がぼっ」
「何を気弱なことを仰いますかっ、目を開いてしっかりなさいませ、今際の言葉をもう一度述べられよ!わしがお助け致すっ」
そう励ます行武だったが、大王の身体から重みが急速に抜け、目から輝きが失われていくのを見て、最早死人になりつつある事を知る。
「ふふふ……病によるとはいえ死に臨み、鎧姿の戦友に抱かれて逝けるとはの、歴代大王に自慢が出来るわい……ぐっ、はっ」
「……大王っ」
「くれぐれも、後は頼む……悪いな、先にゆくぞ、行武よ」
ふうっと大きな息を最後に吐き出し、大王はそれだけ言うと静かに目を閉じた。
同時に行武の腕に掛かる力とぬくもりが急速に抜けていく。
誰もが言葉を発しない。
いかほどの時間が経っただろうか、行武はは一瞬、ぎゅっと大王のすっかり小さくなった身体を抱きしめた。
「承って候っ」
鎧のせいで大王の身体を感じることを出来ず、初めて鎧姿を後悔する行武。
しかしこのまま大王の遺体を抱えたままぼやぼやしている時間は無い。
行武は傍らで腰を抜かして呆けている真名人に顔を向けた。
「典薬長官、しっかりせんか!大王の今際の脈をおとりせいっ」
「はっ?」
行武に叱咤された真名人が慌てて大王へ近付き、その手首に触れるが、既に体温が下がり始めており、その冷たさに驚いた真名人が一瞬手を止める。
しかし行武の怖ろしいまでの視線を受けて辛うじて避けるのを思い留まり、その脈を取るが、当然ながら、既にそれは無い。
その冷たさと脈を失った手首を呆然として見つめる真名人。
大王は既に崩御していた。
「どうなんじゃ!」
行武の叱声に、真名人は平伏して言葉を発した。
「お、お隠れになりました……っ」
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