第5話
「それは申し訳ないですな。では、早速向かいましょうぞ」
行武がそう言いつつ箙と弓を背負い、太刀を腰に差すと深靴を履き始めるのを見て、和人の目が丸くなる。
「は?」
てっきり武備を解いて、昇殿用の直衣に着替えると思っていたのだ。
そのために早く準備して欲しいと言ったのに、行武はあろう事か鎧兜姿で昇殿するつもりのようだ。
慌てて和人が言う。
「だ、弾正長官どの、せめて武備は解いてくれまいか?」
「何を仰るか!わしはこの京府において武を司る弾正長官にして近衛少将、この姿がいわば正式な装束、それに今は一刻を争うと見た。着替えをしている暇は無いのですぞ!」
行武は和人にそう言うと、ずっと控えていた是安へ指示を出す。
「是安、後の措置は任せた」
「承知致しました、お気を付けて」
是安はすっと頭を下げてから行武と和人の為に脇に退く。
「弘光!馬を引け!」
裏手で女房から給仕を受けていた兵長の弘光に行武が命じる。
「はっ」
弘光は食事を中断して素早く立ち上がると、兵の1人に命じて行武の乗馬を引き出させ、女房が慌てて持ってきた馬具を装着し始める。
それを見て和人が身を引きつつ行武におそるおそる尋ねた。
「弾正長官どの、わしは牛車で参ったのじゃが……」
「お主、自ら火急の用件と言うたではないか、この様な時に悠長に牛車など乗っておれるか!」
「そ、それは……」
かつての同輩である和人に、ぞんざいな物言いをする行武。
その剣幕に驚いたのか、はたまた牛車の遅さを自覚しているからか、和人はそれ以上何も言えなくなってしまう。
「では、倅に話を通して下され」
「何を言っておる?お主が案内役を務めると言ったでは無いか」
「そ、それはまさかっ?」
あり得ない事を想定して和人が身震いすると、弘光が馬具を装着し終えた馬を引いてやって来た。
「弾正長官どの、準備出来ました」
「うむ、ごくろう。わしは遅くなるので先に弾正台に戻るがよい。宿直とのいの者以外は解散しても構わぬから、後の処置は弘光に任せるので、弘光の指示に従うように」
本来、弾正台には貴族である次官やその下の役職に就いている者達も居るが、実際に現場で実務に携わっているのは行武1人だけなのだ。
なぜなら彼らは、書類仕事や経理担当として居るだけだからである。
彼らは本当の意味での弾正台の業務には携わろうとしないどころか、職務内容や兵の氏素性、名すら承知しているとは言いがたい。
故に兵の扱いなど見当も付かないし、兵達の勤務内容も分からないのである。
なので、弘光らの従者身分や平民身分の兵長などが、実質的に弾正台の運営を切り盛りしているのだ。
後の指示を出し終えた行武は、歳を感じさせない軽い身のこなしでひらりと馬に飛び乗り、逃げようと背を向けた和人の束帯の襟髪を大きな手で乱暴に掴むと、自身の鞍壺の前へと強引に引き上げた。
「な、何を無体なっ!」
「つべこべ申さず我慢せい、これが一番早いわい!」
行武によって馬上へ引き上げられ、慌てる和人。
そのまま馬を進める行武の前に、門前で主人である和人が出てくるのを待っていた従者達が目を丸くしている様子が見えた。
「我らは一足先に行く故、お主達は後から参れ!」
言葉を発する事すら出来ずにいる和人の従者達にそう言い置くと、行武は馬に鞭を入れた。
がっと雪の中を嘶きながら加速する馬に、和人が切れ切れの悲鳴を上げる。
「濁声の悲鳴など上げるでないわ、気色悪い。男ともあろう者がみっともないのう!」
「この様な無体をしておいて何を言うかっ!」
にやにやして言う行武に、顔にぶつかる雪を避けようと、目をつぶったままの和人が悪態をつく。
和人の身の預け方はお世辞にも上手いとは言いがたく、馬も走り難そうにしているが、行武は巧みに手綱を捌いて馬を操った。
馬は行武の見事な手綱さばきで道を誤らず、大内裏への最短距離を走る。
昼下がりとはいえ、人通りはこの寒空でそう多くない。
行武と和人を乗せた馬は、早掛けで雪の京府を駆け抜けていくのだった。
京府、大内裏清涼殿
禁じられている京府域内での騎乗、しかも危険な早掛けで参上した行武は、門衛と一悶着あったものの、近衛少将である行武の位階と、先の典薬長官である和人の取りなしで事なきを得た。
「全く、乱暴な!お主は若い頃からちっとも変っておらんな!」
「まあそう言うな、お陰で早い内に間に合ったではないか」
馬上で寒風にさらされ、大きなくしゃみの後で頭や身体に付いた雪を払いながら、恨みがましい顔をして言う和人に、行武はさわやかな白い息を吐きながらうそぶいた。
確かに、上位に当たる左大臣や大兄王子に下位の行武が先んじる事が出来たのは馬のお陰だ、それは感謝せねばなるまい。
これは同じ場に呼び出された場合、下位の者が上位の者より先着するのが礼儀であるからだ。
ただ、行武は早く到着し過ぎている。
「……ちと馬を預けてくるぞ」
行武が乗ってきた馬の鼻を優しくなでた後にそう言い、白い息を馬と共に吐きながら手綱を引いて門の中に設けられている厩舎へと向かう。
その後ろ姿に、和人は白い溜息を吐きながら声をかけた。
「早く戻れよ」
行武の姿が見えなくなってから、空を見上げる和人。
落ちてくる雪の量は多くなり、行武の屋敷を出発した時はうっすら道に積もっている程度であったものが、既に足跡がはっきり付くほどにまで降り積もっている。
「……大雪になりそうじゃな」
そうつぶやいた和人の声色には、言いしれようのない不安がこもっていた。
大王の命はおそらく今夜尽きる。
現役を退いたとはいえ、かつて典薬長官として官営医術の頂点に居た和人。
大王の容態はそうそう伝わってはこないが、食事の量や施している薬湯の種類でおおむね分かる。
息子は多くを語らないが、既に手の施しようが無くなっているに違いない。
文人貴族の武人貴族排斥は大王の体調が悪くなるにつれて露骨になってきており、それに対して武人貴族の反撃も激しくなってきている。
地方では均田制が崩れつつあり、荘園や私有田が増えたことと併せて従来の方式では徴税が上手く機能していないのに、無理な徴税と京府への納税が行われている。
農民達は自分の田や畑を守る為に武装し、その武力を背景に他人の田や畑のみならず、国司の管理する公田までをも押領しているという。
文人貴族は荘園や私有田の名義人となることで、実際の土地所有者から謝礼を受け、国司の立ち入りや徴税を拒否している。
国司は実力行使をしようにも、国ごとに設置されているはずの軍団は税収不足から給与や予算を削られ、武具のみならず人員すら定数を満たす事が出来ない有様。
国司の中には高位貴族の意を受け、荘園や私有田の管理に手を貸したり、荘園主や私有田を持つ武装農民と結託して私腹を肥やすものも現れる始末。
確かに、貴族の地位を利用して在地の勢力と結びつけば納税や徴税は円滑に進むという一面もあるのだが、二重に搾取されることになる民の為にはならない上、国庫の正常化には繋がらない。
国の成り立ちは大きく変わってきているのに、制度や国の体勢そのものが追いついていないのが現状だ。
しかしそれでも、国の為政者たる貴族達は、自身の財産や生活に影響を与えるものでない限りは積極的に改革しようとはしない。
「父上、ありがとうございました」
「何の、今風の若者に行武のお守りはきつかろう、わしで良かったわい」
息子の真名人から労いの言葉をかけられ、和人もようやく機嫌を直す。
馬を部下でもある門衛に預けた行武が戻ってくる。
にこやかな笑顔を向けたその姿を見て、真名人が顔を引きつらせた。
行武の鎧兜を装着した上に、太刀や弓矢を背負った、およそ昇殿には相応しくない姿を目の当たりにしてしまったのであるから、当然だろう。
真名人からすれば、余り言葉をかけたい人物ではないが、曲がりなりにも大王の使者を務めた以上は責任がある。
こと大王の御前に出るとなれば、非常時以外に武装してと言う訳には本来いかない。
真名人は勇気を振り絞って行武を問い質すべく声を発する。
「弾正長官どの、その装束は……」
「ああん?」
意を決して注意しようとした真名人だったが、行武にあごを突き出されてすごまれると、目をそらして言葉を切る。
「いえ……」
行武の迫力に、振り絞ったはずの勇気はあっさり霧散する真名人。
ただでさえ、風雅の世情である。
特に武というものに関しては、穢れを生み出すものとして忌み嫌われている。
風雅の世情しか知らない真名人らの世代以降の者達からすれば、武人貴族という存在自体が既に信じられないものなのだ。
一見すれば目鼻立ちも控えめで顔立ちも優しく、体付きは武人らしく引き締まっているものの、きっちり整えられた白い口ひげや白髪は、とても武人として半生を過ごして来たとは思えないたおやかさや優雅さに満ちあふれている。
文人貴族が理想としている“老貴族”をまるで体現したかのような容姿の行武。
実際、年賀の朝議や大祓の際に行武が直垂を着用して参内した時の姿は、語りぐさになっているほどである。
しかしながら行武は掛け値なしの“実戦経験者”であり、生粋の“武人貴族”なのだ。その身には武略によって斃した敵達の死穢がたっぷりくっついている事だろう。
行武の纏うであろう死穢を思うだけでも、息苦しくなるような気がする真名人。
その様子を見ていた父の和人が溜息を吐く。
「やれやれ……真名人よ、しっかりせぬか。行武に勝手に呑まれるでない。その方は曲がり形にも大王の使いであろうが、毅然とせんか」
「い、いえ、その……申し訳ありません」
和人の言葉に、真名人はうなだれる。
和人はひとまず息子を叱り付けてから行武に向き直って言った。
「行武よ、せめて兜を取って、太刀と弓はおいてゆけ」
「……承知したわい」
悪びれた様子もなく応じると、行武は素直に兜の緒を解き、太刀と箙を外して弓と共に近付いてきた衛士に手渡すのだった。
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