第4話
「おかえりとのさま!」
「おしごとおつかれさまです!」
「おとのさま、てのものをおあずかりします!」
「きょうはおはやいですねっ」
「また、ふねにのったときのはなしがききたいです」
「ぼ、ぼくはにしのくにおはなしがききたい」
「わたしはひがしのくにのはなし!」
「……きたのぶぞくのおはなしがすき。みなみのしまのおはなしもすき」
口々に言うのは、その中でも年かさの男の子と女の子。
他の子供達は後ろでにこにこしながら行武を見ている。
そんな賑やかな出迎えを受けた行武は、寒さも忘れ、嬉しそうに相好を崩して応じる。
「おう、まだ帰りではないのでな、片付けは無用じゃ」
「そうなのですか?」
「はは、勘違いさせて済まんな、由羽ゆう」
一番の年長と思われる女の子が首をかしげながら言うと、行武は鹿皮の手袋を填めた手をそのままにその頭をなでて答えた。
くすぐったそうにしながらも笑顔の由羽を見て、他の子供達も行武に群がる。
「おうおう、順番じゃ順番」
名残惜しそうな由羽から手を放し、満面の笑顔で順番に子供達の頭をなでる行武。
この子達は行武の雇う女房衆の娘や息子達。
「きょうはいつおかえりですか?」
「おう、まあ夕刻には戻るであろう」
由羽の問いに機嫌良く答えた行武であったが、その背後から是安が固い声をかける。
「行武様、典薬長官様からの御使者でございます。火急の用件であるとか……」
「そうか、では客間にお通しせよ……由羽、それから子らよ、悪いが今日の帰りは遅くなりそうじゃ、母御らの言いつけをよく守って先にお休み」
「はい、わかりました」
聞き分けよく返事し、元来た奥の方へと戻っていく子供達。
むずかる子供もいたようだが、由羽が上手くあやして連れて行く。
子供達の背を笑顔で見送り、行武が振り返ると、まだその場に是安が佇んでいた。
「どうしたのじゃ?」
「いえ、それが……」
訝る行武が戸惑っている是安に問うと、背後から別の老齢の男が現れた。
「これは先の典薬長官どの」
軽く驚いた行武が頭を下げながら声をかけたその老人は、先代の典薬長官である薬研和人やげんのにぎひとであった。
現在の典薬長官の真名人の父親に当たるが、既に引退して久しい。
和人はゆっくり頷いて行武の礼に応じながらも、厳しい表情で口を開く。
「上がり框で失礼する弾正長官どの、久闊を叙したいところであるが、供応を受けている暇が無い。わしは倅の使者として参った、すぐに清涼殿へ参じて下され」
「清涼殿とな?内裏のいずれか他の場所ではないのですかの?」
不審に思い問い返す行武。
それもそのはず、清涼殿は大王の御座所であり、いわゆる生活の場所だ。
そんな所へ呼ばれる理由が行武には無い。
それに勅使であるならともかく、大王の側に仕えているとは言っても大王本人からの使者ではなく、典薬長官どのの使者から大王の御座所へ出頭を求められるというのは、普通に考えてもおかしい。
そんな行武の不審を感じ取ったのだろう、和人は1つ頷いてから言う。
「ご不審、ご懸念はごもっともであるが、曲げて願いたい。倅めの話では大王の容態に関わる事であるとの事だ……ああ、間違っても他に大きな声では言ってくれるでないぞ」
「大王の?」
確かに大王は最近病に伏せっているが、その容態については詳しく伝わってきていない。
貴族達の間では、もう既に大王の命は長くないのではとの噂も立っている。
それまで大王は体調が優れずとも、朝議には時折顔を出していたのだが、最近は一切姿を見せない為だ。
幸いにも成人の次期大王である大兄の王子も居り、後継問題については存在し得ないのだが、それでも大王の崩御ともなれば一大事である。
しかし行武が大王の容態を聞いた所で、何かが出来る訳でもない。
「わしが病身の大王の御座所へ駆けつけた所で、何のお役にも立てんのじゃが?」
「ええい間怠っこしい!要するに!大王が我が倅を通じてお主を呼んでおるのじゃ!」
これだから武篇者は、とんだ貧乏くじだわいと、ぶちぶち文句を垂れている和人を見て行武はようやく合点がいった。
和人の垂れる文句を詳細に聞くに、典薬長官は行武の所在を掴みかねてあちこちに使者を送ったようだ。
大王が病に倒れてからもうかなりになる。
おそらく大王の命が尽きようとしているのだろう。
行武に対して礼を失さない程の釣り合いある身分をもち、加えて信用出来る者が居なかったので、父親である和人までかり出されてしまったらしい。
「……なるほど、大王がわしをお呼びとは」
感慨深げに言う行武。
世代的には大王と同じである行武は、かつて武略の有識故実に長けた戦部の末である梓弓氏の俊英として期待されていた。
若い頃は平和な世の中で勢威を落とす武人貴族の希望の星ともてはやされ、大王の国見や西域諸国との国境戦争で大いに活躍したのである。
しかしながらそんな行武も政治の汚い部分、つまり政治闘争には疎く、兵や民からの人気は高かったが台頭してきた文人貴族からは疎まれ、蔑まれていた。
大王に大いに気に入られて順調に官位を上げるも、政務官として務めたことはほとんどなく、専ら武官として務めを果たしてきた行武。
一時は庶流であるにもかかわらず、兵部省の次席である兵部輔にまで登り詰めた行武であったが、その直後北で勃発した反乱に対する征討将軍として派遣された際に、都での政争のとばっちりを受けて将軍位を剥奪されて一気に没落してしまったのである。
元々支族扱いされる末弟でありながら、氏長者である長兄の嫡子である梓弓威芝あずさゆみのたけしばより昇進してしまっており、兄や威芝を含む嫡流の一門衆から疎まれていたことも影響した。
本家は行武を救うために氏族としての労力を費やして勢威を落とすより、切り捨てて無関係を貫く方が良いと判断したのだ。
結果的にはこの一件が影響して、かろうじて均衡を保っていた文人貴族と武人貴族の力関係は一気に文人貴族側へと傾くことになってしまう。
行武はそれでも武功や朝廷への貢献を認められ、流罪や政務資格の剥奪を免れる事が出来たばかりか、辛うじてではあるものの、官位を維持する事もできた。
これは偏に大王の取りなしに他ならない。
かつて幾度となく戦場で大王の命を救ったことのある行武は、年少の頃から大王に側仕えていたこともあって、深く信頼され続けていたのである。
そしてその絶大な信頼は、政変であってもいささかも揺らぐことは無かったのだ。
しかしながら将来の無い者となってしまったことに違いはなく、行武はそれ以来昇進する事も無く舎人頭や近衛府の少将位を行ったり来たりしながら、半ば飼い殺しの状態であった。
もちろん、そんな落ちぶれ貴族の、しかも庶流にあたる者に嫁ごうという姫君も無く、行武は現在に至るまで独り身である。
そんな侘びしく、しかも寂しい生活を送っていた行武に吹く風の向きが少し変ったのは、丁度10年前から。
京府の治安を預かる弾正長官に就いていた文人貴族が京府域内の治安悪化の責任を取らされ、罷免されたのである。
さすがに治安向上に関する実績を一切残せず、敵対貴族の粗探しのみを行っていたその貴族に対しては文人貴族がいくら庇い立てしようとも庇いきれないほどの失策や非違行為があり、左大臣の硯石基家も怒りを爆発させた大王を抑えきれず、後任に行武を指名する羽目になった。
文人貴族にとっては、給与の割に苦労の多い弾正長官など閑職に過ぎない。
正直言って、この時点で既に弾正長官のなり手はいなかったのだ。
推挙する者もされたがる者も居らず朝議が停滞していたところ、たまたま朝議の警備に就いていた行武が手を上げたのである。
行武も正五位下を持つ歴とした貴族で役人だが、不良貴族を自認する行武は朝議には滅多に出ない。
しかしそれでも朝議に出席権限のある行武の発言は何ら制限される事も無く通り、大王も他に適任者がいなければ良いだろうと、左大臣の貴之が止める間もなく即座に裁可したのであった。
はっきり言って閑職とは言っても、敵対している貴族に役職をやるのはまずいという意見も文人貴族の間で出たが、行武であれば過去の不祥事を理由にして官位を上げずにこの厄介な役職を押しつけられる。
そんな打算もあって、議論は噴出したものの行武の弾正長官就任が決まった、といういわくがあったのだ。
その朝議が行われた10年前から弾正長官として都の治安を預かっている行武だが、失うモノは何も無い彼の取り締まりは貴族に対して極めて厳正、且つ庶民に対しては温情に溢れたもので、民の罪は情状を汲みつつ、貴族については取り分け厳しく追補、追及することから都の人々は大いにこれを歓迎した。
お陰で悪化していた治安は回復し、また納税人足や付近の農村に対する私的な施しや雇用によって、庶民が住む地区の荒廃度合いが軽くなった。
武力を持つ官庁の長官だけに、本来の任期は他の長官職が4年であるところをその半分のわずか2年なのだが、実績と大王の信認、それに都人の慰留嘆願もあって、行武は任期を延長されている。
その結果、任期を大幅に超え10年を過ぎても未だ弾正長官の職に留まっている行武。
文人貴族は、事あるごとに口うるさく取り締まりを行う行武を一旦は任命した弾正長官の職から外そうとしているのだが、高位に就けようにもほどよい職に空位が無く、またその時々の後任候補者は、抜群の功績を挙げた行武の後で、自分の事績がそれと比較される事になるのを嫌って、弾正長官の職へ就く事を断り続けた。
加えて大王や都の民の意見を無碍に出来ない事情もあり、その企ては幸いにも成功していない。
本来許されない人事ではあったが、そのような事情から半ば黙認されて来たのだ。
ただし、特例を認める代わりに、行武の官位と職給は上げない事が決定された。
これはもちろん文人貴族の嫌がらせに他ならないが、特例の見返りとあっては大王も受け入れざるを得なかったのである。
ある意味文人貴族達は、大王の信認厚い行武の職給を嫌がらせ的に減らす事ぐらいしか出来なかったのだ。
その大恩ある大王が、おそらく今際の際に自分を呼んでいるという。
自分の事をそこまで気にかけてくれていたのかと、今更ながら胸を打つ熱いものがあったのだ。
「この様な気持ちがまだ残っていようとは……」
大王の命がもういくらも残っていないという悲しみと寂寥感。
それに、今際の際にまで自分を呼び、目をかけようとしてくれている、気にかけてくれているという感動。
こみ上げる感情を堪え、ぐっと空を仰ぐ行武の顔に、雪がはらはらと落ち、流れる薄い涙に触れて溶ける。
しばらくそうしてから、何とか流れる物を切る事の出来た行武は、和人に向き直って力強く言った。
「先の典薬長官どの、お役目ご苦労でございましたな。用件は確かに承知致した、直ちに昇殿致しまする」
行武の殊勝な言葉を聞いてほっとしたのか、和人は幾分表情を和らげて答えた。
「では疾く準備願いたい、わしが案内役を務める」
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