第3話

「は?」




 一部の兵士は吹き出し、山下麻呂達は自分達の境遇を嘆くのも忘れてぽかんと口を開く。


 貧乏とは言ってもあくまで貴族の間に限っての話であるが、それでも行武は拳を前に突き出し、何故か自信満々に力説する。




「別に家人を雇っていては、到底お主らにやれる金など出て来んし、かと言って家人を雇わん訳にもいかぬ。故にわしはお主らを雇う他にお主らに渡す金を工面する手段が無いのじゃ!」


「は、はあ……」


「故にお主らを家人として雇う……ちなみにお主らはどこから来たんじゃ?」


「東先道の広浜国だ」




 それまで勢い良く話していた行武だったが、山下麻呂の口からその国名が出ると、目を見張った。


 普段豪毅で快活、それでいて物事に動じることの無い行武が、はっきりと動揺して口ごもっている様子に、兵達が訝しげに眉をひそめて行武の顔をのぞき込む。


 普段見せたことのない上司の神妙な顔つきに兵達がざわつき、男達も自分の故国がこの老貴族に何の気持ちを思い起こさせたのか、不思議な思いでその顔を見る。




 しかし行武はそんな周囲を意に介さず、しばらく雪の降り来る天を仰ぎ、口元を数瞬震わせてから、山下麻呂達に向き直った。


 そこには先程までのはっとするような憂いの色は無い。


 しかし表情には明らかに無理をしたような笑顔がある。




「広浜国とは、またえらく遠いのう!まあ心配いらん。5か月も働いておれば、かつかつであるが、帰国費用は出るじゃろう」




元の調子に戻った行武が言うと、男達が互いの顔を見合わせた。


 貴族の屋敷へ住み込んで働くとなれば、最低限の衣食住は保証される。


 それに加えて給金が支払われるのであるから、確かにこの老貴族の言うとおり、4ヶ月か5ヶ月も働けば路銀ぐらいは調達できるだろう。


 その頃になれば季節柄も良い。




 この老貴族ならば、信用してみても良いのではないか?




 補填の為に持参した自分達の食い扶持までもを大蔵省に召し上げられ、縁故貴族である金鞠氏からも援助を断られた時点で、本来は終わっていたのだ。


 他に路銀を得る手段も無い。


 もう残された道は、押し込み強盗ぐらいしか無かった山下麻呂達は意を決した。




「お世話に……なります」


「宜しくお願い致します」




 口々に言う男や少年達を見て満足そうに目を細め、行武はゆっくりと言う。




「うむ、まあ、ある程度はわしに任せよ。後は自助努力じゃ」




 未だ戸惑いを含んでいる山下麻呂達の肩をぽんぽんとたたきながら、行武は笑みを浮かべて歩き出すのだった。










 少年達の中で、1人、行武の名を聞いて絶句して立ち続けている者がいた。




「おい、雪麻呂、どうしたんだよ?行っちまうぞ」


「あ、ええ、うっと、いや、何でもない」




 同輩の少年から声を掛けられて我に返り、ようやくそれだけを言うと歩みを進める。


 その少年の身体は周囲の少年達と比べても一段と細く、明らかに華奢だ。


 顔は浮浪生活を送っていたせいか薄汚れてはいるものの、色白で、目鼻立ちの整った非常に綺麗な顔立ちをしている。


 その少年は、周囲の少年達が訝りながらも歩き始める中、行武のたくましい背中を呆然と見てつぶやく。 




「……梓弓の行武様?」












 その後、京府左京十条四坊、梓弓行武の屋敷




「まあ、見ての通りあばら屋であるが、雨風はしのげようぞ」




 あの後、兵を伴い男や少年達を引き連れて都の大路や小路をするすると抜けてきた行武が、目の前を指で示し、白い息を吐きながらそう言う。


 行武の指の先には、中規模の屋敷があった。




 確かに周囲の諸民家と比べ、造りは古い。




 それでもきれいに掃除が行き届き、茅葺き屋根や板塀も修理や整備がされており、人の手が常に、しかもきっちりと入っていることが外見にもよく分かる屋敷だ。


 とは言っても、周囲に居並ぶ諸民家より遙かに大きく立派である事は言うまでも無いのだが、問題はその所在地である。




「……なんで貴族がこんな所に家を構えているんだ」




 男達の1人がつぶやく。


 それは兵士を含めた行武以外の全員が実は思っていることである。


 おおむね貴族が邸宅を構えるのは、官公庁である内裏に近い右京と左京の三条までで、それも外側の五坊ともなれば、下級役人用の長屋や公舎があるばかり。


 中位から上の貴族は、まずこの様な庶民の暮らす場所に邸宅や屋敷を構えることをしないものだ。


 因みに、京府には東西に走る主要な道が北から南まで10本あり、最北端が一条、反対に最南端が十条である。




 また、南北に走る主要な道は、京府の中心にある大路を基点とし、左京と右京に5本ずつ設けられていて、それぞれ大路に近い道から一坊、最も大路から遠い道が五坊となる。


 更に京府での左右は内裏から南向きに見てのものなので、左京は東、右京は西である。


行武自身も若い時分は梓弓の本宅に近い左京の三条辺りに住んでいたと兵士達も聞いたことがあるが、行武がここに住まうようになってかれこれ30年以上が経つ。


 なのでその頃の行武を誰も知らない。




「まあ、わしは故ゆえ有って万年少将の正五位下じゃからのう」


「はあ、まあ……」




 行武から笑みを向けられた兵長の本楯弘光が、気の抜けた曖昧な言葉を返す。


 行武の口癖である、万年少将が出たからである。


 兵達の誰も何があったのかは詳しく知らない。


 ただ、朝廷での一大事に巻き込まれたのは間違い無いらしい行武。


 最古参の兵ですらその出来事を知らないのは行武の年齢を考えれば当然のことで、なぜなら兵の定年は45歳であるからだ。




 貴族の将官はもちろんこれに囚われず、また兵であっても例外は多々ある。


 それでも行武の軍歴は優に40年を超えており、制限年齢である15歳の時から兵役に就いている者であっても、30年しか務められない兵達は経験では行武にかなわない。


 なので最古参の兵が知らないことも、行武はよく知っているのだ。


 そして、何故か貴族の割に細々とした雑用も好きな行武は、古参兵が気付かないようなことでもよく気がつく。


 昔何があったか、行武が何をしてしまったのかは分からずとも、この老貴族が他に代えられない貴重な、兵達の事情をよく知り、それでいて気を遣ってくれる良い将官であるという事だけは分かる。




加えて庶民に優しい。




 今もそうだが、納税人足の帰国を世話するのは当たり前。


 それ以前に都人や農民、商人を問わず誰にでも人当たりが良く、貴族とは思えない気さくさと丁寧さで応対する。


 他の貴族が庶民を蔑んでいるのと対照的で、貴族をいまいち信用していないそういった人々にも、梓弓の少将であればと信用と信頼が寄せられている。


 その結果、各種の情報がよく集まり、行武が弾正長官に就任して以来よく巡回した事とも合わさって、特に京府域内や周辺地域における治安回復に一役買っていたりする。




 全く、貴族と言うには変ったお方だ……




 兵長が納税人足を3月前に引き続いて集めてきた行武の背を見ながら思っていると、屋敷の門が開かれ、顔なじみの若い家令が姿を見せた。




「おう、是安、戻ったぞ」


「ああ、これは、お帰りなさいませ……殿?」




 是安と呼ばれた梓弓家の家令、財部是安たからべのこれやすは、特徴のある丸顔を寒さで赤くしながらも笑顔で行武一行を出迎えたが、一瞬で顔を強張らせる。


 行武の後ろに続く、寒さに震えている十数名の薄汚い形をした男達を見ての事だろう。


 しばらくその体勢で固まっていた是安であったが、行武のわざとらしい咳払いではっと我に返った。


 そして白い息を吐きながら、恐る恐る口を開く。




「して、殿。その後ろの兵以外の方々は……まさか?」


「おう、我が家令殿は察しが良いのう!」


「お、お待ちくださいっ」




 にこやかに応じた行武に、自分の不安が的中してしまった事を悟った是安は、すぐに行武の言葉を遮ろうとしたが間に合わず、決定的な一言を先に言われてしまう。




「元の納税人足じゃ、しばらく屋敷で使ってやってくれい」


「ああっ!?またでございますかっ!」




 兵や山下麻呂達に屋敷へ入るよう手振りで示し、率先して門をくぐる行武。


 是安に気の毒そうな顔を向けてくるのは顔なじみの兵長である弘光だったが、今は挨拶を交わしているいとまも無い。


 行武の財政を預かる是安としては、ほんの10日余り前に納税人足を送り出したばかりで、蓄えは尽きている。




 それでなくとも、付き合いのある商家や梓弓の親族に若干なりとも借財があるのだ。


 当分は借財が膨らむ前にその返済と、何かあった時の為の蓄財に励みたい。




 早く殿を止めなくては!




 しかしそうこうしている内に弘光の案内で、屋敷に納税人足の男達がぞろぞろと入り込んでしまった。


 その後から飛び込むようにして門の中に入り、全員が入るのを待っていた行武に是安が必死の形相で食い下がる。




「殿!当家の財政は決して豊かとはいえません、いえ、はっきり言えば火の車です!」


「うむ、承知している」


「では何故!あの者達を雇用する費用など!どこからも出て参りません!」


「とは言ってものう、見捨てる訳にもいくまいよ?」


「そ、それはそうですが……」




 優しく諭されるような行武の台詞に、思わず下を向いてしまう是安。


 是安も行き場を失っていた所を、彼ら同様行武に救われた身だ。


 行武の人柄とその行為に心酔し、この人のためならばと生涯尽くすことを己に誓ったのだ。




 幸いにも家柄故に算術や計数に明るかった事から、その後梓弓行武家の財政一切を取り仕切る家令となった是安。


 その彼が行武に納税人足を見捨てる訳にはいかないと言われてしまえば、断れる道理が無かった。




「わ、分かりました……何とか諸費を切り詰めて雇用費を捻出してみます……」


「うむ、毎度気苦労かけるが宜しく頼む……ああ、わしの酒食費を削って良いからな。この年になると翌日に堪えるのでな、酒は10日に一度で良い。毎晩も要りゃせんわい」


「は、はあ……わかりました」




 行武の給与はおおよそ一千石。


 決して低い訳ではないものの、かと言って高給取りという訳でもない給与だが、それでも位階と職務に鑑みれば随分と低い。


 因みに行武の位階は近衛少将の位階である正五位下で固定されており、弾正長官の本来の位階である従四位上は与えられていない。


 それでも行武は近衛少将と弾正長官の2つの職を兼任しているので、本来であればその2つの職給が付されるはずなのだが、行武自身の話によれば、全て過去の出来事が足枷となって弾正長官の職給は給付されていないとの事。




 故に20年以上、給与は据え置かれたままだ。




 それにも関わらず、弾正長官を拝命してからは市井の人々との付き合いや、同輩や他省の役人達と酒食を共にする事も多くなり、出費はそれなりに多い。


 何とか遣り繰り出来ているのはまさに是安のお陰なのだが、それでも行武のしようとしている様々な事には費えが掛かるので、慎ましい生活は当分続きそうである。


言うまでも無い事だが、行武のしようとしている様々な事とは、納税人足の帰郷支援や生活援助、また庶民に対する私的な施しである。




 もちろん治安改善の一政策として行っているので、朝廷からも幾ばくかの下賜はあるものの、それではとても賄い切れていないのが実情だ。


 貴族達の住む場所からかなり離れた、庶民街区とも言うべき場所に屋敷を構えたのも、貴族同士の付き合いそのものも然る事ながら、その際に掛かる費用を嫌った為でもある。




「貴族は面倒くさいのじゃ。同輩ならば気遣いもいらぬが、上位の者が来ればそれ相当の歓待をせねばならんからのう。まあ、落ちぶれたわしの所へ来る者もそうそう居らぬが、まあ、怖いものや珍しきもの見たさで来る者もかつておったからの」




 以前、まだ今よりもう少し余裕があった頃、屋敷の移転と新築を進言した是安に行武はそう言って転居を断った事があった。


 色々思い出して動きを止めていた是安に、行武が声をかける。




「では是安、早速だが仕事の割り振りと兵と男どもに給食を頼む」


「はっ、承知致しました。直ちに手配を致します」




 行武の声で我に返った是安が、すぐに動き出す。


 行武の言ったとおり、先頃まで雇っていた納税人足達は10日ほど前に帰郷しているので、今は屋敷は人気が無く静かだ。


 経理担当とでも言うべき家令の是安と、後は食事など行武の身の回りの世話をしている女房衆が5名に、そのやんちゃざかりの子供達が10人余りいるだけだ。




 女房衆と言っても全く色気は感じさせない未亡人ばかりで、これも行武が寡婦となった近隣の農民や都人で生活の術が無い者達を引き取ったからである。


 兵と男達が屋敷の離れへ向かうと、是安も女房達に食事の支度を言いつけるべく裏手へと回る。


 行武は正面から、小振りな寝殿へと入った。


 鎧擦れの音をさせながら深靴を自分で脱ぎ、箙や弓、太刀を外す行武。




 すると奥からとたとたと小さな足音がいくつも聞こえ、間もなく10名余の子供達が現れた。


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