3、

「いいところだな。食事もおいしかったし、お湯もよかった」

 窓辺にて。内縁の低い椅子でくつろいでいると、高瀬は窓の外の景色を見たまま、しみじみと言った。目がすっと切れ長で、首の細い高瀬は、旅館の浴衣が妙に様になっている。

「それは何よりで。ちょっとは気分転換になったか?」

「なったなった。ありがとう、誘ってくれて」

 そう正面から言われると照れ臭い。俺も誤魔化すように窓の外を見た。渓谷に流れる水と、近くの松や遠くの山肌に積もった雪が、煌々とした月光を照り返している。

「景色もいいな」

「ああ」

 なんとなく言葉少なになって、それから沈黙が訪れた。言葉を口にする代わりに、銀色の缶ビールに口をつける。風呂に浸かって火照った身体に、喉を通る冷たい炭酸が清々しい。

「……今日は、本当に、知らないことばかりだった」

「そうかい」

「うん。世界はなんて広いんだって思った」

「怖かったか?」

「いや。真崎と一緒だったからかもな」

 ふ、と俺は思わず笑ってしまった。唐突に何を言うんだ。

「思えば、真崎は、おれが辛いとき、いつも一緒にいてくれた」

「今年の夏とかか?」

「ああ……あのときはしんどかったな」

 一時期、高瀬は本を読めなかった時期がある。

 きっかけは、育ての親だった高瀬の祖父が、帰るなり家で倒れていたことだった。厳しくも愛してくれた人の死。それでもなお連絡をよこさない両親の存在。不調の前兆を見つけられなかったことへの自責。遺された古書店の責務。高瀬は限界まで重い荷物を背負っていた。

 葬儀までは驚くほど気丈でいた高瀬は、年明けの授業から欠席が目立ち始めた。気づくと自分で風呂も入れず食事も摂れない有様だった。生きることそのものがボロボロに崩れてきているのに、高瀬を一番憔悴させていたのは、「本が読めなくなった」ということだった。

「あの時は、何を読んでも頭に入らなかった。文字が情報として処理されてくれなかったんだ。……だからさ、真崎。『だったら俺と一緒に読めばいい』ってお前が突然音読を始めたときは、びっくりしたけれど、すごく救われた気がしたんだよ」

「大袈裟だ」

「おれにとってはそのくらい大ごとだったんだ」

 高瀬は気づくと、こちらをまっすぐに見据えていた。俺はその視線を受け止めきれず、また窓の外に視線を移した。

 どうにも湿っぽい空気を打ち消したのは、ごぉん、と重く響く鐘の音だった。

「除夜の鐘だ」

 高瀬の言葉に、俺は我に返った。

「そうか、もう年越しなのか」

 そうだ、と俺は席を立つ。年を越したら飲もうと思って、冷蔵庫にしまっていたものの存在を思い出した。

「どうしたんだよ、真崎」

 訝る高瀬に、俺は日本酒の瓶を取り出して示した。

「飲んだことないって言ってたろ。さっき売店でうまい酒を選んできた。一緒に飲もうぜ」

 純米大吟醸。奮発して買ったが、これなら初心者でも飲みやすいだろう。

 栓を開け、お猪口を用意している間にも、鐘の音は続く。急かされるように準備をして、ふう、と腰を落ち着けたとき、時計は年越しまであと一分を示していた。

 それからは二人で、食い入るように時計を見ていた。一分をこれほど長く感じたのは初めてだったかもしれない。かち、と秒針が天井を示したときは、知らぬ間に肩に入っていた力が抜け、ほっと息が出た。

「あけましておめでとう」

 お猪口を顔の前に差し出して、傾ける。おめでとう、と高瀬も言って、器を合わせる。小気味のいい音が鳴った。

 それから高瀬は、やや緊張した面持ちで、お猪口の中身をのみ下した。細い喉が嚥下に合わせて動く。

「おいしい。水みたいにするする飲めるな」

 花がほころぶような笑顔は、今日見た中でも一番いい顔をしているかもしれなかった。


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