第23話

 その時の私――黒羽一葉は、自分の行いを深く呪った。私の軽率な行動がなければまーやが……と思うと、自分で自分を殺したい衝動に駆られそうになる。

 まーやの買い物を終え、とりあえずの目的を済ませた私たち。大きな目的もなく、まーやが私のことだけを見てくれる……そんな幸せな時間を送ろうとした時のことだった。唐突な尿意に襲われた私は、まーやに一言残してお手洗いに走った。本当はまーやを一人にしたくはなかったが、どうにもタイムリミットが迫っていて連れてくる余裕はなかった。

 やや長めのお手洗いを終え急いでまーやの元へ戻る私……でもそこにあったのは、地獄絵図と呼ぶに相応しい光景だった。

 結論から言えば、まーやは元いた場所にいた。しかしその状態は、とても平常と呼べるものではなかった。何故ならまーやは……身体に力が入らないほどぐったりして、意識を失ったかのように眠っていた。数分前までの光景とは、天と地ほどの違いだ。

 それだけならまだよかった。可及的速やかに救急車を呼んで、然るべき処置を受けてもらえばいいのだから。しかし意識を失っていたまーやは、ただ地面に転がっていたわけじゃない。とある男の腕の中で眠っていた……それの顔を見た瞬間、私の中で強烈な憎悪の感情が膨れ上がった。今この瞬間ほど、その男がアイツ……夢宮であればどれだけよかったかと、思ったことはなかった。

「関山ぁ……アンタが、なんでここに⁉」

「ん? 誰かと思えば……いつも摩耶のそばにいる、金魚のフンか」

 私の姿を確認するや否や嘲笑するその男……関山は、優位な状況に立っているのもあって胸をふんぞり返していた。その顔面を一発殴ってやりたいところであるが、一目があるため一旦冷静になる。ただそれでも、まーやをそばに置いていることに対する怒りは、一向に収まらなかった。

「質問に答えなさい! アンタがなんで、まーやを……⁉」

「答える? 見ればわかるだろ……これから摩耶と、イイことをするんだよ」

「――っ⁉」

 答えを聞くまでもなかった。その言葉は、私の中に眠る爆弾の導火線に火をつけただけだった。その答え以外が返ってくると期待した自分がバカだった。このクソ野郎はそういうヤツ、それは前々からわかっていたことだ。

 私はまーやを狙う全ての男のことが嫌いだ。しかしその中でも一人だけ、まだギリ許せると思える人物がいる……それが夢宮だ。アイツも積極的にまーやのことを狙うが、ヤツは全ての選択や行動に対し、まーやのことを第一に考えるいいヤツだ。アイツだけなら、まーやに近づく許可を与えてもいいくらいだ。

 しかしこのクソ野郎は違う。仮に本当にヤツの言う「イイこと」をするとしても……まーやを昏睡させて無理やり連れて行く野郎が、まーやを大切に想っているとは思えない。まーやのことを第一に考えないのはもちろん、まーやを無碍に扱う……それだけで万死に値する。

「このクズがっ‼」

 気づいていた時には既にキレていた。全身の力をバネに変え、クソ野郎の元へと突っ込む。狙いはヤツの顔面、一発かましてぐちゃぐちゃにしないと、私の気が収まりそうになかった。仮にこれによって何かしらの罪に課せられたとしても、私は一切の後悔はない。

「ふっ……無駄なことを」

 しかし攻撃体勢に入った私を目の前にしても、あのクソ野郎の反応は変わらない。ぶん殴られるとは微塵も思っていないのか、不遜な笑みを浮かべるほどだ。

 だがヤツのデカい態度も、すぐに納得することになる。私があのクソ野郎の顔面をぶん殴ろうとしたその瞬間、クソ野郎の背後がらスッと人の姿が露わとなる。正体ヤツの子分らしき人たちで、その身体は度肝を抜かされるほどに巨大なものだ。一般的にも身長が高い部類である関山のクソ野郎すら小さく見えるくらい、まさに屈強な男たちであった。

 さすがの私も彼らを前にして、ヤツの顔面を殴ろうとする拳が止まる。まーやのためならこの身体が傷つこうがどうでもいいが、死ぬとわかっていて飛びこむほど愚かではない。それでまーやが喜んでくれるとも思えない。

「……さすがのアンタも、そこは躊躇するんだな」

 理性を踏み留めた私を見て、嘲笑気味のクソ野郎が憎たらしい瞳で私を見下す。どうにもクソ野郎は、私の地雷を踏みにじる才能があるらしい。抑えこもうとした怒りが即座に再燃した。

「黙りなさい……! 他人の力で優位を得ようとするアンタに、偉そうな態度を取る権利なんて……」

「そっちこそ黙れよ……やれ」

 私を指差しながら、クソ野郎は命令する。それだけで私の近くにいた手下の一人が私を睨む。全く光の灯らないその瞳に、少しばかり恐怖を覚える。しかしそう思った次の瞬間……一切の迷いなく私のお腹目掛けて拳を振るった。

「がはっ……!」

 それだけで私の身体は激しい痛みに襲われる。思い切りお腹を殴られたことにより上手く呼吸が出来ず、その場に倒れ込む。まさかここまで躊躇なく殴ってくるとは思いもしなかったから、私も準備を怠ってしまう。その結果がこの様だ。

 しかし1秒でもヤツから視線を逸らすわけにはいかない。そうすればまーやがどこに連れてかれるか、目で追うことも出来ないからだ。だから私はわずかに残った力を振り絞り、顔を上げる……関山のクソが私の顔を思いっきり足で振り抜いたのは、まさにその瞬間だった。

「――っ⁉」

 もはや声すら出ない。未だかつて味わったこともない衝撃に、私は何も考えられなくなる。直接脳が揺らされたのだから正常な判断が出来ないのも当然のことだ……無論、この時の私は、そんな当たり前の考えすら出来ないほどのダメージを負ったのだが。

 反撃すら出来ない状態で倒れ込む私だが、休ませるほどの余裕など私にはなかった。ゆらりと近づくクソ野郎に髪を掴まれ、そのまま雑に持ち上げられる。ナンパ野郎の風上にも置けない、クソ対応だ。

「……俺はな、ブスと絶対に俺に靡かない女が嫌いなんだよ」

 挙句この発言だ。まーやのことが絡んでいるとか関係ない。女性を軽視するかのようなそのクソ発言は、私という一人の女性の怒りを買うのには十分だ。しかし自力で起き上がることすら困難な状態で、言い返すことなど不可能であった。

「じゃあな、親友ちゃん。次目を覚ます時には……君の大事な親友は、俺という男の魅力に堕ちているだろうな」

 そんな捨て台詞を最後に、クソ野郎はまーやを抱えながら私の前から離れようとする。手下たちもそれに続く形でぞろぞろと消えていく。

「ま……て……」

 まーやを連れて行かせるわけにはいかない……そんな強い思いからか、私は精一杯まーやへと手を伸ばす。しかしながら当然彼らに届くはずもなく、その手は空を切り再び地に落ちた。そしてそのままぐったりと倒れる。

 しかしただぶっ倒れたまま眠っているほど、私も弱い女ではない。こんな状態で倒れていたら、通行人に見つかり病院に送られることだろう。それで私は助かるかもしれないが……まーやの心に深い傷を負ってしまう。それだけは死んでも御免だ。

 ならどうするか……もちろん、まーやを助けに向かう。ただ今の私ではそれは叶わない。まーやのヒーローになれるほど、私の身体は無事では済んでいない。知人に頼ろうにも女性しか伝手がなく、みすみす犠牲者を増やすだけ。警察に相談するのが一番だが、絶対的に初動は遅い上に信じてもらえる保証がどこにもなかった。

 故に私が欲している人材は……まず男が最低条件。加えて私の話をすぐ信じてくれて、あのクソ野郎に一杯食わすことのできるほどの力を持つ、そんな存在だ。しかしそのような都合のいい人材なんてどこにも……

(……いや、いる)

 一人だけいる、その条件に合致するかもしれない存在を。その存在も漏れなく私の嫌いな人物ではある……だが背に腹は代えられない。取返しのつかないところにまで落ちるくらいなら彼に――夢宮に託すしかない。

 そう決めた私は、ほんの少し回復した身体に鞭を打ちながら立ち上がる。まだ顔は痛いが、歩けないほどではない。フラフラな足取りで歩きだす私を、通りかかる人たちは物珍しそうに見つめる。しかしその全てを無視してでも、私はこの事実をアイツに伝えなくてはならない。

 もう体力も気力も底を尽きている。しかしその最後の最後の力を振り絞り、私は目的地である彼の家まで歩いていくのだった。

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