第20話

アイネの想定外の提案に、思わず反応してしまった。否、反応せざるを得なかった。ここで反応しない男は、おそらく男ではない。それはインキュバスとて、同じことだ。

 抱いてあげる、それが何を意味しているのか分からないほどバカじゃない。落ちこぼれではあるが腐ってもインキュバスだ。そして彼女がそんな言葉を吐かないことを、俺は知っている。他のヤツならあり得るかもしれないが、俺相手には絶対あり得ない。

「……何の冗談だ?」

「冗談? バカ言わないで。このアタシが冗談なんて口にすると思う?」

「思わない……けど、あり得ないんだよ」

 布団を被った状態のまま、俺はアイネに抗議する。布団から出ることはおろか、顔を見せることすらしない。顔を合わせたら一瞬にして、彼女にペースを握られるからだ。

「アイネは俺のこと、性的に見てないって言ってたよな?」

「えぇ、そうよ。ユーマみたいなヘタレは、アタシの好みじゃない。手を出そうともしないヘタレに、興味なんて示すはずがない」

「なら……」

「でもね……物事には何事も、例外があるの」

 俺の言葉を遮るように、アイネは語りかける。俺の耳の位置を正確に把握し、囁くように告げるその言葉は、吐息のようなくすぐったさを感じる。ただそれだけのことなのに、不思議と胸の動悸が収まらない。

「知ってる、ユーマ? 失恋直後の男ほど、魅力的な存在はいないのよ」

「……なに?」

「そういう男ってね、もう何もかもがどうだっていいのよ。でも優しくされるとコロッと落とされて、股を開けばもう抗うことは出来ない。その瞬間だけはいい男として昇華するのよ……まさに今のユーマみたいにね」

 そう言いながら布団に手をかけるアイネ。マズい、本能的にそう察した時はもう遅い。アイネの手によって布団をはぎ取られると、強引に頭を掴まれる。そしてそのまま顔を動かされ、無理やりアイネと視線がかち合う。

 それだけ、それだけだというのに……今この瞬間だけは、アイネがどの女性よりも素晴らしく見える。真剣に問いかけるその表情も、誘惑する気満々の暴力的な双丘も、かぶりついてしまいそうになる唇も、全部愛おしく見えてしまう。本当に、不思議でしょうがなかった。

「……ね? 今、アタシのことがいい女だって見えてるでしょ?」

 そしてその全てを、アイネは見透かしている。真っすぐと捉えた曇りなき瞳が、そう問いかけているようだった。

「もちろん、催眠魔法は使ってない。むしろ使えない……催眠魔法は、上位の夢魔族には通じないことは、ユーマもわかっているはず。インキュバスとしてははぐれを押し付けられた最底辺の存在でも、夢魔族の素質だけならユーマの方が上。アタシの催眠なんて、絶対効かないわ」

「……なに、がいいたい……?」

「簡単な話よ……今のユーマに催眠魔法なんて使う必要がない。それほどまでに、いとも簡単に堕ちてしまう。そういう身体になってるの」

 表情は変わらないが、間違いがないと言わんばかりにアイネは断言する。そしてその言葉は、俺の反論の言葉を完全に封殺する。

今は意識的にアイネのことを考えないようにしているが、少しでも気を抜けば、彼女という沼にハマってしまいそうだ。それくらいの誘惑に、俺は駆られている……なんて意志のないインキュバスだと、自己嫌悪に陥ってしまう。

 だが、まだ慌てるような状況ではない。男と女の違いはあれど、俺とアイネは同じ夢魔族……その間には絶対に超えることの出来ない壁がある。

「やめろ、アイネ……そんなことしたら、お前まではぐれになるぞ……!」

 強固な理性でアイネからの誘惑を振り切り、彼女に語り掛ける。一見逃げているようにも見えるが、これに関しては無視できない問題なのだ。

「夢魔族同士の子どもは作ってはならない……守らなければならない、夢魔族の禁忌だ。俺なんかよりも優秀なアイネが、知らないはずないだろ?」

「えぇ、もちろんわかってるわよ」

 当然でしょ、と言わんばかりに無表情を貫くアイネ。本当にわかっているのかどうか、結構怪しい。

 今の俺の言葉の通り、夢魔族には破ってはならない禁忌というものがある。それを破ってしまうと俺と同じようにはぐれの夢魔族になる。そしてその禁忌の中には、夢魔族同士が結婚してはいけないこと、子どもを作ってはいけないことなど、とにかく関係を築くことに関してはだいたい禁忌にあたるのだ。

 禁忌を破ってはいけない、そんな簡単なことをアイネが忘れているわけがない。しかし今のアイネには、それを指摘されて機嫌を悪くすることはなかった。むしろ何故か、不敵な笑みを浮かべている。そこはかとなく恐怖を感じるのは、生物としての本能であった。

「でもねユーマ……アンタも二つほど、わかってないことがあるわよ?」

「……え?」

 意味深なセリフを吐くアイネに、俺は戸惑いを隠せない。しかしそんなのお構いなしと言わんばかりに、アイネは俺の知らない事実を並べる。

「ユーマは今も昔も変わらぬ童貞かもしれないけど、大抵の夢魔族は子どもの時には童貞処女なんて卒業してるの。もちろんアタシもよ。でも幼い夢魔族は基本的に集落から出られず、人間と接する機会がまずない……なら、誰が相手だったかわかるよね?」

「……夢魔族、同士」

「そ。同族しか相手がいなかった。だからアンタが知らないだけで、みんな同族同士でヤりまくってるわよ」

 知らなかった、マジのガチで知らなかった。俺は昔から変なところで真面目だった。一人前の夢魔族になろうと、常日頃から魔法向上の訓練をする毎日を送っていたほどだ。そもそもアイネ以外と親しく接した夢魔族がいないほどに。

「そしてもう一つ、アンタの見落としよ……夢魔族同士の性交に限って言えば、禁忌にはあたらない」

「なっ……⁉」

「もちろん推奨されていた行為ではないけども……それを律儀に守る夢魔族はいない。セックスの欲求には抗えないのよ、そのくらいわかるでしょ?」

 共感は出来ないが、理解は出来る。アイネの言葉に耳を貸してしまった俺は、瞬時にそう思った。だって夢魔族とはそういう種族なのだ、子どもの頃から嫌というほど見てきた光景を忘れていたようだ。

「だからアンタと身体を重ねるだけなら、悪いことでも何でもないの……アタシたちの行為を阻むものなんて、存在しないの」

 淡々と事実のみを伝えるアイネ。しかし言葉の意味を理解した瞬間、より一層アイネを意識することになった。そもそもからして俺がアイネの誘惑を拒む理由なんて、一つもないからだ。

 確かに俺は、摩耶さんに対し一途な愛を抱いている。しかしそれは過去の話、俺の初恋は儚く散っていった。そんな俺に、アイネは慰めの意を込めた性行為を仕掛けてきた。別に不純なことなど何もしていない、むしろアイネの優しさというものを、今一番肌で実感しているほどだ。

 それに失意のどん底に落ちている今の俺に、あらゆるものから抵抗する力はない。得意の魔法すら使いたくないほどだ。だから本気でアイネに迫られたら拒めるかどうか……俺にはわからなかった。

 しかしそれすら把握しきっているであろうアイネは、己の欲求を抑えようとはしない。徐々に、少しずつ、俺との距離を縮めていく。それと同時に自分の服をわざとはだけさせ、より自身を妖艶なものへと昇華させていく。まさに俺に襲わせるためにやっていると断言できるほどに。

「何も迷うことはない、考える必要もない……全てアタシに委ねてくれれば、それでいい。それだけでユーマの中から、全て忘れさせてあげるわ」

 妖艶にして魅惑的なアイネの言葉は、俺の思考能力を無に帰す。そんなアイネの、ベッド上の攻防は囁きだけでは終わらない。アイネはどこかひんやりとした手のひらを、俺の頬に重ねる。まともに力を込めていないはずなのに、その手のひらの魔力に抗うことは出来なかった。

「……悪い夢を見ていた。そう思いながら、天井の染みでも数えてなさい」

 そしてアイネは、一切の躊躇なく俺へ顔を近づけてくる。一般的なムードも、典型的なムードも、アイネには一切関係ない。ムードも場の雰囲気も、全て自分で作り上げる。それこそが性に奔放するアイネの本性なのだから。

 どちらにせよ、先に見える未来は容易に想像できる。俺はアイネにキスをされる。それも俺が想像するような生温いものではない、ガチで記憶を吹っ飛ばすほどの激しいキスだ。アイネの性格から考えても、それ以外考えられない。そしてそれを受けてしまえば、いくら俺とて心変わりは避けられない。

 だがそれでいいのかもしれない。本当に現実逃避をしたいのであれば、このくらいはしないといけない。そうわかっている、頭では言い聞かせている。

どちらにせよ俺はもう、能動的に動こうとはしない。全てアイネに身を任せる。そう決めて俺は視界をシャットアウトした。天井の染みを数えるまでもない、俺はそう確信していたからだ。

そしてアイネの妖艶でそれだけでかどわかされそうな唇が、俺のものに触れる。ねっとりとした唇の感触は、内に眠るあらゆる感情を吹き飛ばすのには十分すぎる。彼女の唇に触れだけで、俺はそう感じ取った。そしてここから、アイネによるベッドの上での独壇場が始まる……そう、俺は予想していた。

 しかし、その後の展開は続かない。それどころか、アイネは唇を離し、俺の顔を改めて凝視する。その表情は面倒なものを見ているかのように、うんざりとしたものだった。

「ねぇ……なんで、避けるのよ?」

「ほぇ……?」

 そして口にする、アイネの低い声から放たれたその言葉。俺自身、一瞬何を言っているのか、理解できなかった。

「だから……なんで唇を避けたのか、聞いてるの」

「い、いや……だから何を言って……」

「まさか……気づいてないの? ユーマ、反射的に避けたのよ、アタシのキスを」

「え……」

 改めてそう言われても、俺はすぐに理解が追いつかなかった。でも顔をペタペタと触っている内に、やっとのことで現状を理解出来た……どうやら俺はアイネがキスで迫ってくる寸前、顔を横にして唇への直撃を避けたようだ。結果、アイネのキスは俺の頬に当たるという、なんともしょっぱい結果に終わった。

 ただ俺自身も、何故そのような行動を取ったのかわからなかった。少なくとも数秒前の俺は、アイネのキスを拒もうとはしなかった。頭では彼女を受け入れる、されるがままにされる準備は整っていた……でも結果は違った。本能的に、思考を介すことなく、俺がアイネのキスを避けたのだ。

 何故そんなことをしたのか、理由はなかったはずだ。しかし心当たりはある。理由としてはこれ以上にないほど納得できる、胸を張れる答えだ。

「ユーマ……アンタ、もしかして……」

「あぁ……俺もつくづく、面倒な性格をしているみたいだな」

 アイネも状況から察したようで、驚きと呆れを含んだ表情をしていた。でも俺はそんなアイネの視線に動じることなく、自身の中に眠る気持ちを告白する。

「俺はまだ、摩耶さんを諦めきれていないんだ」

 自分でも驚くほどしっかりとした声、失意のどん底に落ちたばかりだとは到底思えないだろう。しかしそうとしか思えないのだ。

 何もかもが嫌になった現実、それに加え魅惑的な美女であるアイネからの誘惑。この二つが合わさったというのに振り切れる男は、ほとんどいないだろう。俺自身アイネに鞍替えしそうになったほどだ。だが俺は振り切れた、何故か……心の奥底では、まだ摩耶さんへの想いが完全に消えていないからだ。例え頭や感情の中では否定したとしても、身体は正直だったのだ。

「……嘘でしょ? あんなに絶望の淵に立ったかのような顔してたのに……」

「俺もよくわかんねぇよ……でもそうとしか考えられないんだ」

 アイネも俺の導き出した答えに、まだ疑念を抱いている。かくいう俺もまだ少しばかり抱いているとしか思えない。ただその疑惑は、徐々に俺の中から消え去っていく。内に眠る摩耶さんへの想いを、思い出したのだ。

 たかだか別の男に取られたからと言って、それが何になる? 仮にその男が認めざるを得ないくらいのいい男なら、引くべきなのかもしれない。しかし相手は性根の腐ったクズ野郎だ……例えどんな事情があろうと、ヤツと関わりを持って摩耶さんが本当の幸せを手に入れられるとは思えない。表面上の幸せだけで満足する摩耶さんに、俺が満足できない。

 ならどうするか……簡単な話だ、奪えばいい。俺が男として、一人の人間として、アイツのどんなアドバンテージも上回ればいい。ただそれだけの話だ。そしてそれが出来ると、俺は確固たる自信があった……一度死を覚悟し、二度目も味わいそうになった。そしてその二度目はない、もう怖いものなど何もなかった。

「はぁぁぁ……つまんな」

 そんな俺を見て、アイネは心底つまらなそうな声を出す。その声を聞けば、どれだけうんざりしているかはわかる。でも俺はアイネの機嫌を損ねたとは思わなかった。アイネの緩んだ口角を見るのは、俺も久しぶりのことだった。

「せっかく喰えるレベルまで堕ちたと思ったのに、しれっと回復して……完全に性欲失せたわ。このアタシをこんな風にさせるの、この広い世界でユーマだけよ」

「それは……褒めてるのか?」

「けなしてるのよ、察しなさい」

 冗談交じりの返事をすると、アイネも鼻で笑った。ただそのやり取りが、妙に懐かしいものに感じて仕方ない。きっとアイネもそう感じていることだろう。

「でもまあ……ユーマはそういう顔をしている方が、とても生き生きしてるわ。ムカつくくらいの好青年、って感じの顔、結構久しぶりに見たわ」

「アイネ……」

「アタシはユーマに、男としての魅力は感じない。ただそれでも、あの子がアンタの魅力に気づいているのは確かなことよ。少なくとも、あの男なんかよりも、ユーマの方が何十倍もいい男だし、似合ってると思うわ。だから……」

 そう溜めを作るアイネ。するといきなり両手を俺の頬に打ちつける。パチンとした音が部屋に響き、程よい痛みが顔中に広がる。力の加減など一切していないだろうが、逆に最後の覚悟を締めるいい機会となった。

「もうアタシにこんなことをさせないで。さっさとあのクズから愛しの姫をかっさらって、我が物にしなさい。それこそが、アンタがインキュバスとして成長する第一歩よ」

「あぁ、そうだな」

 呆れ気味にそう言うアイネに、俺は感謝の意を込めて返事する。アイネがいなければ、俺はこのままベッドの中で無為な時間を過ごしていただけだろう。そういった意味では、アイネには頭が上がらないだろう。

(……もしかして、このために敢えてアイネは俺に迫って……)

 ふとそんな予感もしたが、すぐに打ち切った。アイネがどのような思考に至って行動したかは気になるところだ。だが今はアイネのことを気にしている場合ではない。

「何はともあれ、とりあえず摩耶さんの様子を見に行かないと……あの野郎と一緒ってだけで、不安でしょうがないし」

「そうね。もうあそこにはいないだろうけど、催眠魔法で聞き込みしまくれば、場所くらいは割れそうね」

 すぐにこの悪い状況を立て直すため、俺たちは作戦を練る。これが普通の人間なら、原因追求から問題解決までかなりの時間を要することだろう。しかし俺たちは夢魔族だ、情報を探し当てることなど容易なことだ。もう摩耶さんから逃げはしない、ときつく覚悟を締めようとした……そんな時だった。

 ピンポン、と二人しかいない自宅に滑稽な音が響く。もちろんこの音は我が家のチャイムの音だ。しかし俺の家を知っている知人など、摩耶さんを除けば誰もいないはずだ。妙な期待が胸をいっぱいにし、ついアイネと目を合わせてしまう。

 俺たちは自宅に備え付けてある、玄関前を覗けるモニターを確認する。やや粗い画面には、女性の姿があった。ただそこに立っていたのは期待していた人ではない、だが全く見知らぬ人間でもなかった。

「ユーマ、この女……」

「黒羽が、なんでここに……?」

 そう、我が家の前に立っていたのは、数時間前まで摩耶さんと一緒にいた親友の黒羽だ。何故黒羽が我が家の場所を知っていて、今ここにいるのかは全くわからない。しかしそれは今のところは後回しにしよう。

 というのも、どうにも黒羽の様子がおかしいのだ。ただ玄関の前で待っているはずなのに、真っすぐ立っていることも出来ずどこかフラフラしている。まるで疲労困憊状態かのような雰囲気すら感じるほどだった。それに顔面に打撲の跡がある、普通の状態だとは考えにくい。

 さすがにこんな状態の黒羽のことも無視できない。チャイムを押したということは、何か俺に用事でもあるのだろう。その用事を済ませた次いでに摩耶さんの居場所を聞き出せれば、俺たちの予定としてもスムーズになる。どちらにせよ、迎え入れないという選択肢はなかった。

 俺の意図を察したアイネもコクンと頷き、俺たちは玄関に向かい扉を開けた。その瞬間、飛んでくるかのように黒羽が我が家に入ってくる。

「――夢宮っ!」

 彼女の第一声は、悲痛にも聞こえる必死な声だった。俺の姿を視認するや否や、がしっと俺の肩を掴み寄り添った。急に至近距離に来られ一瞬びっくりするが、彼女の肩が震えているのを見てヘタレが発動することはなかった。

「夢宮! 助けてっ、お願い……!」

「ま、待て! ちょっと待て! 一体何の話だ……⁉」

「お願いよ! もう頼れるのが、貴方しかいないの……!」

 どうにも落ち着きのない黒羽をなだめようとするが、もはや俺の声すら聞こえているか怪しいレベルだ。錯乱状態、という言葉がこれほど似合う状況も他にないだろう。

 一体どうしたというのか、黒羽が嫌っているはずの俺に頼る状況などおかしいにも程がある……そう思ったのだが、考えるだけ無駄だった。黒羽が誰かに助けを求めるほどの問題。その渦中にいるのは誰なのか、もはや言うまでもない。だからこそ、俺の緊張感と焦りは一気に高まった。

「このままじゃ……まーやが危ないっ‼」

 そして金切り声のような黒羽のその叫びは、確定的なものへとなっていった。

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