第19話

 どれだけ走ったのか、どんな道で帰ったのか、周りからどんな反応をされたのか……その一切を知らぬまま、気が付けば自宅のベッドに身体を預けていた。着替える気力すらなくただ倒れる。立ち上がる力すら残っていなかった。

しかもベッドに飛び込んだ時点で、俺は思考そのものを放棄してしまう。いつもならどんな状況でも想像することが出来る摩耶さんの顔……それすらも思い出せない。それどころか彼女と辿ってきた今までの記憶すら、呼び起せない。夢魔族だというのに自分の記憶すら制御できないとは、情けない限りだ。

「……ユーマ、生きてる?」

 静かな我が家に無機質な声が響く。その声の持ち主はアイネだ。チラッとそちらを見ると、リビングの方でのんきに茶菓子を食べていた。

 さすがのアイネも、性以外のことにまるで関心のないアイネも、今の俺は心配する対象に含まれているようだ。そうでなければ知らないはずの我が家に押しかけることも、心配する声もかけてこない。逆にそこまでさせてしまうほど追い込まれた状況であることに、俺は少しだけ嫌気が差した。

 無論、返事はしない。否、できなかった。せっかく今日一日付き合ってもらったというのに、彼女の制止を振り切って逃げたのだ。一体どの面下げてアイネの顔を見ればいいのか、俺にはわからなかった。

 そんな死人同然の俺を見て、ため息をつくアイネ。完全に面倒なものを相手にしうんざりとしているようだが、それでも言葉を投げるのは辞めなかった。

「ま、元気なくすのも無理ないわ。大事な大事なお姫様が、あんな意地汚い野獣に食われるのだから。自害してないだけ、まだマシか」

「……アイネは見たのか、二人のその先の顛末を……?」

「見てないわ。さすがにあの状態のユーマを放っておけない。すぐに追いかけたんだけど……もしかして、それにも気づいていなかったの?」

「はは……手厳しいことに、な……」

 カラカラとした笑いを浮かべる俺。客観的に見て痛々しい光景、この上ない。何せ頭の中が真っ白になったのだ。アイネが追いかけてくれるとは、微塵も思わなかった。

「……俺のことなんか放っておいて、真実を見てきて欲しかったな。今でもそうだけど、俺冷静な状態じゃないし」

「知らないわよ、そんなの」

 相変わらず感情が読み取りにくいアイネの声。しかしながらどこか怒気が含まれているようにも聞こえた。

「アタシにとって、あの子のことなんてどうでもいいわ。それよりもユーマのことが心配よ……あの時のアンタ、マジで死にそうな顔してたから」

「そうだったろうな……」

 他人に興味のないアイネが、珍しく叱る。そう聞き取れたのだが、俺の耳にはあまりよく入ってこなかった。殴られでもしない限り、俺の調子は戻らないだろう。そしてアイネがそのような真似はしないことを、俺は知っている。自分の手を汚したくないからな。

 つまらない反応を見せる俺に対し、アイネはうんともすんともしない無反応。しかし言葉の嵐はまだ収まらない。

「……で、どうするの?」

「どうする、とは……」

「決まってるでしょ? あの子のことよ」

 あの子、それが誰を示しているのか、言うまでもない。しかし俺はそれが誰なのか、一瞬頭に浮かばなかった。そのくらい俺のメンタルは疲弊し、木っ端微塵に崩壊していた。

「アタシたちの手に掛かれば、あの後何があったのかくらいはわかるわ……真実を暴きたくないの?」

「さぁ……どうだろうな」

「ユーマっ!」

 アイネの言葉に棘が宿る。しかし俺は全く動じない。

「今は……今だけは放っておいてくれ。俺には現実をそむくための時間が、必要なんだ……」

 アイネとの会話も辛くなり、頭から布団を被る。もう何もしたくない、誰とも話したくない。その強い思いが俺の頭の中を埋め尽くし、外界から遮断するという結論に至った。後でアイネに酷い目に遭わされようが、どうでもいい。今だけは一人になりたい、そんな気分なのだ。

 俺の不遜な態度に、アイネは何も言わない。さすがに怒ったのだろうか、ならそれでいい。後で死ぬほど謝れば、身を削って彼女の奴隷にでもなれば、ガチで見捨てられることはないだろう。仮に見捨てられたとするならば……それも天命だ、仕方なく受け入れるとしよう。

 しかし一向に、アイネがいなくなる気配はしない。それでも時期に帰るだろうと、不貞寝を決め込む俺。だが今日という一日は、どうにも俺の思うようにはいかない。

「ユーマ……」

「……」

 彼女が俺の名を呼ぶ。本当に用事があるのか、その声色には感情が宿っていた。しかし一秒でも早く帰って欲しいと願う俺は、無視を続ける。

 ただ向こうも俺からの返事を期待していない。迷いのない足音が、着実と俺の元へと近づいてくる。そしてその足音が俺のベッドの付近で止むと、今度はベッドが軋む音がした。アイネが乗ってきたのだろう、無自覚に溢れる彼女のフェロモンが俺の鼻腔をくすぐった。

「ねぇ……ユーマ」

「……」

 再びアイネの、俺を呼ぶ声が聞こえる。その声は先ほどよりも鮮明に、はっきりと聞こえる。肌でも感じる温もりからも、彼女が俺の真後ろまで接近してくるのが容易に想像できる。一体何をしようとしているのか、俺には全く判別がつかなかった。

 しかしその意味はすぐにわかることになる。理解するまでに要した時間は、刹那的なものだった。

「――抱いてあげよっか?」

「……は?」

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