第15話

 摩耶さんを自宅に招いてから、一週間近くが経とうとしていた。しかし俺と摩耶さんが以前の関係にまで戻ることはなかった。

 まともな会話はゼロ、数えるくらいにしゃべったこともただの挨拶だけ。そもそも俺を見るなり気まずいのか、密かに俺の前からいなくなるほどだ。絶対的に俺たちの関係性が変わってしまったのは確かだ、もちろん悪い方向にだ。

 これには俺たちのことを知る人たちも、疑問を浮かべるほどだ。アイネはそもそもそこまでの興味がないのか、変な目で見てくる程度だ。普通の女子ならそういった恋バナとかは好きそうだが、アイネはサキュバス。実践以外はマジで興味がない。

 ただそれ以上に反応を示さなかったのは、摩耶さんの親友の黒羽だ。彼女は摩耶さんガチ勢なところがあるから、嫌味の一言でも飛んできそうな気もするが、なんと一度もコンタクトを取ってこなかった。俺のことに構う以上に、摩耶さんのことが気がかりなのだろう。

 ともあれ、何はともあれだ。このままではマズい。摩耶さんに避けられ続けるのは、マジでマズい。このまま関係がなあなあになり、自然消滅とかになれば今までの努力が水の泡だ。加えて万が一にも摩耶さんに別の男がくっついたとなれば……俺は今度こそ、この命を捨てる自信がある。今度は躊躇いなく、確実に。

 原因は言うまでもなく、摩耶さんを自宅に招いたあの日だ。より正確にいえば、事故とはいえ摩耶さんを押し倒したこと、摩耶さんの様子がおかしくなったこと、それにより気まずくなったこと、以上が挙げられる。事情を知っていれば誰でもわかる、簡単な原因分析だ。

 しかしあくまでもこれらの原因は、俺や一般人としてのごく普通の考えに過ぎない。実際摩耶さんがどう感じているのか、何故俺を避けるようになったのか、そこまでわかったわけではない。それを理解するためにも、摩耶さんとの早急な対話が必要になってくる。

 ただそのためには、摩耶さんを捕まえなければならない。現状、摩耶さんは俺の顔を見るなり避けてしまう始末だ。夢魔族の俺なら人間を捕まえておくなど造作でもないが、摩耶さん相手にそれは使いたくはない。俺の数少ないポリシーみたいなものだ。

 そうなれば俺が取るべき手段は一つだけだった。


「あ、まーや! こっちこっち!」

 更に時が過ぎ週末。出かけるのには絶好とも呼べるくらいの快晴に恵まれた休日。駅前近くにある、待ち合わせ等に使われる噴水の近くで、私服姿の黒羽が手を大きく振っていた。太ももが見える短いボトムにTシャツ、上に羽織る赤色のジャケットといった恰好をしている。ボトムから伸びる健康的な脚は中々のものであった。

 勘違いしてはいけないが、黒羽も女子としてはそれなりにレベルが高い。男性嫌い、もとい摩耶さんを狙う輩を嫌うところはあるが、基本的には人当たりのいい明るい子だ。顔立ちも十分映えるものがあり、一般的には美少女に分類されてもおかしくはない。

 だがしかし、多くの人間は黒羽がレベルの高い美少女だと認識できない。何故か――彼女の隣にいる子が、彼女の何十倍も上回る美少女だからだ。

「ごめん、いっちゃん! 待った?」

 その美少女というのは、他でもない摩耶さんだ。やや集合時間に遅れ気味なのか、小走り気味に黒羽の方へと向かって行く。だが申し訳なさそうながらも浮かべる彼女の笑顔は、その程度のことくらい容易に許してしまうくらいの魔力を秘めていた。

 さすがに学校とは関係ないところにいるため、摩耶さんも私服姿だ。ガッツリ脚を出すなど露出が多めの黒羽とは違い、摩耶さんは非常に落ち着きのあるファッションだ。

薄い青色のロングスカートにベージュのセーターと、派手か地味かで言ったら間違いなく地味だ。しかし黒羽と摩耶さん、どちらに声をかけるとなったら選択の余地もなく摩耶さんだ。これは俺の主観に基づく偏見ではない、客観的な感性だ。

「ううん全然! ちょうどいいくらいだよ!」

 摩耶さんの問いに、笑顔でそう答える黒羽。だがその言葉が嘘であることを、本当は2時間以上も前から摩耶さんを待っていることを……二人から離れたところで観察している俺は知っていた。

 と、今の言葉でもわかるように……俺は今、摩耶さんたちを尾行していた。俺に対する摩耶さんの真意を、こそっと聞き出すためにも。

摩耶さんが珍しくどこかに遊びに行くというのは、この前我が家に来た時にチラッと聞いた。最初はさほど重要とは思わずサラッと聞き流していたが、現状の悪さを鑑みて記憶の奥底から引っ張り上げてきた。

 本当なら俺も、摩耶さんを尾行するような真似はしたくなかった。いくら摩耶さんのことが好きとはいえ、プライベートのことをもっと知りたいとはいえ、尾行までして知りたいとまでは思わない。絶対にバレない自信はあるが、気持ち的にその手段は取りたくなかったのだ。

 摩耶さんがやってきたことで、黒羽は嬉しそうになりしばし談笑を楽しんでいる。ただ摩耶さんが駅前に現れた辺りから、二人の声が聞き取りづらくなった。というのも道行く人たちのほとんどが、摩耶さんに視線を吸い寄せられていたからだ。それほどまでに摩耶さんの美貌が群を抜いていることは、十二分に説明できるだろう。

 何はともあれ、この状況下では二人も込み入った話などはしないだろう。となると俺も二人が動くまではやることがないので、しばし観察に労力を割く。摩耶さんの笑顔を眺められるのなら、無限に時間は潰せる。

「ねぇ……もうアタシ帰っていいかな?」

 と、そんな時、俺の背後から気だるそうな女性の声が聞こえた。それに対し俺は驚くようなことはしない。そもそも知らない人間の声じゃないし、そこに引き留めていたのは俺自身だからだ。

「いいじゃないか、アイネ。どうせ暇なんだろ?」

「暇じゃないし、今すっごい眠いの」

 心の底からの恨み言が止まる様子はなく、俺の近くで腰を下ろしているアイネは眠気覚ましのドリンクを飲んでいた。アイネも私服だが、もはや私服と呼ぶには怪しいくらいに露出が多いものであった。黒羽の露出など、幼稚に思えるレベルだ。

胸や脚がガッツリ見えているのは当然のこと、黒のレースの下着すらも見えてしまっている。完全に誘っていると言われても差し支えない……まあ彼女の場合、その通りなんだろうけど。

 アイネと鉢合わせたのは、本当に偶然だった。朝帰りであろう彼女をたまたま見かけたので、どうせならと思い強引に引き連れたのだ。アイネはこういったことに微塵も興味ないだろうから最初は尾行に誘わなかったが、なんという幸運だ。まさに棚から牡丹餅ってヤツだ。

「尾行なら一人でやりなさいよ。アタシを巻き込まないで」

「そんなこと言うなよ……いくら俺でも、尾行なんてしたら怪しまれるって」

「なんでよ? 夢魔族にとって尾行は専売特許みたいなものでしょ。それに魔法だけはずば抜けているユーマなら、あの女にバレるなんてヘマこかないわよ」

「まあ……そうなんだけどさ」

 否定する理由もないので、俺は素直に認める。

 アイネの言葉通り、尾行において夢魔族以上に優れた存在はいない。例え長年修羅をくぐり抜けた刑事や探偵とて、俺たちの尾行には気づけない。そもそも姿そのものを変えられる変身魔法、記憶を都合のいいように書き換える干渉魔法、いざという時に相手の意識を支配下に置く催眠魔法……夢魔族が会得する魔法は、もはや尾行のためにあるものと言ってもいい。

 だから俺が尾行しても、摩耶さんにバレることは絶対にない。アイネはそう言いたいのだ。もちろんそんなことは重々承知している。ただ俺が危惧しているのは、そこではない。

「俺も細心の注意は払うつもりだけど、尾行というかストーキングというか……とにかくつけ回すわけだから、警察に見つかったら面倒なことになるだろう?」

「お巡りさん相手だろうと関係ないじゃない。催眠魔法でコントロールを奪えばそれで済む話だし。何ならアタシならそのままベッドに連れ込む」

「やめんかい」

 もはやさすがの一言である。脊髄反射で行うアイネの卑猥な手の動きに、俺は顔を覆った。一瞬でその思考に至れない俺は、やはりインキュバスとして半人前と言わざるを得ない。まあそれはそれとして……

「確かに警察は誤魔化せるかもしれないけど、その間に摩耶さんを見失ったら意味ないだろ?」

「あぁ、そっちの心配をしているのね。確かに場合によっては見逃すかもしれないわ……それでもアタシが付き合う意味ってある?」

 不機嫌気味にそう返すアイネ。碌な理由でなければ許さないといった怒気すら感じる。

「もちろんあるぞ。アイネは美人だし、俺も見た目だけはそれなりにいい男だ」

「そうね、見た目だけはね」

 そんなにはっきり言うか……まあいいけど、話を聞いてくれるなら。

「そんな俺たちが一緒にいれば、怪しまれることはないだろ? 周りから見れば、デートしているようにしか見えないだろうし」

「……そうね。悔しいけど、そう見えるのが現実よね。仮に路地裏でこそこそしていたとしても、物陰でヤってる振りすれば誤魔化せるもんね」

「それ絶対誤魔化せてないから⁉ 尾行とは違う意味で怪しまれるからね⁉」

「冗談よ、何マジになってるの……ユーマは便利なヤツだし隣に置いておきたいけど、ベッドの中まではマジで御免だから」

「言いすぎじゃないかな?」

 いくら俺でも心はあるんだぞ? そんな切れ味抜群のナイフのような言葉は、俺のメンタルをズタズタに切り裂く。慣れたと思っていたが、不意に飛んでくるとさすがにキツイ。人間界で暮らすのなら、アイネにはもう少し人間らしい心を持って欲しいものだ……まあ、叶わぬ願いだが。

 ただ当の本人はある程度俺を弄ったことで満足したようで、それ以上毒を吐くことはない。面倒臭さがこれでもかと伝わってくる深いため息と共に、ジト目のアイネが俺の方を向いた。

「……まあいいわ。どうせ帰っても寝るだけで実質暇だし。ユーマの動揺する顔が見れるなら面白いし、着いて行ってあげるわ」

「いろいろ言いたいことはあるけど……まあ、ありがとう」

「勘違いしないで。ユーマのためなんかじゃないから、アタシのためについていくだけだから」

「わかってるって」

 よほど勘違いしてほしくないのか、念入りに釘を刺すアイネ。ただ俺は、アイネと付き合いの長い俺は、それが半分嘘だということを知っている。確かにアイネは自分の興味のありなしで動くヤツだが、本気で興味がないならシカトするようなヤツだ。付き合ってくれるというのは、それは彼女なりの優しさなのかもしれない。まあからかい半分、というのは変わらなさそうだけど。

「そんなことよりも……あれ、追いかけなくていいの?」

「え……うぉっ、どっか行こうとしてる⁉」

 アイネが指さす方を急いでみると、摩耶さんたちが駅の方に向かって行くのが見える。ヤバい、見逃したらやらかしたでは済まない。摩耶さんたちが遊びに出かけるのは知っているが、具体的にどこへ出かけるのかまでは知らない。電車を乗り間違えただけでも致命的だ。

「ほらっ、ぼさっとしてないで行くわよ」

 一瞬の動揺にも痺れを切らしたアイネは、俺の腕を強引にとって引きずるように摩耶さんの後を追いかける。もちろん路地裏から外へと出るのだから、変身魔法をかけるのは忘れない。

 アイネの強引さは今に始まったことではない、だが前もって声はかけて欲しい。アイネは身体に対する抵抗感というのが微塵もない。だから今みたいに、自身の豊かで大きく前が開いている胸の谷間に俺の腕を挟んでも、なんとも言ってこないのだ。

アイネはいいかもしれないが、俺が困る。名状しがたいアイネの胸の柔らかさは、著しく思考能力を低下させる。確かに恋人っぽい振舞いはしてほしいところだが、これは過度すぎる。これから大事な尾行だというのに……

と頭を悩ませる俺だが、俺を引っ張るアイネは非常に楽しそうだ。具体的には誘惑をして慌てふためく俺を見て、面白おかしく笑っているようだ。

「……どう? あんな女なんかよりも、絶対気持ちよく出来るわよ? だってアタシ……サキュバスだから」

 強引に連れ込みながらも、サキュバスっぽさは忘れないアイネ。蠱惑的な笑みと鼓膜すら溶けてしまいそうな甘ったるい声、俺の胸板をくりくりと弄る手つき。どれもが誘っているとしか思えない。本当に俺を男として見ていないのか、不思議に思うくらいだ。

 しかしアイネの誘惑にだけは乗るわけにはいかない。摩耶さんに真なる愛情を抱いているから、というのもあるが、それ以外にもう一つ大きな理由がある。

「……夢魔族同士が婚姻関係になることは、禁忌を犯すことと同義である」

 俺が唐突にその言葉を吐く。するとアイネの全身の動きがストップし、顔から表情が消える。この瞬間だけは性交好きのサキュバスではなく、誇り高き夢魔族としての顔になっていた。

「夢魔族にとっての常識、アイネがわからないわけがないだろ? はぐれサキュバスになりたいのか?」

「……わかってるわよ、冗談に決まってるじゃない」

 と、冷たく吐き捨てるアイネ。強引気味に引き寄せた俺の身体を離し、手だけを握る。そこに女性らしい仕草は一切ない、力任せのまた別の強引さを感じた。

「ほら、さっさと行くわよ」

 感情の宿らないアイネの一言。それはサキュバスとしての感情を一切として受け入れない、覚悟の構えとも読み取れる。ただそうしている間だけは誘惑してこない、そうわかっている俺は安心して摩耶さんの後ろ姿だけを追っていった。

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