第13話
そしてあっという間に放課後を迎えた。正直補習の内容など、何一つとして頭に入ってこなかった。補習以上に大事なイベントがこの後に控えているのだ、補習に集中できるわけがない。ただ摩耶さんに勘づかれるのは情けないから、俺もできるだけ平静を装っていたけど。
やることも済んだのでこのまま摩耶さんと一緒に俺の家に向かう、というわけでもない。摩耶さんも一度自宅に戻り、調理道具などを持ってくるようだ。俺の家にそういったものがほとんどないっていうのもあるが、使い慣れたものを使う方が摩耶さんも楽なのだろう。
だから俺もその短い時間を活用して、自宅の掃除を徹底した。もちろん前もって掃除自体は何回もしてあるが、どこまで掃除をすればいいのか、それすらわからない俺は結局気が済むまでやるしかなかった。まあ落ち着かないから他事をするって意味合いが強いけどな。
と時間を忘れるまで掃除に務めていた俺だったが、自宅に鳴り響くチャイムで現実に引き戻される。すぐに掃除道具を部屋の隅に追いやった俺は、簡単に身だしなみを整えて玄関の扉を開けた。そこには予想通り、制服姿の摩耶さんの姿があった。
「こんにちは、遊馬君。さっきぶりだね」
「そうですね。ようこそ我が家へ。さっ、どうぞ中に入ってください」
「それじゃあお言葉に甘えて、お邪魔します」
焦りと緊張が入り混じった俺とは違い、摩耶さんは自然な態度で我が家へ入っていく。その一切緊張せず肩に力が入っていない摩耶さんの様子が、今の俺にとっては羨ましい限りだった。
靴を揃える摩耶さんを確認した俺は、早速リビングへと促す。しかし当の本人は、玄関に置いてある「それ」に注目してしまった。
「ねぇ、遊馬君。これ何? 傘と、ハンカチ……?」
「あぁ……うん、そうですね」
ヤバっ、と脳内で黄色信号を点灯させながらも、俺は比較的冷静に返答した。ただそれが客観的に冷静な返答であったかどうかは、俺には判断つかなかった。
そこに置いてあるのは、何の変哲もない傘とハンカチ……なわけがない。アレは昔、摩耶さんからもらった、俺にとっては命の次に大事な宝物だ。だからいつでも見える位置として玄関前に置いているのだが、それが裏目に出た。俺の中ではそこから動くことがないとばかり認識していたから、片付ける計算に入っていなかった。
更なる返答に困っていると、摩耶さんがそれらから視線を外すことなく言葉を続ける。
「ううん、別に何が変ってわけじゃないの。ただ私も昔、これと似たような柄のもの持っていたなって、思い出したの」
「そ、そうなんですか……?」
思わずそう聞き返す俺の声が裏返る。俺の中で何か期待してしまうが、まさかその通りになった。
「一年前くらいかな。どこかの裏路地にいたずぶ濡れの人にあげたんだよね。それから一回も会ってないけど、今頃どうしてるのかな?」
と何気ない口調で当時のことを思い出す摩耶さん。しかし俺はというと、嬉しさで身体中が温かさで包まれた。
まさか覚えていてくれたのだ。摩耶さんにとってはちょっとしたイベントのはずなのに、鮮明に記憶していたのだ。それだけで俺は嬉しい、人前でなければその嬉しさを全身で表現したいくらいだ。
無論ここで、「それは俺です」とは言えない。今と昔では顔が違うからだ。もしその事実を明かすというのなら、俺自身がインキュバスであることも告白しなければならない。そのリスクを考えれば言わないのが吉である。ただ覚えていただけで、俺としては大満足だ。
「でもなんで遊馬君のおウチにこんなものが……? 多分女性物なのに……」
「あぁ……なんていうか、俺にとっては大切なものなんだ。それ以上でもそれ以下でもない、ただただ大切なものなんだよ」
「……そっか!」
そう短く返事した摩耶さんは、それ以上深くは聞いてこなかった。俺の意味深な物言いから、親の形見とかそういったものと勘違いしたのだろう。意味合いとしては大方間違ってもないので、俺は細かい訂正等はしなかった。
玄関の件も済んだところで、やっと摩耶さんをリビングへ通した。俺の部屋は男子高校生の一人暮らしの部屋とは思えないほど、質素なものであった。ベッドやタンス、勉強机など必要なもの以外のものが何もない。摩耶さんのこと以外割とどうでもいい節があるせいで、趣味らしい物すらない始末だ。掃除をする分では楽なものだが、部屋の雰囲気としては些か違和感があることだろう。
「結構綺麗にしてるんだね。男の子の部屋って、ちょっと汚いって思ってて……あ、ごめんね、勝手なイメージ持っちゃって」
「謝ることでもないですよ。多分そっちの方が正しいですし」
こんな小さな認識ミスにまで謝る摩耶さんは、本当に優しさの権化みたいな人だ。それだけでその優しさが偽りのものではないってことは、ひしひしと伝わってくる。部屋の質素さに関しては、さほど疑問に感じていないみたいだ。そういえば摩耶さんの生活はあまり裕福でないから、この程度の方が見慣れているかもしれないな。
ある程度ぐるっと部屋を見渡す摩耶さん。すると不意に摩耶さんからこんな疑問がこぼれる。
「そういえば、なんだけど……遊馬君、一人暮らししてるって言ったけど、今ご両親は何してるの?」
おっと、そこを突いてくるか……摩耶さんからしたら何気ない疑問だが、俺の事情から考えると非常に答えにくいものだ。ややこしさ極まりない経歴をしているからな。まあもちろん、この質問はある程度予想してあるものだ、回答は用意してある。
「あぁー、ちょっと言いにくいけど……捨てられたんですよ、俺」
「え……」
さすがの回答に、摩耶さんの表情が抜ける。あまりの事の重さに、すぐには受け入れられなかったようだ。ただここまで言った以上、俺も考えた内容だけは伝える。
「正確には親戚に押し付けられた、って方が正しいのかな。とにかく俺の両親という存在は、そのまま俺の前から消えたんだ。借金を抱えたのか喧嘩別れしたのか、それすら俺は知らない」
あまり愉快な話でもないので、俺は重苦しく告げる。さすがに明るい話でもないのもあって、摩耶さんも言葉を失っているようだ。
もちろんこれは予め用意していた、偽の回答だ。しかし全部が全部嘘というわけでもない。俺がはぐれインキュバスとして集落から追放された時、同時に俺の育て親である夢魔族から勘当を言い渡された。集落から追い出された以上そうなるのが自然ではあるが、人間の尺度から考えたら捨てられたのと同義と言ってもいいだろう。
「ちょっと前までは親戚の家で生活していたけど、それにも引け目を感じてね……高校進学と同時に一人暮らしを始めたんだ。不思議と反対はされなかったよ……もしかしたら向こうからも、厄介に思われていたのかな?」
自嘲気味に笑う俺は、客観的に見れば結構痛々しかった。もちろんこの部分に関しては、100%嘘だ。人間界に知り合いなんて、最近再会したアイネくらいだ。彼女と会う前の4年間くらいは、ずっと一人きりで生活してきた。親戚もクソもありはしない。
って、ヤバいヤバい。さすがに雰囲気重くし過ぎたな……こんな過去を打ち明けてしまったら、優しさの塊である摩耶さんがそれに全振りした行動を取ってしまいそうだ。それはそれで嬉しいが、そうさせてしまったが故の申し訳なさが際立つ。
しかし実際の摩耶さんの反応はというと、俺が想像していたものとは少し違う。同情で悲しさに暮れているわけでもなく、ただただ俺のことを興味深そうに眺めていた。さすがに俺も何を考えているのかわからない。
「あの……摩耶さん?」
「あぁうん、ごめんね。遊馬君が辛い思いをしているのは重々承知なんだけど……なんか親近感が湧いちゃってさ」
「親近感、ですか……?」
頭上でクエスチョンマークを浮かべている俺をよそに、摩耶さんは考えていた思いを告げる。
「だって普通の子なら、両親が共に健在するのが普通じゃん。いないとしてもその理由が明白に理解している子が多いわけだよ……でも私と遊馬君は違う。私たちはお互いに、いなくなった親のことをよく覚えていない。それを偶然で片付けるのは、ちょっと無理がある気がする」
言われてみれば、と俺も思った。確かにその共通点は、人間の尺度から考えても異例ともいえる。こうして他人に言いふらすことも少ないから、例え似た境遇を持っていたとしても気付くことすら滅多にないだろう。
しかし俺と摩耶さんは知ってしまった、互いの苦境とも言える人生を。もしこの現実が一種のラブロマンスなら、容易に運命という言葉で片付いてしまう。そんな特殊すぎる状況だった。ただ俺にとっては、これ以上にないほど都合が良い。女性はそういうのを好むと、昔どっかで聞いたことある。
ならばその運命とやらに、もう少しアクセントを加えよう。咄嗟に俺はそう考えた。
「そうですね。ただまあ、事情が事情ですからね。おいそれ人には言いふらせないでしょう……だから出来る限り、ふたりだけの秘密にしましょうか?」
秘密、それは運命と並ぶくらいの魔法の言葉だ。二人だけの秘密を共有することで、その中は更に確固たるものへとなる。男女の仲を進展させるのもそうだが、それ以外の相手との関係を遠ざける。秘密の魔力は恐ろしいものだ、それは催眠魔法にも匹敵するほどだ。
そしてその秘密に対し、摩耶さんも朗らかな笑顔を浮かべた。
「秘密、ね……うん、いいよね。そういうの、憧れちゃうな」
真っすぐと大きく見開いた摩耶さんの双眸が、俺のものとかち合う。夢魔族の力など持ち合わせているはずもない摩耶さんから放たれるそれは、抗うことの出来ない魅力がこれでもかと詰まっている。もう何度も見てきたのに、そういった不意打ちには強いインキュバスなはずなのに……俺はそれに幾度なくときめきを覚えた。きっとこれからも、何度も覚えることだろう。
「……さっ、秘密の共有も終わったことだし、早速ご飯作り始めようか」
「あ……うん、そうですね」
パンと音を鳴らす摩耶さんの柏手と共に、俺たちは現実へと引き戻された。そして忘れかけていた目的を思い出す。そうだ、摩耶さんはご飯を作るために我が家に来たんだった……あまりの濃密な時間に、肝心の目的を忘れていた。
「材料はこの前買ってるから、あとは作るだけだね。カレーで問題ないよね? 日持ちもするから、後でも食べられるし」
「俺は大丈夫です。摩耶さんに全てを委ねますよ」
「プレッシャーかけ過ぎだよ。でも腕によりをかけて作るから期待しててね!」
腕をまくりながら自信にあふれたポーズを見せる摩耶さん。その健康的な笑顔と汚れを知らない白く美しい腕に、俺の視線は釘付けだった。
そのまま摩耶さんは持ってきた調理道具を手にキッチンへと向かう。冷蔵庫に押し込んだカレーの食材を取り出すと、早速調理を開始していた。その手際の良さは完全に慣れた人間のものだ、外見の大人っぽさからも若妻に見えてしょうがなかった。
「あ、何か手伝えることがあれば手伝いますけど……」
「うーん……今のところはないかな? 調理は一人でやるのに慣れてるし、お皿の準備もまだ先でいいからね……遊馬君の手が欲しくなったらまた言うよ。それまでは待ってて大丈夫だよ」
「そうですか……なら摩耶さんの言う通りにします」
何もしないことに引け目を感じてしまうが、摩耶さんがいいと言うのなら俺は従うしかない。料理に関する知識はマジでないから、口出しすることも出来ない。変に手伝おうとして邪魔になっても仕方ないし、俺は大人しくリビングで待つことにした。
それにしてもだ。
(こういうの、すごくいいなぁ……)
俺の家のリビングで楽しそうに調理する摩耶さんの後ろ姿を見て、ふと俺はそう思った。いつの間にかエプロンをつけ、野菜の処理に取り掛かっている摩耶さん。エプロンの中には制服を着こんでいるだけあって、その光景にどうしようもない愛おしさを感じる。一般的な恋愛でも味わうことの出来ない、特別な空間が今目の前に広がっている。
まるで同棲し始めたばかりのカップル、そんな風に見えても仕方ないだろう。少なくとも俺にはそう見える。
昔の俺は、それこそ何もかもに絶望し自殺にまで追い込まれた俺には想像できないだろう。まさかとある少女に救われ、その少女と仲のいい同級生という関係まで進行し、挙句は自宅に招いて料理を振舞っているまでになっているとは。昔の俺なら想像できなかったはずだ。
しかし俺はここに至るまで多大な時間と労力を割いた。摩耶さんとの関係を進めるために、出来得る限りの努力を積み重ねた。その結果がこれだとするならば、見返りとしては十分なものだった。
だから今は自らの手でつかみ取った至福の時間に、最大限酔いしれることにした。
「やっぱり手慣れてますね。普段から料理していると、こうも違うんですね……」
「まあ、そうだね。なんだかんだでもう3年以上は台所に立ってるから、嫌でも慣れるよ。昔からお母さんに時間がなかったのは変わらなかったし」
「……となると中学校に入る前くらいから家事を?」
「うん。何もせずにお母さんに甘える自分が、なんか情けなく見えちゃって……」
苦笑いを浮かべながらそう答える摩耶さん。その言葉通りなら、彼女は小学校の頃から今のような生活ルーチンをこなしてきたらしい。この令和の時代に、ここまで出来た小学生が存在していたとは……もはや物語の世界とか、そういう類の存在とばかり思っていた。やはり摩耶さんは、他の女性には持ち合わせていない魅力を持っている。
ただそうなると、気がかりなこともある。
「じゃあ昔から遊んだりとか、そういったことも少なかったんですか?」
「恥ずかしながらね。遊びに時間を割くくらいなら、家事や勉強に充てていたくらいだからね。最近はバイトもやってるし、結構忙しいんだ」
「そうなんですか……」
「あ、でも! そんな私に気を遣ってか、いっちゃんが気を利かせて遊びに連れて行ったりするんだよ。遊ぶっていったら、いっちゃんと出かける時くらいかも」
「いっちゃん?」
「あ、知らない? 5組の黒羽一葉さん、あの子私の中学校の頃からの友達なんだ」
「あー……」
いっちゃんって呼ばれてるのか、黒羽のヤツ。まあ彼女も摩耶さんのことをまーやと、親しみを込めて呼んでいるからな。それくらい仲がいいのだろう。黒羽の熱烈的な摩耶への愛から考えても、容易に想像できることであった。
「いっちゃんも私の家庭事情をある程度把握してるからね。まあ私にお父さんの記憶がないのは知らないと思うけど……とにかくそんな私に気を遣って、時々遊びに連れてってくれるの。それも私の負担にならないように、そこまで頻繁に誘わないの! 私としてもちょうどいい息抜きになるから、すごく大事にされてると思うの」
「へ、へぇ~そうなんだ~」
できるだけ知らない風を装う俺。しかしヤツなら……黒羽ならそのくらいの気遣いが出来てもおかしくないとは思う。黒羽は俺と同じくらい、摩耶さんのことを知り尽くしている。それも摩耶さんの行動基準とか生活レベルとかその辺りにも気を遣い、そのレベルに合わすことすらやってのけそうだ。
全ては愛すべき人である摩耶さんのために。その共有認識は俺たちの中は揺らぐものではないだろう。
「今度も高校入ってから初めて遊びに行くから、楽しみにしてるの!」
「そう、なんですか……」
料理をしながら嬉しそうな後ろ姿を見せる摩耶さんを視界に収める俺は、控えめ気味に返事をする。やはり同性同士は距離を詰めやすくていいよな。俺がここまで摩耶さんとの仲を深めるのにどれだけ苦労したことか……ま、それはそれで達成感があって面白いものだけど。
いつか俺も、摩耶さんと気軽に遊びに誘えるような間柄になりたい。そんな覚悟を再び心中で誓ったのだった。
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