第3話

 とここで俺は、一旦ヤツのことを頭から忘れる。完全に蚊帳の外になり呆けてしまっている摩耶さんに話しかける。一年ぶりに目の前で姿を直視するものだから、緊張もグンと跳ね上がる。

「大丈夫でしたか? 随分と困ってそうだったので、助けに入ったのですが……」

「う、うん。ちょっと突然のことでびっくりしちゃって……助けてくれたことは、本当に感謝してるよ。ありがとうございます」

「い、いえ、このくらいのこと……」

 面と向かってお礼を言われ、俺はつい本調子から外れる。やはり彼女の笑顔は強烈な武器だ。一目見てしまえば惚れずにはいられないほどの、魔性の魅力を感じる。下手なサキュバスなんかよりも、男をたぶらかしそうでならない。今も屈託のない明るい笑顔を向けられ、俺の心臓が激しく高鳴った。

 しかしこの状況において、摩耶さんにペースを握られるわけにはいかない。今の俺は先ほどのイベントにより、超優位な状況に立っている。この好機を逃すわけにはいかない。そしてそのための術は、既に張り巡らせていた。

 さっき俺があの男子生徒に使用した催眠魔法は、夢魔族にとって非常に便利でよく使う魔法でもある。その効果というのは周囲にいる人間に特殊なフェロモンを嗅がせ、異のままに操ること。人の注目を集めることが出来れば、その逆に人払いのようなことも可能。つまり今、俺と摩耶さんの間に割り込める人間は誰もいない。近づこうとしたその瞬間に魔法によって意識を乗っ取られ、あらぬ方向に歩いてしまう始末だ。

 だからこの好機に俺はグイグイ攻める。初対面のインパクトを摩耶さんに刻みつける。

「あの……お名前は?」

「あぁ、そうでしたね。俺は夢宮遊馬って言います」

「遊馬君、ね。うん、覚えた! あ、私は倉橋摩耶。よろしくね」

「はい、よろしくお願いします」

 愛想よく俺も最大限の笑顔を彼女に振りまいた。まあ名前は知ってるから新鮮味はあまりない。だがこのイベント自体に新鮮味を感じるので、俺としては十分満足できた。摩耶さんの素敵な笑顔が見られる、それだけでも幸福度は全然違った。

「ところで遊馬君って、クラス分けってもう見た?」

「いえ、まだですよ。今来たばかりなので」

「なら一緒に見に行こうよ。実は私もまだなんだ。友達と一緒に見る予定だったけど、ちょっと遅れているみたいなの。どうかな?」

「えぇ、摩耶さんがよろしければ」

 そして自然な流れで摩耶さんと二人で行動することが出来た。まさか向こうから誘ってくれるとは思っていなかったが、俺としては非常に嬉しい。摩耶さん自身も俺に対して心を開いている証拠でもあるから、こちらもある程度余裕を持って行動できるな。

 そんな幸運に感謝しながらも、俺は摩耶さんと二人でクラス分けが貼られた看板の前まで移動する。当たり前というべきではあるが、新しいクラスを探そうと新入生が大勢集まっている。催眠魔法で人を一時的にどかすことは可能だが、さすがに不自然さが際立つため安易には使えない。

「あ、見て! 私と遊馬君、同じクラスみたいだよ!」

「え、そうなんですか?」

 テンション高めに看板の方を指差す摩耶さん。その方向に視線をやると、1年2組の欄に俺と摩耶さんの名前があるのが見える。まさか初対面で運命的な出会いをして、そのまま同じクラスになれた。摩耶さんが驚きを隠せないのも無理ないだろう。

(まあ知っていたけど)

 言葉や表情には出さなかったが、知っていた事実なだけに内心は全く驚いていない。もちろんこれも裏でいろいろと暗躍し仕込みを入れた結果だ。別々のクラスなだけでも接点はグッと減ってしまうから、これも必要なことであった。

 ただそんな事情など、摩耶さんが知るわけもない。だから俺も彼女に合わせる必要があった。

「……ホントですね。なんかすごい奇跡だったりします?」

「本当それだよね! こんなこともあるんだね!」

 何も知らない無邪気な笑顔を向ける摩耶さんに、俺は心の中で謝罪だけはしておく。すると摩耶さんが不意に俺の前に手を差し出した。一片の穢れのない、白く綺麗な手だった。

「なら改めて……一年間よろしくね!」

「はい、よろしくお願いします」

 その摩耶さんからの優しさにまたしても甘えた俺は、差し出された彼女の手を取り握手した。こうして彼女と素肌で触れ合ったのは初めてのことだった。それだけに全身にこもる熱は、グンと高くなっていく。それだけ俺自身が喜んでいる証拠であった。

 だが今の俺は、ここで満足したりしない。このようなどデカいチャンスが、今後何度も巡って来ようとは考えにくい。恋愛は戦争、常に全力で取り組まなければならない。俺はインキュバス……踏み込めるラインを容易に踏み越えてこその夢魔族なのだ。

 だからこそ行動しなければならない、そう決めた俺はまばたきをする……その一瞬で、俺の目の色が赤へと変化した。

「でも俺は……摩耶さん以上に、貴方と仲良くなりたいって思ってますよ?」

「え、なに、を……」

 唐突な俺の謎発言に疑問を抱く摩耶さん。しかしその後の言葉は続かなかった。目の焦点が合わなくなるくらいに、彼女の全てを掌握したが故に。

 夢魔族が使う催眠魔法にはもう一つ、もはや本来の使い方と言わんばかりの使用用途がある。それは対象に向かって同じように特殊なフェロモンを嗅がせ、性的に誘惑するというものだ。一度そのフェロモンを吸ってしまえば深層意識まで惚れさせることができ、自ら身体を差し出したくなるほどに興奮させる。サキュバスと聞いたら想像できるような、わかりやすい魔法だ。

 この魔法は本当に強力なものである。使う夢魔族によっては、例え警戒心バリバリでも、両親の仇レベルに嫌いな相手でも、一発で陥落し意のままに性交させられるほどである。そして俺も催眠魔法は得意な部類であり、摩耶さんに関しては俺に警戒心を抱いていない……かからないはずがない。

 それを確認した俺は、更に布石を作る。注目の集まらない場所まで摩耶さんを誘導し、さっきの人払いも重ねて万が一のアクシデントも対策する。その状況で握られたままの手を引き、物理的に距離を縮めた。未だかつてないほど近くにやってきた摩耶さんにドギマギが隠せないが、四の五の言っている場合じゃない。

 やや強引な手段かもしれない。こんな方法で落として終わりとか、一般的に考えて興覚めもいいところだ。だが確実性がある。一度インキュバスに抱かれた女性は、他の男では満足できない。それほどまでに、抗えない魔力と性技が夢魔族にはあるのだ。これで既成事実でも作ろうものなら、もう完璧としか言いようがない。言いようがないのだが……

「はぁっ、はっ……」

 麗しき摩耶さんの顔を目の前にして、俺の身体の調子がおかしくなる。程よく緊張していた心臓は破裂しそうなくらいに激しく鼓動し、朝食べたものも全部出してしまうくらいに胃も締め付けられる。息苦しさのようなものを感じた時には、既に頭の中は真っ白になっていた。

(あと、少しなのに……!)

 俺の視界にぷっくらと可憐に膨らんだ摩耶さんのピンク色の唇が写る。その唇を自分のものと塞いでしまえば、もう勢いのままに事を進めればいい。例え俺が何もせずとも、フェロモンを吸ってしまった摩耶さんが我慢できなくなり、向こうから襲ってくることだろう。

だからあとは、そのトリガーを引き出せばいい。キスをすればいい。インキュバスにとって、夢魔族にとって、呼吸のごとく当たり前にこなす簡単なことだというのに……俺はそのラインを踏み越えることが出来なかった。

「……ちくしょう」

 そうこう言っている内に、こちらの限界がやって来てしまった。このままでは本当にどうにかなってしまいそうだった。すぐに体内から発していたフェロモンを引っ込め、摩耶さんとの距離を空ける。それと同時に夢魔族が使う三つ目の魔法――干渉魔法で今の一連の行動の記憶を消し去った。これも夢魔族にとってものすごく便利な魔法であるが、このような方法で使いたくはなかった。

「あれ……私はいったい……?」

 正気を取り戻した摩耶さんは、何が何だか理解できない様子だった。それも無理はないだろう、今彼女の記憶は握手したところで途切れているのだから。

「……どうかしたんですか?」

 だから俺も盛大にすっとぼけることにした。握手をしていた俺にもわからないとなれば、摩耶さんも疑うことはないだろう。

「あ、遊馬君……今、何か変なこと起きなかった……?」

「変なこと、と言われても、俺たちは握手していただけですよ? 特に変なことなんて何も起きていないかと」

「そ、そうだよね……ごめんね、変なこと聞いちゃって」

「いえ、気にしないでください」

 申し訳なさそうに謝る摩耶さんを見て、俺の心は締め付けられる。好きな人に対して嘘をついたのだ、心苦しくなるのは当然のことであった。

「……あ! ごめん遊馬君! 待ってた友達、やっと来たみたいなの。会いに行かないと」

 とここで無情のタイムアップ。またしても謝る摩耶さんの視線の先には、新入生らしき女子生徒がいた。誰かを探しているのか、どこか落ち着きがないようにも見える。摩耶さんの口ぶり的に、あの子が友達なのだろう。

「……そうですか、わかりました。なら俺は、先に教室に向かうとしますよ」

 だから俺も無理に引き留めるようなことはせず、摩耶さんを解放する。ここで強引なところを見せても、悪印象を持たれるのがオチだ。先ほどの強硬策が失敗した以上、失敗の可能性のあることはできるだけしたくなかった。

「ごめんね。本当はあの子にも紹介したいところだけど、ちょっと男性嫌いなところがあって……噛みついてきちゃうかもなの」

「いえいえ、お気になさらず。俺のことはいいので、友達のところに行ってあげてください」

「うん、ありがとう遊馬君!」

 何度見ても色あせることのない燦燦とした笑顔を振りまく摩耶さんは、俺の一礼をするとその友達のところへと駆けていった。友達も摩耶さんの存在に気付いたようで、向かってくる摩耶さんにぶつかるような勢いで近づき抱き着いていた。いくら友人とて、あの距離感は些か近すぎる気もするが……相手が摩耶さんだ、女性相手とてその気にさせてしまうかもしれない。

 さて、摩耶さんがいなくなったことで、俺も本格的にやることがなくなってしまった。せいぜい新しいクラスへ先に向かい、摩耶さんの戻りを待つことくらいだけだ。せっかくの好機を逃してしまったものの、そこまで大きな問題ではない。

これからまだまだ摩耶さんと接する機会は山ほどある、いや作っていく。その過程で摩耶さんとの距離を縮めればいい。それが本来の、極々一般的な恋愛のやり方だ。夢魔族特有の強引なやり口を使わなければそんなところだろう。何も間違ってはいないはずだ。

「……クソっ」

 しかし俺の内から湧き出す感情は、底なしの悔しさだけだ。言い訳を塗り固め肯定する自分が、情けなく見えてくる。どうしようもないほどの能力のなさに、ただただ歯を食いしばることしかできなかった。自分がインキュバスであることを、生まれて初めて恥じるほどに。

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