第1話
「……よし。何も問題はないな」
とあるアパートの一室にて、俺は鏡の前で自身の身だしなみを確認していた。今日から通う新しい学校の制服に身を包んだ自身の姿に、少しだけ満足感を覚える。今までの努力が報われたような気分であった。
俺の初恋の相手、倉橋摩耶さんとの出会いから、早一年近くが経過していた。あの日から俺は、摩耶さんとお近づきになるためにどうすればいいのか、ひたすら調査と行動の毎日を送っていた。彼女の身辺を細かく調べ上げ、彼女の趣向や交友関係、はたや当時中学生だった彼女がどの高校に進学する高校に至るまで特定した。やっていることがストーカーギリギリだが、ゼロから彼女のことを知ろうと思ったらこのくらいのことはしないといけないのだ。もちろん、摩耶さん本人を尾行する、なんて真似はしなかった。
「やっと、ここまで来たんだ。やっと……」
それでもここまで完璧に準備が整えられたことは、正直自分でも驚きだった。もちろん本当にやりたいことを考えれば、まだスタートラインに立っただけに過ぎない。しかしそのスタートラインに立てたことですら、常人には難しいことだ。他でもない俺が……人ならざる者である俺だからこそ、成しえたことであった。
さてここで俺がどういう者であるのか、改めて説明しよう。
俺の名前は夢宮遊馬――だがこれはあくまでも、人間としての仮の名前に過ぎない。俺の正体は夢魔族……俗にいうインキュバスと呼ばれる悪魔のような存在であった。
インキュバスと聞くと馴染みがないかもしれないが、簡単に言えばサキュバスの男バージョンだ。男を誘惑して性行為に及ぶサキュバスと同じように、インキュバスも女性を誘惑し性行為に及ぶ生き物だ。そこだけ聞くとただのクズ人間にしか聞こえないが、実際そういう生物だからそう説明する他ない。
そんなインキュバスとサキュバスを合わせた総称を『夢魔族』というのだが、その夢魔族は実はこの世に一定数存在する。その過半数は夢魔族の集落――イロティコタウンというところに在住しているが、中には俺みたいに人間界で過ごす夢魔族もそれなりにいる。
しかもそういう夢魔族は比較的優秀なものが多いため、本来の姿を隠して生活できているものがほとんどである。余談だがホストや風俗嬢、大人向け映像作品の関係者などには普通に夢魔族は存在したりする。まあ俺たちの主戦場なわけだし、特別驚くことではない。
まあそんなわけで、平然と夢魔族が紛れ込んでいるこの現代社会で、俺も例に漏れず人間界で生活しているわけなのだが……実際のところ、俺は普通の夢魔族とは事情が違う。俺は人間界に捨てられた、落ちこぼれの夢魔族だった。
「……普通の人には見えなくて、ホントよかったわ」
部屋の中でポツリと呟きながら、俺は自分の左手の甲をさすった。そこには左向きに笑う悪魔の印が刻まれている。
これこそが夢魔族の中でも落ちこぼれの証である『失烙印』だ。これを刻まれた夢魔族は集落から追い出され、人間界で生活せざるを得なくなる。これを俗に「はぐれインキュバス」と呼ばれている。まあここ数年同族に会ったことないから、あまり耳に馴染まない単語ではある。
とにもかくにも数年前に落ちこぼれの烙印を押された俺はこの世界に下りてきた……のだが普通に生活しようとしても慣れない人間の仕事が上手くいかず、クビを言われる毎日。手持ちの金もすぐに底をつき、居場所を失い死ぬ一歩寸前だった。
そんな時に現れたのが俺の中の女神様……そう、倉橋摩耶さんだ。久方ぶりにもらった優しさは、インキュバスである俺の心を射止めるのには十分すぎたのだ。
そんな経緯を経て今に至る。正直年齢的にも高校に通う歳ではないが、夢魔族にとっては些細な問題だ。夢魔族には人間には使えない特殊な魔法を持ち、それを用いることで人間界に順応している。人の意識を意のままに操ることなど容易い夢魔族にとって、経歴詐称は朝飯前のことである。俺もここに至る過程で、何度もその手段を用いてきたくらいだ。全ては摩耶と共に生活し、恋人関係に結び付ける。そのために使えるものは何でも使う覚悟であった。
そして今日、やっと本格的に動き始める時がやってくる。何を隠そう今日は彼女と苦楽を共にする高校――聖白高校の入学式だ。ここに彼女、摩耶さんが入学してくることは事前の調査で確認済み。つまり俺と摩耶さんの、セカンドコンタクトの瞬間なのだ。向こうは覚えていない――今と昔では姿そのものが違うから――だろうが、俺はその瞬間を今か今かと楽しみにしていた。
「……よし、行くか」
身支度を済まし再度覚悟を決めた俺は、学校に向かうため玄関に向かう。俺の玄関は必要最低限のものしかない簡素なものだ。しかしその中にひときわ目立つ、お供え物のようなものも存在する。それはどこにでもありそうな傘とピンクのハンカチ……あの日、摩耶さんからもらった物だ。返す機会がないからずっと持っていたが、俺にとっては人生の再起に繋がった大切な宝物なのだ。
「行ってきます」
俺以外に誰もいない自宅に、自分の声だけが寂しく響いた。それでも俺は、俺の命を救ってくれたこの二つの宝物に、声をかけずにはいられなかった。
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