経験できないインキュバスなので、真面目に恋愛しようと思います
牛風啓
プロローグ
誰もが立ち入ることを躊躇うほどに薄暗く、ネズミすら湧いて出そうなレベルで不衛生なとある路地裏。そこに俺――夢宮遊馬は、生気すら感じられないくらいに項垂れていた。着ているものすらボロボロで、ところどころ肌が露出している。ここ数日まともな食事を取っていないせいで、全体的にも痩せこけていた。
更に天気も朝からの酷い雨模様で、この路地裏にも無差別に激しい雨が降り注がれる。既に風邪すら引いてもおかしくないくらいにびしょ濡れなのだが、俺はその場から動こうとはしない……否、動けなかった。もはやここで生を全うしても惜しくもなんとも思わない、そのくらいまで追い詰められているのが今の俺だ。
――どうしようもないくらいに、不遇でつまらない人生だった。
優秀な人材として生まれてきた俺は、将来を嘱望された存在であった。しかしその実力はいつまで経っても発揮されることなく、俺は全てから見捨てられた。家族からも、昔馴染みの多くの仲間からも、不要な存在として切り捨てられた。俗にいう、村八分ってヤツだ。
現代社会においてそんなことがあり得るのか、そう思うかもしれない。ただ俺の中での常識的には不思議でも何でもなかった。そもそもからして俺は――人ならざる生物だ。その証拠が俺の左手の甲に刻まれている。ただ今はそれを見る気力すらなかった。もう自分が何者であるかすら、どうでもよくなってきているのだから。
(死のう)
不意にそんな不穏な言葉すら、脳裏をよぎる。しかし今に始まったことではない。今までどうにかして生きてきたが、それも今日で最後だ。自ら命を絶つ選択など、今まで幾度となく思い浮かんだ。特に大きなきっかけがあったわけではない、いろいろなことが積み重なり、限界を迎えた結果だった。
(……飛び降りて死のう。それが一番迷惑の掛からない、楽な選択だ)
既に自殺の方法すら決定した俺は、最期の場所へと向かおうとする。しかし相当身体にガタがきているのか、思うように身体が動かなかった。残り少ない気力を振り絞れば身体を起こせるかもしれないが、それすら億劫と感じてしまった。
(……ここで野垂れ死ぬのも、また一興か)
いろいろと諦めがついた俺は、そのまま目を閉じた。自分の身体のことは自分がよく理解している。このまま雨に打たれ続けば、さすがに死ぬ。そのくらい身体は限界であった。ただあまり痛みを感じずに済む分、それも悪くないと思ってしまう自分もいた……なんとも情けない限りだ、もうどうだっていいが。
こんな俺に興味を示す物好きなど、絶対に存在しな……
「……あの。どうか、したんですか?」
ただ神は、ゴミクズの俺に待ったをかける。俺の最期の時を阻止したのは、唐突に現れた一人の女性だった。死に際の意識だからか、周りに誰かが近づいている気配すら感じられなかった。しかしその声掛けは俺にとって、天使からの福音のようにも聞こえた。耳がバグってしまったのか。しかしその姿を見れば、耳が正常だということが再確認できた。
目の前で俺を眺めるその少女は、まさに女神と呼ぶにふさわしいほどの美少女だった。腰まで伸びる毛先まで美しい黒髪に、活気があり心配する表情すら愛らしいと思える顔立ち。百人が横を通りすぎても、追いかけてでも二度見してしまうくらいの美女であることは間違いない。
更に目を惹かせるのは彼女のスタイル。まだ中学生くらいにも見えるあどけなさが残りながらも、目視でも凹凸がはっきりと確認できる魅惑的なプロポーションは、男なら無視できない。例え絶望の淵に立たれ死を覚悟していたとて、俺の中の本能が沸々と戻ってきた。
ただ何故、こんな美少女が俺に声をかけたのだろうか。全くわからないし、理解できない。もちろんこの美少女とは初対面だ、会っていたのなら絶対に忘れられないほどの美少女だからだ。彼女の行動心理が、俺には一切理解できなかった。
しかしここでシカトするのは、人間的にも終わっている。ここで尽きる命だとするならば、散り際くらい人に見せられるものでありたい。そんなちっぽけなプライドを噛みしめ、俺はか細い声を発する。
「……ははっ、大丈夫ですよ。ちょっと雨に打たれたい気分なだけなので」
「で、でも、そんなに濡れていたら、風邪ひきますよ……」
「こう見えて、結構身体丈夫なんで。気にしないでください」
未だ心配そうに声をかける美少女に向かって、俺は精一杯の虚勢を張った。もちろん身体はもう限界に近い、もしかしたら肺はやられているかもしれない。だがそれでいい、俺の散り際にはそれくらいがちょうどいい。
しかし少女は俺の言葉を信じようとはしなかった。心配そうな表情から一転、非常に真剣な眼差しが俺へと向けられた。やはり強がっていると気づいたのだろうか、俺の顔色が悪いのが原因かもしれない。そしてそれが原因で、彼女の中の何かに火がついてしまった。
「……やっぱり心配です。私には何もできないかもしれませんが、これを」
そう言いながら彼女は、自分が使っていた傘を俺に差し出した。路地裏で多少雨風が凌げるとはいえ、全く濡れないわけじゃない。傘を俺に差し出したことで、彼女もすぐに雨に打たれ全身が濡れる。ただそんな姿ですら絵になってしまう。「水も滴るいい女」というのは、こういうことを言うのだろう。
「……いや、そんなことしたら貴方が風邪を……」
「大丈夫です。私の家、ここから近いので」
にっこりと笑いながら少女は俺の心配を跳ね退けた。おそらく家が近い、というのは嘘だろう。朦朧とした頭だからそうと言い切れる証拠が見いだせたわけではないが、不思議とそんな気がした。
更に彼女はポケットからピンク色のハンカチを取り出すと、それで俺の顔を拭いた。そこまで大きなハンカチではないため、すぐに乾いている部分がなくなり使い物にならなくなる。だがそんな問題は些細なことだ。彼女が自分の物を犠牲にして人に尽くす、それ自体に意味があるのだ。
「これも使ってください。もうあまり使えないかもですけど」
俺を拭いたハンカチを強引に握らせる少女。ついには反論する気力も起こらず、俺はハンカチを握ったまま彼女を見つめる他なかった。
正直、わからなかった。何故彼女が、見ず知らずの俺に対しここまでのことをしてくれるのか、真意はわからない。顔の出来はマシとはいえこんなボロボロの俺に対し、打算なしで何かしてくれるとつい裏を考えてしまう。
だが彼女から向けられる屈託な笑顔を見ていると、俺はこうとも考えてしまう。彼女はそういう人間……誰に対しても無償の愛情を注げる、心優しき女性だったのだ。そんな人間がこの世に存在するなんて、今目の前にいても信じられなかった。
「それじゃあ、私はこれで。風邪ひく前に、ちゃんとおうちに帰ってくださいね」
「あ、あの……!」
最大限の配慮の言葉と共に、少女は立ち去ろうとする。その瞬間、俺は気づけば彼女を引き留めていた。どうしてそうしたか、俺にもわからない。今ここで死のうとした身だというのに、一体何がしたいのか、本当にわからない。わからないこと尽くめで俺の頭はおかしなことになっている。ただこれを聞かずにはいられないと、俺の中の本能が叫んだ。
「……お名前を、教えていただけませんか?」
ピリピリと全身を走る痛みを堪えながら、俺はその問いを投げた。もう彼女と会うのはこれで最後かもしれない。この世に住む人の数を考えれば、その可能性は非常に高い。だが聞かなければならない。そんな気がして、俺は残りわずかな気力を振り絞る。
だから彼女も、俺の想いに答える。正直答えるとは思っていた。俺なんかを助けてくれる心優しき人が、答えを渋るとは考えにくかった。
「……摩耶。倉橋摩耶と言います」
ニコリと最後に忘れられないような、降り注ぐ雨すら振り払うような輝かしい笑顔を向けた少女は、自らの名を告げる。そしてそれを最後に、今度こそ少女は路地裏から外へと駆けていった。
引き留めることはしなかった。これ以上引き留めれば、今度は彼女が風邪をひいてしまうかもしれない。そうなれば俺の中で罪悪感が増すのは目に見えている。しかし俺の中では、もっと別の感情が芽生えようとしている。
(彼女を知りたい、彼女ともっと話がしたい、彼女と仲良くなりたい……)
俺の頭を埋め尽くすのは、彼女の屈託な笑顔だけ。どれだけ他事を考えようとも、悪い思考に至ろうとも、彼女の顔が脳裏をちらつく。
それと同時に冷えた身体が、どこかぽかぽかと暖かくなってきている気もする。とくんとくんと、止まり始めていた心臓の鼓動も速さを増している気がする。それがどういうことを意味しているのか……まともな思考が出来ない今の俺でもわかることであった。
(……彼女と共にいたい、恋をしたい)
あまりにも簡単すぎる、恋への目覚めだった。正直俺自身も、こんな簡単なヤツだとは思いたくない。しかし押し寄せる熱のこもった感情には、逆らうことなどできないのだ。それどころか加速的に膨れ上がり、それ以外何も考えられなくなる。
加えて言えばその感情は、魔法にも匹敵するえげつない感情だった。さっきまで死を覚悟していた自分など、もうどこにも存在しない。体調の悪さは言わずもがなだが、気力で立ち上がることも出来るし、悪循環する負の感情すら容易に断ち切れた。不思議なものだ。
しかしだからこそ、もう一度立ち上がるきっかけとしてその感情に向き合わなければならない。そういう義務感に少しだけ駆られた部分もあるが、俺自身そうしたいと思えて仕方なかった。
「……やってやる。やってやる……!」
自分を鼓舞する言葉を繰り返しながら、俺は気力だけで前へと進んでいく。例えみじめな存在であろうが、長く険しい闘いになるだろうが、そんなの関係ない。俺の存在意義、そしてプライドに賭けて、絶対に彼女と……摩耶さんと親密な関係になってみせる。それが今の俺にとっての、唯一の希望にして、初めて芽生えた生きがいであった。
こうして俺の、人ならざる者によるラブコメが、始まりを告げたのだった。
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