第11話 北方の戦士
ミルディア王国の北方には、肥沃ではない土地が広がっている。
その大地はザクセンと呼ばれているが、由来はよく分かっていない。
トリエラなどは、前世のヨーロッパに同じ名前の町か何かがあったような気がしたが、はっきりとは記憶していない。
ゲーム世界においては、ルートによってはラスボスとして大暴れしたトリエラであるが、その時にはこんな名前は出ていなかったと思う。
ルートによってはこの名前も出たのかもしれないが、少なくともトリエラがプレイした範囲では、聞いていなかったように思う。
もっともあのゲームは、フェンリルだのドラゴンだの、現実世界の神話を元にした生物が存在した。
ちなみにこの世界にも、巨大な白い狼や、竜と呼ばれる存在がいる。
そもそも馬が、前世の馬と同じである。
それを言うならもっと突っ込んで、人間が地球人類と同じに見える。
もっとも髪の毛などの体毛だけは、ゲームに準拠した鮮やかな色になっているが。
神々と言われているあれらの存在は、随分と雑なものだ。
ザクセンの地は森林や草原、そして高地などを含む、広大な土地である。
そこで人々は、主に放牧に従事して暮らしている。
農耕も行われているが、基本的には狩猟や採取が多い。
そんな社会でしかも、周辺には魔物が多い。
ともなれば女であっても、戦える者は戦うのだ。
ランはそんな戦士の一人であり、実はセリルも大物が相手であれば、魔法を使って戦うことはあった。
ザクセンというのはそういう土地である。
ランはザクセンの土地に住む部族の中でも、セリルとは違う部族の出身だ。
もっともそれらの部族全てを、便宜的にまとめているのがセリルの父であったので、同じ部族という言い方も間違いではない。
ザクセンの民、という括りなら確かにそうなのだ。
ただ、ランはセリルや他のメイドと違って、顔立ちや肌の色はともかく、髪の色が漆黒である。
セリルの銀色というのは、部族では珍しいものではない。
逆にランの部族では、黒髪が大半だ。
部族によって、その素質はかなりの違いがあった。
ある程度は混血しているのだが、おおよそ黒髪の者は、身体能力に優れていた。
もっともセリルの父などは、魔法も使うが武器も使う。
もしもいたなら、トリエラの訓練は、父に頼んでいただろう。
黒髪を短く切り揃えたランは、セリルの頼みに困惑しながらも、一応は承諾した。
ただ彼女は、セリルにさえ内緒にしている、長老たちの話を思い出していた。
もしもセリルが子供を産めば、その子をセリルよりも優先して守れと。
確かにミルディアに来てからの数年で、この国の制度においては、ローデック家の血を引くトリエラの方が、優先して守られる存在だとは分かる。
しかしランは疑問も抱くのだ。
(今ならそう言えるけど、セリルが何人も子供を産んでいたら、どうすれば良かったんだ?)
もちろん現実として、一人しかいないザクセンの血を継ぐトリエラを、今のランは守るべきなのだろう。
ランもまた、クラスには就いている。
違う形の神を祭るとは言っても、システムは同じなのだ。
ランの場合は、役割が戦士というだけであって、クラスは違う。
最初は『狩人』であり次が『斥候』であり、今のクラスは『暗殺者』だ。
言葉の意味は悪いが、クラスにおける名前と、実際の暗殺者とは完全に分けて考えられる。
ランの場合はとにかく、隠密行動に特化した上で、さらに戦闘力も高いクラスに就いていったのだ。
特に『暗殺者』は対人戦闘スキルを持っている。
護衛としては向いているのだ。
セリルに呼び出されたランは、そのまま説明を受けた。
元々、トリエラの魔法訓練などには、セリルと共に付き合っていたランである。
そしてトリエラが魔法戦士というクラスであると聞いて、驚きはしたが納得もした。
それにセリルは知らなかったが、ランは知っていたのだ。
同じように、幼いながらもクラスに就いていた、故郷の子供のことを。
元々故郷では、子供たちに教えることもあった。
なのでトリエラに教えること自体には、特に問題はない。だが確認はしておかなければいけない。
「私は手加減が下手ですが」
「私も同席しますので、ある程度の怪我は治せます」
セリルの現在のクラスは『魔導師』である。
だが彼女はそれ以前に、実は『神官』のクラスに就いている。神官から『魔術士』そして魔導師となったわけだ。
神官は祈祷術を使う、治療魔法の専門家の系統だ。
厳密にはこの場合、治療魔法とは言わないのだが。
神官の祈祷術があるのなら、手足の一本は折っても大丈夫。
手加減の必要が、お互いにあまりない訓練というのは、経験を積む上で便利なのだ。
殺すための訓練は、魔物狩りなどの実地で行う。
もっともローデック領は、魔物が住む魔境はここからかなり遠い。
(まずは技術的なことを教えるべきか)
何度かランは、セリルがトリエラに魔道を教えるのを見ていた。
自身は魔道の素養はないが、狩では魔法職とも共闘している。
なのでトリエラの適性が、かなり高いことは分かっていたのだが。
魔道というのは、学問である。
少なくともランはそう教えられた。
しかしいくら頭がよくても、白兵戦は経験して学ぶものだ。
もっとも軽やかに駆けるトリエラの様子を見ているので、ある程度の素養はあるだろうな、とランも判断している。
魔法戦士というクラスは、初級職ではない。
クラスには明確に、初級職と上級職が存在する。
世界の言葉に直せば、初級職階と上級職階。
戦士というクラスと、魔術士というクラスを経験した上で、就くことが可能になるクラスだ。
ランもまた、ザクセンの戦士の中に数人、このクラスの人間を見かけた。
上級のクラスは、女神の加護を得て位階が上がる時、よりその補正が高くなる。
ただしそのためには、より強い魔物を倒す必要がある。
他にも恩恵は多いが、基本的に初級職を経た上で、昇格するクラス。
ランとしては疑問ばかりである。
ただ共に狩にも出て、主人と言うよりは友人に近いセリルから、トリエラの立場は聞いた。
ランもミルディアに来て、こちらの社会の成り立ちは理解している。
そしてトリエラが危険であることも。
「もしもトリエラが本邸に迎え入れられることになったら、私も一緒に行くということで?」
敬称も付けずに、友人の娘の名を呼ぶ。
もちろん二人きりか、同じくザクセンからの従者だけの場であるが。
「それも頼みたいけど、トリエラにもどうにか、危機から逃げるだけの力を教えてほしいの」
なるほど、セリルの考えには無理がない。
今のトリエラの小さな体では、鍛えようとしても限界がある。
ならばまずは、安全圏に脱出しなければいけない。
またランの知識からであれば、戦闘以外の危険から、己の身を守る手段も学べるだろう。
この先のトリエラに、危険が迫ることは分かっている。
戦うよりもまず、生き抜く力を。
セリルとランの認識は、共通のものとなっていた。
前世の経験は反映される。
トリエラは母によるステータスチェック以前から、それは自覚していた。
なので最初にセリルが疑問に思った時も、分からないで通すしかなかったのだ。
転生者以外に事実を伝えると、ペナルティが加えられる。
正直なところ、それが本当かどうかは、微妙だと思ったこともある。
だが実際にペナルティが加えられれば、それは生き残る可能性を減らすことになる。
(生きる、か……)
ただ生きることだけでも怖かった、前世の自分。
このトリエラという肉体と、それに宿る記憶。
生きて何をしたいのか、まだ分かっていない。
一応はゲーム通りに進むなら、ヒロインと対決するか、それとも和解するか、選ばなければいけない。
ゲームのトリエラは残酷非情であったが、普段は何を考えていたのか。
悪意に染まっていたことは確かだ。
しかしこのトリエラという自分は、そこまで世界に悪意を抱いてはいない。
(何かイベントがあって、それがトリエラを変える?)
それでも既に人格が形成されているトリエラなら、バッドルートを歩むとは思えないのだが。
そのためにもやはり、力は必要だ。
今はまだ、自分自身の力を育てるしか、やりようがない。
だがゲームの開始時点までには、自分自身の勢力として、力を作っておきたい。
ゲームにおける取り巻きも、それなりには使えるだろう。
もっともメインルートでは、トリエラ自身がそういった人間を、ほとんど殺してしまうのだが。
(自分でも、人材を見つけて、育てないといけない)
書物で調べるのと、前世のゲーム知識と、現在の自分の実感。
これを元にして素質のある人間を選別し、自分の側近とする。
本邸に移動してからは、それを考えるべきだろう。
そんな現実のことを考えながら、トリエラは今夜もバルコニーに出て、天体観測を行う。
この世界は、地動説が一般常識となっている。
前世においてはかなり後の時代まで、天動説が主流であったことをトリエラは知っている。
ただその天動説の時代でも、古い時代には地球は球体であり、後になぜか平面だと信じられるようになった、というところの知識までは持っている。
しかしこの世界では、地動説が普通に証明されており、また宇宙の捉え方もおおよそ前世と同じである。
あの男は、ゲームの世界に転生してもらうと言った。
だがこの世界の神々の神話によると、明らかにその時点で世界は地動説なのだ。
それを基準に学問が行われたため、最初から地動説が優位だったのであろう。
このあたりは前提条件の違いであり、世界の学問が前世の中世より、確実に進んでいるという理由にはならない。
ただ天文学を調べれば、トリエラはおかしいなと思うのだ。
原作のゲームと違い、この世界の月は一つだけ。
前世で見た地球の月とは、明らかに顔が違う。
しかし多くの惑星が、同じように存在している。
少なくとも金星や火星、土星に木星などは、地球と同じであるようなのだ。
そして輝く北斗七星。
もっともその方向はおかしく、北極星は北の方向にはない。
またよく分からない星が二つほど、確かに存在する。
世界の謎は、まだ解き明かされていない。
前世で科学に詳しい人間が、転生者の中にいれば、一度話してみたいものだ。
この世界が、本当に異世界なのかどうかを。
ランが訓練を承諾してくれたことは、トリエラにとってはありがたいものであった。
「今の姫様の体では、剣や槍などを振り回すのは無理がありますし、私もそちらはあまり得意ではありません」
そうだろうな、とトリエラは気づいていた。
ランは歩いても足音がしないし、そもそも気配があまり感じられない。
前世で言うなら自分の養父のような、熟練した猟師お技術を持っていた人間に似ている。
もっとも世間の基準からずれた養父は、もっと危険なことをトリエラに教えたものだが。
ランがまず教えたのは、護身の心得であった。
拍子抜けしそうになったが、確かに彼女の目からすれば、トリエラはそれを第一に考えなければいけない。
「これは姫様だけではなく、屈強な大人の男性にも言えることなのですが、本来は危険に近づかないことが一番いいのです」
そう教えるランは、いたってまともな人間であると思った。
前世の養父やその友人に比べれば、あまりにもまっとうすぎる。
ただこれが、普通の感覚なのだ。
平和な日本にいながらも、人体の効率的な破壊方法や、有害生物に対する徒手による処置を考えるのは、はっきり言って異常な集団であった。
同じく異常者であったトリエラにとっては、むしろ居心地は良かったのだが。
「危険に近づかない。護衛から離れない。万一には逃げる。最悪交戦に至っても、相手には一撃だけ加えて隙を作り、また逃げるのです」
本当に、正しいことを言っている。
だがトリエラが学びたいのは、正しいことばかりではない。
ドレスから動きやすい服装に着替えて、トリエラがまずやったことは、ただひたすら走ることだった。
もっとも延々と走るわけではなく、ある程度の距離を速いスピードで走る。
本当に危険な相手からは、そんなにずっと逃げ続けても、実際には逃げ切れるものではない。
だがほんのわずかに、安全なところに行ければ、人間は助かったりするのだ。
そんな考えをランは持っていたので、まずは走らせた。
六歳のトリエラが意外にも俊敏で、そこは驚いたものだが。
ただトリエラは、既にクラスに就いているのだ。
戦士系のクラスというのは、身体能力を上昇させるスキルが、自動的に付随するものがある。
元々天才的にトリエラに素質があるため、クラスに選ばれた、と考えれば無理はないのか。
いやそんな、最初からクラスに就いているというだけで、明らかに他者よりは優位である。
もっとも過去の伝説の中には、生まれながらにして戦士であった、などと比喩表現なのか事実なのか、良く分からない話が残っている英雄もいるが。
ただランがトリエラの本質として感じたのは、旺盛な闘争心と、限界までの見切りである。
元々接近戦では短剣をメインに使うランは、木製のそれでトリエラと打ち合ってみた。
するとトリエラはランの致命的ではない攻撃は、平気で払いのけるのだ。
そして小柄な体ではあるが、全体重を乗せて短剣を突き刺す。
まさかと思っていたランは、回避しきれずにうずくまってしまった。
これは本物の武器を使っていれば、ランが死んでいた。
もちろん木製の模擬武器であるからこそ、少しは集中力が落ちていたというのはあるが。
ランが本当の意味でトリエラを知ったのは、痛みをこらえて顔を持ち上げた時であった。
トリエラは木剣を隠すように持ち、そしてランの挙動から目を離していなかった。
「ラン!」
むしろ見学していたセリルの方が、心配して駆け寄ったものだ。
ただランとしても、故郷では教えられていたのだ。
獲物が本当に死んだと確信できるまで、目を離してはいけないと。
戦闘の適性がある。
いや、ありすぎると言った方がいいか。
ランから見ればまさに、生き残るために最善を尽くしているように思える。
もちろんこれが本当に殺し合いなら、トリエラは逃げるのが正解だ。
(違うな。この隙に私を殺すのが最善手か)
殺してしまえば、確実に殺されることはなくなる。
トリエラの瞳は、冷たい輝きを湛えていた。
ランは痛みが引くと、ゆっくりと立ち上がった。
セリルが治癒しようとするのを、手で制する。
そもそも本当の傷ではないのだ。
ただいいのを食らってしまっただけで。
「姫様は、間違いなく戦うことに向いていますね」
ランの言葉に、悲しい顔をしたのはむしろ、セリルであった。
これはただの訓練だと、トリエラには分かっている。
だが訓練だからこそ、様々な状況に対応できなければいけない。
「今度は私も、姫様がある程度は怪我をしても、おかしくないように戦います」
トリエラは頷きもせず、ただ佇んでいる。
急激に接近したランは、武器ではなく蹴りを飛ばしてきた。
それに対してトリエラは、木剣を盾のように使い、腹で受けようとしている。
刀であれば、刃で受けたであろう。
だが持たされていたのは、両刃の短剣と想定すべきもの。
本来の金属剣であれば、充分に受けられると思ったのだ。
ランは回転するように、もう一つの足も地面から離した。
そしてその足のつま先は、守られていないトリエラの脇腹に突き刺さった。
さすがに反応も出来ず、転がるトリエラ。
それに対してランは、セリルを促した。
今の速度なら、普通は骨が折れるか内蔵が潰れている。
だがランの足に残ったのは、かなり軽い感触であった。
つまりトリエラは、回避出来ないと思うと、そのまま逆方向に飛んだのだ。
まったくどうして、天才というものはいる。
「痛みが消えるまで、少し口頭で教えましょうか」
ランはまだまだ、今日の授業を終わらせるつもりはなかった。
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