3章 ラオルテの異変(2)

 ユリシスが念の為、監視席の足場に置かれているライフルを取り上げ、使用可能であるか確認した。


 氷狼の体表には効かないとはいえ、上手く眼球を狙えば、多少なりともダメージを与えて時間稼ぎは出来る。新しい煙草をくわえたヴァンが、火をつけて一煙吐き出した後、上司に続いてライフルの用意を整えながら、後輩であるサーバルに「おい」と声を掛けた。


「諦めろ。あのガキは、聞く耳を持たないタイプだ」

「まさにその通りですよ。諦めなさい、サーバル」

「ユリシス様、どうしてあの子どもを一人で行かせたんですかッ」


 獣師は、動物の専門家である。彼らは生態を知り尽くしているからこそ、特に害獣に対しては慎重になってくれるはずなのだが、あの少年獣師は、サーバルから見ると恐れ知らずで、どうも危なっかしい気がしてならないのだ。


 ヴァンも同様の見解を覚えてはいたが、上司が決めた事ならと反対はしなかった。とりあえず、最悪の事態を想定して放火銃も用意したが、先月から許可なく外へ降りる事が禁じられていたる現在、この状況を団長のグリセンが知ったら、卒倒するだろうなとは思った。


 ユリシスは、ライフルを塀に立てかけると、サーバルの問いに答えるよう振り返った。


「彼は他の獣師と違い、何かしら確信のある物言いをしていたので、許可しました。……あと、引きとめるのも面倒になりましたし」

「後者が本音ですよね!? ちょ、僕の目を見て言って下さいユリシス様ッ」

「サーバル落ち着けって。多分、団長がぶっ倒れるぐらいで済むから」

「あんたは落ち着き過ぎですよヴァン先輩!」


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 屋上でそのような会話が繰り広げられていた頃、ラビは、早々に梯子の中央まで下りて来ていた。


 頑丈な鉄で作られた梯子の上は、山から下りてくる初夏の風が強く吹いていた。木の防壁には大きな爪跡が複数残されており、梯子にも真新しい引っ掻き傷が見られた。


 ノエルは屋上から飛び降りると、翼が生えているような軽やかさで地面へと着地していた。砂利を踏みしめ、辺りの臭いを嗅ぎ、ラビを見上げる。


『早く降りてこいよ』

「早くとか無理。ここから飛び降りたら大変な事になるからッ」


 ラビは口の中で愚痴り、誤って手足を滑らせないよう慎重に地上を目指した。


 大地にようやく足がつくと、無事に到着した安堵感が込み上げて、ラビは身体の強張りを解くように吐息をこぼした。


 地面は硬い大地に覆われているが、はるか向こうでは、白い雪が降り積もって氷山の頂きが覗いていた。吹き抜ける風には冷気が混じっているが、雪が積もる土地と隣り合わせだとは思えない。


 あの雪を境目に、向こうは強烈な寒気の溜まり場になっているのだと、ノエルが説明した。


 季節の変動で、暖気と寒気の流れが変わるのが基本的だが、一部の土地では、そういった変動現象が全く起きない場合がある。広大な大陸では、全く異なる季節が隣合わせで存在している場所もあるという。


 とはいえ、氷山からラオルテの町までは、ざっと目測しただけでも相当な距離がある。


 ラビが「こっちに来るまで時間が掛かりそうだけど」とちょっとした疑問を口にすると、ノエルが『氷狼の脚力をナメんなよ』と忠告した。


 人間側には詳細の記録が残されていないが、氷狼は、走り出して数分足らずで劇的にスピードが加速し、その際の時速は動物界でも最速を誇るらしい。走る距離が長いほど速度が増す特徴があり、鉄砲玉のように大地を突き進むため、肉眼では遠目での視認も難しいのだとか。


「ということは、その速さを出せるぐらいに身体が丈夫ってわけか」

『まぁ、そういうこった。長距離を一瞬で駆け抜ける姿は凄まじいもんだぜ? いつもは尖っている身体も、風の抵抗を最小限に抑えるため閉じられて、空気中の冷気が集められて足音も消える。とにかく無駄がない』


 ラビとノエルは、町から離れるようにしばらく歩き続けた。


 大地は乾ききっており、最近は雨も降っていないようだ。地面には砂利と、小指ほどの石が転がっているばかりで、雑草の一つも生えてはいなかった。


『やっぱり、匂いが混じってるな……』

「なんの匂い?」

『……考えたくはない可能性だったが、多分これは【悪鬼】だろうなぁ』


 ノエルは十数秒ほど地面の匂いを嗅ぐと、ふと『ラビ、こっちを見てみろ』と声を上げた。


 ラビはしゃがみ込み、ノエルが鼻先で示す場所を確認した。砂利に青い砂が混じっている。それは手で触れるとぼろぼろに崩れてなくなってしまい、指先で持ち上げる事も叶わなかった。


「何これ」

『使用済みの【月の石】だ』


 ノエルは、苦々しい顔で呟いた。


『本来は、月の光の力を閉じ込めた黄色い石なんだけどな。俺達にとって、月の光無しに力を引き出せる魔法の石みたいなもんだ。使って消費されると、青くなる』

「どういう事?」

『あ~……つまり、俺みたいな存在にとって、利用価値のある石なんだよ。普通の人間には見えない俺達は、妖獣と呼ばれている存在でな。大昔には【使い手】と呼ばれる術が使える獣師がいて、妖獣を従えていた時代もあったってわけだ。分かりやすく言えば【妖獣師】ってところか』


「妖獣ねぇ……。ノエルの他にも見えない動物がいるって事は、ノエルって本当に普通の狼じゃなかったんだ」

『だから、最初からそう言ってんだろが。普通の狼は、サンドイッチとか果物も食わねぇってのッ』


 ノエルは呆れたように言うと、その場に腰を降ろした。金緑の静かな眼差しで、しゃがむラビを覗き込む。


 数秒ほど、黙りこんだまま至近距離から見つめ合った。冷気を含んだ風が、ラビの金色の髪と、ノエルの黒い毛並みの先を絡め合った。


『……お前、出会った時から俺を怖がらなかったもんな。妖獣って聞いて、怖くないのか?』

「オレ、その妖獣っていうのがよく分からないんだけど。つまりアレだろ? ノエルみたいにお喋りが出来て、普通の動物よりも運動神経が高くて、誰の目にもいないように見えるような、不思議な動物」


 すると、ノエルはどちらともつかない私情を滲ませて、僅かに目を細めた。


『――種類にもよるが、人界の動物の形から外れた奴らが多い。まぁ俺達は、妖精だとか化け物だとかいう存在みたいなもんだ』

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