3章 ラオルテの異変(1)

 食堂でラビが調査してくると告げた矢先、若い部下達が、急な仕事の要件が出来たとセドリックを呼びに来た。


 セドリックは、まだ場所に不慣れだろうからという理由で、ユリシスに、ラビの案内役として付くよう指示した。ノエルと出歩こうと考えていたラビは、案内役がユリシスである事も気に食わず、「勝手にやるから今はいらんッ」と断ったのだが、セドリックに「頼みますから、ね?」と心配症を起こされてしまい、渋々了承するしかなかった。


「『いらん』とは、随分な言いようですね」

「お前だってそう思ってるだろ」

「ええ、実に腹立たしい限りです」

『お前ら、よく目も合わさず喧嘩出来るな』


 セドリックを見送りながら静かに殺気立つ二人を見て、ノエルが呆れたようにそう言った。


『まぁいいじゃねぇか。ひとまずは、例の氷山を見てみようぜ』

「……」

『こいつがいれば、上にも行けるんだろ?』


 ノエルと目を合わせたラビは、それもそうかと考え直して、ひとまず、ユリシスに屋上まで案内して欲しいと頼んだ。


 案内された警備棟の屋上は、騎士達からは見張り台と呼ばれており、武器が常備された二人用の監視席が設けられていた。そこからは、町の入り口の反対方向である東の大地に聳え立つ氷山が、どしりと腰を構えている様子が一望出来た。


 遠くにある雪の大地に佇む氷山は、鋭利な頂を持ち、日差しを受けて深い氷の層を滑らかに光らせている。


 その時刻の監視にあたっていたのは、ホノワ村からずっと同行していたサーバルとヴァンだった。見張るだけの仕事には暇を持て余しているようで、山から吹き抜ける冷気を伴った夏風に煽られながら、ヴァンが気だるそうに煙草を吹かしていた。


 二人の部隊員は、ユリシスの姿に気付くと敬礼を取った。ユリシスは「こちらの事は気にしないで下さい」と彼らに告げると、東側の方角へラビの視線を促しながら、防壁沿いの塀にある生々しい爪跡を指した。


「氷狼は壁に爪を立て、ここまで登って来ました。今のところは踏み込まれるギリギリのところで食い止められてはいますが、大きな害獣ですから、三頭以上で一気に登って来られたら、数人では立ち打ち出来ないでしょうね」

「確か、一昨日にも出たんだって?」

「情報が早いですね」


 そうですよ、とユリシスは、半ば納得のいかない顔で答えた。


 その戦闘で怪我を負った男達については、町の病院でまだ治療を受けているのだという。傷口は凍傷になっていたそうだが、大事には至らず、切断といった最悪の事態は避けられたそうだ。


 ラビは、後方にユリシスを残して、塀に腕をもたれて氷山を眺めやった。隣に立ったノエルが、塀に前足を掛けて頭を上げ、優雅な漆黒の毛をなびかせながら鼻先を動かせた。


『あの山は、氷狼の巣だな。でも、なんだろうな。山から嫌な匂いがしやがる』


 ラビは後ろにいる人間に怪しまれないよう、囁き程度の声で「嫌な匂いって?」とノエルに尋ねた。


『昔嗅いだ事があるんだが――いや、まさかな。あいつらはただの亡霊だ……使い手もいなくなっちまったし、こんなところに【月の石】がある訳でもないだろう』


 使い手? 月の石ってなんだろう。


 しかし、ラビの疑問は口にはされなかった。ノエルがさっと身をひるがえすと、そこにユリシスがやってきて彼女の隣から氷山の方を眺めたのだ。


「随分熱心に見ていますね。人間よりも、風景の方が落ち着きますか」

「……なんか、ヤな言い方だなぁ」


 ラビが塀にもたれると、彼もこちらを見ないまま腕を組んだ。


「それで? 獣師として何か気付いた事はありますか」

「ん~、まだ特にはないけど……氷狼が、命を落とす事を覚悟で町にやってくる理由ってなんだろうなって、ちょっと考えてた」


 その時、不意にノエルが、ラビの足を尻尾で撫でた。


『気になる事がある。氷狼が辿った道の上を調べてみたいから、とりあえず外に降りてみよう』


 ノエルが顎をくいっと向けた先には、監視席の向こう側にある、外へ降りられる梯子が設置されていた、。


 実際に現場を見た方が、分かる事も多いだろう。なるほどね、とラビはその意見に賛成するように小さく頷き返し、ユリシスへと視線を戻した。


「――あの、ちょっと下に降りてみたいんだけど」


 ノエルに背中を押されながら、ラビは、ユリシスの横顔に尋ねた。途端に彼が「なんですって?」と怪訝な顔を向け、何を言っているんだこの馬鹿は、と秀麗な眉を顰めて露骨に非難の表情を浮かべた。


「だから、氷狼の足跡とか確認してみたいから、ちょっとそこまで降りてみたいんだ」

「君は話を聞いていましたか。氷狼は、日中問わず出てくるんですよ。万が一やってきたら、君の足では到底逃げ切れません」

『臭いがしねぇから大丈夫だ。あいつらに動きがあれば、俺の鼻が察知する』

「今は大丈夫。……ッと獣師の勘が言っている!」


 ユリシスが疑い深い目を細めたので、ラビは慌ててそう付け加えた。


 二人のやりとりを見守っていたサーバルとヴァンが、「やめとけって」「やめた方がいいよ」と口にした。しかし、しばらく考えていたがユリシスが、ふと「いいでしょう」と言った。


「けれど責任は負いませんよ。調査にあたった騎士団の人間が、大怪我をした事だけは肝に命じておいて下さい」


 ラビは小さくガッツポーズすると、早速監視席の方へと向かい、梯子に手を掛けた。


 優しい笑い皺のあるサーバルが、すっかり不安に苛まれた様子で眉尻を下げて「やっぱり危険だよ」と青い顔でラビに説得を試みた。


「一度興奮した氷狼には、威嚇射撃も効かない。いくら剣の腕があると言っても、氷狼は一度に二、三匹でフォーメーションを組んで襲撃してくるし――」

「だいじょーぶだって」


 ラビは梯子に足を掛けながら、目も向けずサーバルの台詞を遮った。サーバルは、ラビの身体がすっかり梯子の向こうに行ってしまうと、「あぁぁぁ」と情けない声を上げた。

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