1章 ホノワ村のラビィ(9)

「こちらとしては結構、切羽詰まっているのですがね。氷山を抱えるヴィルドン地方は現在夏ですが、雪も氷もない町に氷狼が降りて、怪我人まで出てしまっているのですから」

『妙な話だな。氷狼にとって、暖かさは毒だぜ』


 外から戻ってきたノエルが、ラビのそばへ身を滑らせながら怪訝そうに言った。


 ラビは、図鑑で見た氷狼の絵と生態を思い浮かべた。確かに、氷狼の性質を考えれば妙な現象ではあるのかもしれない。彼らの血肉は暖気を奪う力は強くとも、彼ら自身は取り込んだ暖気を冷却する機能が弱いとは書かれていた。


「……まぁ、話なら聞いてやってもいいけどさ。はじめにも言ったけど、オレには図鑑に載っている程度の知識しかないから、アドバイス程度にしかならないよ」

「だから、現場を見てもらった方が早いという話になっていて……」


 セドリックが、非常に言いにくそうに、ぼそぼそと口にした。


「あ? どういう事だよ」

「……えっと、実は話を聞いて欲しいというより、本題としては、ラビにはこれから、僕たちと共にヴィルドン地方に来て欲しいんですよ」


 ヴィルドン地方は、ここから一番速い馬車を飛ばしても一晩はかかる距離にある広大な土地だ。その中でも辺境の町であるのなら、恐らく数日はヴィルトン地方内を馬車で進む可能性もある。


 ラビは、強烈な苛立ちを覚えた。せっかく当月中に仕事を終わらせようとしているにも関わらず、ここで数日、へたしたら一週間は超えるであろう予定なんて組まされたりしたら、薬草師としての仕事が来月まで引き延ばされてしまう。


 予想以上のラビの怒気に気付いたセドリックが、「ひッ」と息を呑んだ。しかし、ユリシスが彼の前に出て、冷やかな表情でラビと睨み合った。


「同行して下さいますね?」

「オレは絶対に行かない。だから、話も聞かない事にする」


 その様子を見守っていたノエルが、『まぁ、突然の出張とかはないよなぁ』とラビを憐れみ、ビアンカが小さな溜息をこぼした。


               3


 伯爵夫人に、ビアンカの件が解決したと手短に挨拶を済ませた後、ラビは、セドリックとユリシスに「オレは仕事が残ってるから帰るッ」と告げて別荘を出た。


 玄関にたむろする騎士達と鉢合わせしたが、驚くその三人を睨みつけて道を開けさせた。朝に収集した薬草の一つに関しては、加工作業が残っていたので、手っ取り早く済ませて、少し休もうと考えていたのだが――



 何故かセドリックとユリシスがついて来たうえ、断りもなく家に上がってきた。



 小さな家は、奥に寝室への続き扉を置いて、キッチンと食卓と作業台が一つのスペースに詰められたような間取りをしていた。足場の踏み所を狭めるように、辺りには本やノートが積み重ねられている。


 そんな中、小さな食卓に二人の男が窮屈そうに腰かける事になったのだ。元々三人家族で住んでいたので、どうにか椅子の数は足りたが、ラビとしては不服だった。


「このお茶、苦いですね」

「嫌なら帰れ」


 ユリシスが淹れたての茶を飲んで早々、感想を口にした。家に上がった当初、彼は整理整頓のなさを指摘し、人間が住む場所じゃないとまで言い放ったが、上司であるセドリックが腰を落ち着けているためか、出て行く気配は一向になかった。


 ラビは、苛々しながら作業台の上の支度を進めた。改めて室内の様子を見渡したセドリックが、「すごく狭くなりましたね」と驚いた様子で口にする。


 ここ数年で本や地図などの資料が増えていたから、ラビは彼を家に入れていなかった。何かと煩く言われるだろうと想像が付いていたし、一人と一匹で暮らしているのだから、大きな彼が入ると窮屈になってしまう。


「この大量の本は、一体なんです?」

「お客さんに譲ってもらった図鑑とか資料。欲しい薬の材料を頼まれるから、オレでも加工出来るものがあれば手伝ってるんだよ。父さんや母さんみたいに技術は持ってないけど、簡単なものだろうと、仕事だから失敗したものは渡せないだろ」

「相変わらず、そういったところはマメなんですね」


 ラビが加工台に向かって背を向けてしまうと、暇を持て余したユリシスが、早速近くに積み重なっていた古紙の束に目を向けた。


 つまんで広げてみて初めて、ユリシスは、そのほとんどが地図なのだと気付いた。かなり書き込みがされており、国内ばかりではなく、大陸全土の地図が収集されているようだった。集められた地図は黄ばんで古びており、何度も広げては畳まれた跡が残されている事にも気付いた。


 セドリックも、近くから一冊の地図を拾い上げ、地図を黒く塗り潰すバツ印を見て眉を顰めた。どれも人里を中心に書き加えられ、ついでといった具合で、生息している動物や害獣の名前が走り書きされている。


「ラビ、このバツ印はなんです?」

『仕分けてる地図を勝手に見てるけど、いいのか?』


 セドリックが華奢な背中に問い掛けた時、窮屈そうに床に寝そべっていたノエルも同時に確認の声を上げた。


 ノエルの言葉を聞いたラビは、眉間に皺を刻み、自由すぎる二人の男を振り返った。彼女は、ノエルの尻尾を踏まないよう避けて通ると、セドリックとユリシスの手から地図を奪い返した。


「勝手に見るな、触るな、眺めるなッ」

「だって暇なんですよ。副団長も、私も」

「くっそ、この自由人どもがッ。そっちの話は一旦聞くつもりだけど、もてなした覚えはないんだから、嫌ならとっとと帰ればいいじゃん」


 反論したユリシスを睨み返したラビは、その時、不意にセドリックに腕を掴まれて、片手に取り返した地図をあっさりと奪われた。


 ラビが驚いて振り返ると、そこには、冷静ながらも強い眼差しをしたセドリックがいた。


「ラビ、答えて下さい。この大量の地図や、バツ印はなんですか? あなたの仕事に地図が必要だなんて聞いた事がありません」


 いつになく真剣な眼差しに、ラビはたじろいだ。掴まれた腕の力強さから、話すまで解放しないという空気も感じて戸惑う。


「……印は、印だよ。聞いたって面白くないよ」


 そう弱々しく反論しつつも、ラビは促す彼の腕に逆らえず、余っていた椅子の一つに腰かけた。


 セドリックの力が弱まったので、手を振り払って、自分の分として用意していたお茶を口にした。すぐそばでノエルの尻尾が振れている様子に気付いて目を向けると、彼の長く大きな尻尾が左右にゆっくりと振れて、その柔らかそうな毛並みが動いた。

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