1章 ホノワ村のラビィ(8)

「ありがとう、ノエルッ。あ、まだ入ってきたら駄目だよ」

『入ってきたらただじゃおきませんわよ』


 間髪置かず、窓の下からビアンカが唸った。


 ノエルは途端に顔を顰めると、『わかってるってのッ』と舌打ちし、今度はどこへも行かず、窓の外にどかりと腰を降ろした。


 ラビは、ビアンカの尻尾の部分の毛をかき分けて、棘の刺さった箇所を改めて確認し、ピンセットで慎重に棘をつまんで引き抜いた。ビアンカは一瞬痛みに爪を出したが、すぐに安堵の息を吐いた。


『違和感がとれましたわ』

「それは良かった」

『ふんっ。木登りして刺さるとか、鈍感な小娘だな』


 状況を察したノエルが、窓の向こうから愚痴るような口調で呟いた。ビアンカが両耳を立て、見えないノエルに向かって強く反論した。


『外野のくせに煩いですわよ!』

『図星だろうが』

「上から目線は良くないよ。ノエルだって、散歩の時に棘が刺さっ――」


 その時、ビアンカがラビの膝の上に飛び乗り『ラビィ静かにッ』と素早く囁いた。



『ラビィ、人間が来ましたわ』



 ラビは、遅れて二組の足音に気付いた。横目でそれが誰であるか確認が撮れた瞬間、なんで来るのかな、と憂鬱になって憮然と唇を引き結んだ。


 ビアンカを抱き上げ、立ち上がりざまに振り返りながら、ラビは嫌悪感を露わに言い放った。


「お前ら、暇なのか?」

「母上から話を聞いたので、様子を見に来たんですよ」


 やって来たのは、セドリックとユリシスだった。セドリックは困ったような微笑を浮かべたが、ふと心配するようにラビを見つめ、それから辺りに少し目をやった。


「ラビ。さっき誰かと話していませんでしたか?」

「気のせいだろ。ビアンカの尻尾に小さな棘が刺さっていたんだ。抜いたから、もう平気だよ」


 ラビは窓枠に手を置くと、持っていたピンセットをさりげなく窓の外に落とした。それをノエルがさっと拾い上げ、二階のテラスまで跳躍した。


 小さな風が巻き起こり、ラビと、ビアンカの柔らかい髪と毛並みを揺らめかせた。その様子を見つめていたユリシスが、訝しげに眉を寄せた。


「何か捨てませんでしたか」

「ビアンカに刺さっていた棘を捨てただけ」


 ラビは横目で答えつつ、ビアンカの頭を撫でた。


 ビアンカが満足げに喉を鳴らし、『好きよ、ラビィ』と濡れた鼻先でラビの鼻頭に触れた。ラビは答えられないかわりに、顔を伏せたまま小さく微笑んだ。何故か、遠い昔に置いて来た寂しさを覚えた。


 その時、ラビは名前を呼ばれて顔を上げた。


「ラビ、――少しスコーンを食べていきませんか? 母上が沢山用意してくれているんですよ」


 好きだったでしょう、とセドリックが優しく訊いて来る。


 ラビは鼻白むと、「何の話だよ」と眉を顰めた。


「僕が戻った時、いつも食べているじゃないですか」

「お前が戻って来るタイミングで焼いてくれているから、ついでに食べてるのッ」


 ユリシスに誤解されたくなくて、ラビはふざけんなとばかりに強く言い返した。


 伯爵夫人が用意するスコーンは、ジャムもいらないほど甘く作られている。子ども達が大きくなってもそれが変わらないのは、夫である伯爵が甘糖なせいだ。


 四年前、長男が一時帰宅した際にも、大量のスコーンが用意されていたが、彼はそこまで菓子が食べられる男ではなかったので、ほとんど父親が意気揚々と食していた。タイミング良く居合わせたラビも、勿論喜んで食べた。


 伯爵夫人は、ラビを自分の娘のように可愛がってくれていた。一度好意に甘んじてしまったら、気を利かせて、今度はラビのために毎日でもスコーンを作ってしまいそうな予感もある。


 スコーンは大好きだし、甘いお菓子も、伯爵夫人の『お母さん』みたいな温かさも大好きだが……これ以上の迷惑はかけたくない。薬草師や獣師として仕事をもらい生活していけるか、彼女はラビをいつも心配しているのだ。


 ラビはぐっと我慢して、ビアンカを抱えたまま彼らの脇を通り過ぎた。セドリックとユリシスも、当然のような顔でついて来た。


「ラビ、こっちを見て下さい。怒っているのなら謝りますから」

「怒ってないし、謝られるような事もされていない。つか、前もってハッキリ断っておくけど、慈善協力の要請については断固拒否する」

「ちゃんと報酬は出ますよ。でも、まぁ、僕もあまり乗り気ではな――」


 すると、ユリシスが、セドリックの言葉を遮るように「副団長」と言って眼鏡を押し上げた。それでは何のために迎えの馬車を立ち寄らせたのか分かりませんよ、と彼は嫌味ったらしく言葉を続ける。


 迎えの馬車ってなんだ? というか、そこまで急いでる問題なのか?


 つまり母親孝行ではなく、仕事で立ち寄っているのだと察したラビは、思わず足を止めて、肩越しにセドリックを見上げてしまった。


「お前、今までオレに頼み事なんて、してこなかったのにな」


 これまでラビは、セドリックやルーファスから、薬草師や獣師としての力を求められた事はなかった。王都の獣師のように、専門機関からの推薦や肩書きがあるわけでもないので、王宮騎士団から依頼を受られるような立場でもないのだ。


 すると、ユリシスが片眉を上げ、「こちらにも事情があるのです」と前置きして続けた。


「害獣を扱い、辺境の地まで出向いてくれるような都合のいい獣師がすぐに掴まらないのが現状です。相手は中級クラスの害獣ですし、そもそも第三騎士団の予算の都合もあります」

「うわぁ、マジか。というか色々と最低だ」


 つまり、ちょうど都合のいい人材がいたという理由だけで、白矢が立ったという事だろうか?

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