部屋と白色矮星と私

さわだ

部屋と白色矮星と私

東京都内の山手線の外側にある古くからの住宅街には高い建物が少ない、道が入り組んだ場所には、新旧の小さな一軒家と古くて建て替えの済んでない低層のマンションとが継ぎ接ぎされた町並みが続く。

その一角に緩やかな坂道になっている道路に面した古いマンションの入り口のガラス扉は開けっぱなしになっていた。

オートロックも無い、開けっぱなしのエントランスの前で不用心じゃないのかなと女子高生の鈴凪美雨(すずなぎみう)は自分の家のオートロックのマンションと比べて誰でも玄関の前に立てる古いマンションを前にしてふとそんな事を考えた。

ちょうどマンションの中から配達を終えた宅配便の男が出て来て、美雨の姿を見て一瞬怯んだ。

紺色のコートの下に短いスカートの制服は都内に通う女子高生の姿だが、白っぽい彩度を抑えたピンク色に染めた長いウェーブの掛かった髪が眼についた。落ち着いた住宅街に反して目立つ髪の色に少し驚きながら、あえて二度見はしないと心に決めたのか配達員は帽子の鍔を持って下を向きながらマンションを出ていった。

もしも配達員がちゃんと美雨を見ていたら、学校帰りの姿でなぜ背中のリュックとは別に脇に大きな青色のクッションを持っていたのか不思議に思っただろう。

ため息というよりは落ち着けと自分に言い聞かせるように、美雨は大きく息を吐いてクッションを脇に抱えながらマンションに入っていった。

古い低層のマンションにはエレベーターなんてものはなく、三階建の汚れた建物の暗いコンクリートの階段を登っていく。廊下を歩き階段から一番遠い端の部屋の前に付くと、美雨は茶色の鉄製の扉を前に立ってスマートフォンを取り出した。

メッセージアプリの画面に「着いた」と打ち込むと、すぐに既読のマークが付いた。

程なく鍵が開く音が聞こえて扉がゆっくりと開いた。

薄暗い玄関口から出て来たのは白いセーターを着た髪が背中に掛かるぐらい長い男だった。

少し大きめのセーターから見える手首の細さ、浮き上がった鎖骨、長い髪で表情が隠れると女性にも見える姿、玄関の灯りを付けてないのでどこかテレビ画面から出てくる例の幽霊のようだった。

「また来たのか……」

小さい声で面倒そうに男は美雨に声を掛けた。

特に返事するわけでもなく、美雨は部屋に入ろうとする。

男も拒むわけではなくそのまま美雨を部屋に上げた。

ワンルームの小さなマンションは廊下にキッチンとトイレや風呂の水回りがあって、奥の扉を進むとすぐに部屋がある。

「お邪魔します」

男しか居ないが声に出して挨拶して入ったフローリングの部屋にはリビング用の長いローテーブル以外何も無かった。

テレビやベットや棚というものが全く無い、都内のワンルームの小さな部屋のはずが、とても広い空間に見えるのは対象物が無いからだろうか。

「拓巳は今日なにしてたの?」

美雨は歳の離れた男性を呼び捨てにした。

「見りゃ分かるだろ?」

ピンク色の長い髪の女の子に黒い長髪の男、岩明拓巳(いわあきたくみ)は特に思うところ無く普通に応えた。

独房のようになにもない部屋を見ても何をしてるのか美雨には分からなかった。

部屋にあるローテーブルの上に大きなノートパソコンが閉じてあった。

「仕事?」

「読書」

何も無い部屋には本なんて一冊も置いてなかったが、机の上にはパソコン以外にキャンパスノートぐらいの大きさの文字が並んだ電子書籍端末があった。

この部屋には何も無いけど、拓巳は新しい見たこと無いパソコンとか携帯端末がよく置いてある。

「美雨、脱げ」

後ろから声を掛けられて美雨は身体を強張らせて手に持っていたクッションを強く握った。

「うん」

ローテーブルの前にクッションを置いて、リュックを床に置いてコートを脱いだ。

「ほらコレに掛けておけ」

拓巳からハンガーを渡されて着ていたコートと制服のブレザーを掛ける。

「クローゼットの中に入れておけ」

美雨は頷いて部屋に唯一ある収納用のクローゼットの中に持って来たコートを掛ける。

部屋に何も無いのにクローゼットの中も殆ど空っぽだった。

小さな下着や季節ものの箪笥と二・三着のコートとスーツが掛けてあって、小さく折りたためられたマットレスが立て掛けてあった。

一人暮らしの部屋なんだから置きっぱなしにしておけば良いのに、仕舞ってあるのは客が来たからなのか拓巳の拘りなのか分からないが、とにかく生活感がこの部屋には無い。

殺風景な部屋は見た目には寒いが、エアコンが静かに動いているので部屋の中は暖かい。

自分のコートとブレザーをクローゼットに掛けて扉を閉めた。モノを見せないのがこの部屋の流儀らしいのでいつも美雨はクローゼットを閉じている。

美雨は上着を脱いで学生らしい白いシャツの上に茶色の学校指定のカーディガンを少し肩を出すように羽織っている。コートを着てるときはあまり目立たなかったが、薄着になると胸の膨らみが強調されてる。

先に拓巳はローテーブルの横に座っていて胡座をかいているが、特に目の前の可愛らしくグラマラスな美雨に対してはなんとも思っていないようだった。

服を掛けたら美雨も自分が持って来たクッションの上に足を崩して座った。

美雨は座るとリュックに入れていたノートや筆記用具、あと飲み物が入った小さな水筒を取り出した。

拓巳の部屋には何も無いのを知っているので、全てリュックに入れて勉強の準備をして来た。

「今日も数学か?」

「うん」

横に長いローテーブルをお互い端と端を取って拓巳と美雨は交互に対面で座る。

「なんで美雨は高校も理系取ったの? 中学の時もあんだけ苦労したのに」

「なんとなく……」

ピンク色の髪を弄りながら美雨は下を向いた。

昔から拓巳は美雨の勉強を見ていたので、美雨が数学が苦手たということを知っていた。

「まあ数学が出来るのは良いことだけどな」

そういって拓巳はパソコンを開いてキーを叩いた。

「この動画見たか?」

拓巳が画面に映したのは教育系YouTuberのチャンネルで、板書を背景に数学の解説をしている動画だった。

「この前リンク送ってくれたヤツ?」

「そうだ」

「見たけどよく分かんなかった」

「ほんとに見たのか?」

「見たよ」

「俺の説明より分かりやすかっただろ?」

「拓巳に教えて貰った方が良い」

「こっちの動画の方が何千、何万人も大学受験で合格してるんだから、こっちの方が良いだろ?」

「なんか動画って集中できない……他の動画見ちゃう」

「他のって?」

言われて美雨は机の上に置いた自分のスマートフォンを見せる。

「これとか」

動画にはマインクラフトの画面が映っていた。

「ゲーム実況動画か……」

「凄いよねよくコレだけ時間掛けて大きな建物作れるよね」

「ああ、その建物作る時間もそれを見てる美雨の時間も全部無駄だな」

「酷いこと言う」

美雨は頬を膨らませたりはしないが不満を言った。

「百歩譲ってその動画上げたヤツは達成感とか広告収入を得てるかも知れないが、それを見て勉強してない美雨は何も得する事ないだろ?」

「私は動画見てる時楽しかったよ?」

美雨は不思議そうな顔をする。

「それで数学の課題進んでないんだろ?」

美雨は数学の問題集と真っ白なノートを見て俯いた。

「まあ美雨がそれで良いんだった良いけどな」

「ごめんなさい……」

肩を竦めて頭を下げる美雨を見ても拓巳は高圧的な態度は崩さない。

「しおらしくしてもダメだ。勉強なんかとにかく手を動かすしかないんだから解らなかったら教えるから」

「わかった」

先程まで落ち込んだ態度はウソだったのか、淡々と美雨は参考書を広げて勉強を始める。

拓巳は美雨のこういう淡々としたところが長く小さい頃から何となく繋がってられる理由だと思っていた。

「あっお父さんが今度はいつ家に顔出してくれるんだって言ってた」

「先生が?」

「うん」

「別に連絡貰ってないけどな……」

「連絡しても出ないから連絡してないって」

「優秀な学者先生は無駄な事をしないな」

長い髪を掻きむしりながら拓巳は顔を背けた。

美雨の父親は拓巳の大学生の時の教授で目を掛けてくれた先生だった。

良く拓巳は鈴凪家にお邪魔して、美雨の父親と話し込んだりしていて、その後美雨の宿題を見たり家庭教師の代わりをするなどの昔からの知り合いだった。

「今、何してるんだって気にはしてた」

「まだ無職ですって言っておいてくれ」

「もう仕事しないの拓巳は?」

美雨の父親に大学に残ればと進められていたが拓巳は就職を選んだ。

「今は働く気が全く無い、何もやりたくないんだよ俺は」

「大人なのに働かなくて良いの?」

「ああちゃんと国民の義務で納税と選挙の義務は果たしているんだから立派な大人だろ?」

「もう一個の義務って働く事だよね?」

「そういうの憶えてるの好きなら、なんで理系選んだの?」

美雨は首を傾げて拓巳の方を見た。

「何となく」

「まあ良いからとりあえず先ず出来る限りでやってみろ」

美雨に背中を向けて拓巳は横になった。

何も無い部屋ではすぐに横になれて良いが、カーペットも何も敷いてないので痛くないのだろうか?

お客用のクッションも無く、美雨はいつもこの部屋に来る度に自前のクッションを持って来ていた。

「お父さん、暇だったらまた大学来ないかって言ってたよ」

「俺はもう勉強したくない」

「大学って勉強教えるところじゃないの?」

「大学は一年生も教授もみんながずっと勉強するところだよ」

カーテンを開けた窓、冬の夕日が差し込むのを見ながら拓巳はだらしなく床に寝そべってる。

「こんなに勉強してるのに、また大学入って勉強するの?」

「そうだよ、その為の最高学府だ」

「やだなあこれからもずっと勉強するなんて……」

溜息ついて美雨は参考書を興味なさそうに捲る。

「ねえ「だったら止めれば良いだろ」っていつも拓巳だったら言うと思うんだけど?」

皮肉を言わないのかと美雨は拓巳の方を見たが、だらしなく横になっていた。

「今の無職の俺は美雨に何か偉そうにアレやれコレやれなんか言えねえよ」

「言って良いよ?」

「言わない」

日に当たって影を作ってる拓巳は美雨には拗ねているようにも見えた。

「太陽まぶしく無いの?」

「ああ?」

「カーテン引いた方がいいよ?」

三階でちょうど隣に高い建物がなく雲ひとつ無い冬の白い青空が映っていた。

「今は殆ど家出ないから、なるべく日に当たるときは当たっておいた方が良い」

「だったら外に出掛ければいいじゃん」

「今日は朝と昼食べるのに外出た」

拓巳の家のキッチンがキレイなのは何もしてないからだ、ご飯を殆ど外食で済ませている。

「相変わらず外食ばっかりなんだ」

「料理作るのはゴミが出るからやなんだ」

「外に出る方が面倒じゃないの?」

「ゴミを片付けるの考えると外出た方が良い、それに最近あんまり飯を食う気力も湧かない」

拓巳のテーブルのように硬く平らな背中を見ながら美雨は昔の拓巳の姿を思い出す。

昔の拓巳は不摂生で歳を取るごとに丸くなっていったし、顔には吹き出物が多かった。いつも同じような服を着て、髪の毛も適当に切っていたし、身嗜みに気を使うところを見た事が無かった。

「身体の具合とか悪いの?」

「別に痛いところはどこも無いし、よく寝てるし今までで身体は一番軽い」

拓巳は身体を起こして窓の前で胡座を組んだ。

「軽いから身体は動かしやすいが、今の俺は何もしたくない」

「私には勉強しろって言うのに?」

「高校生が勉強するのは当たり前だ」

「でも、そうやって勉強ばっかりしてもいつか拓巳みたいに燃え尽きちゃうんだったら必要なくない?」

「燃え尽きるまでやってからそういう事は言え」

反論するなとおっさん見たいな事を言っているなあと拓巳は思ったが、よくよく考えると倍近い歳が美雨とは離れてるのだからおっさんと子供だった。だから説教臭い事を言っても許されるのか?っと考えてしまい拓巳の表情は不安そうに眉間に皺がよる。

「大学とか行ってもすぐ就職活動とかでしょ? なんだかすぐに疲れて燃え尽きそう」

ピンク色に髪を染めてる女の子が自分の将来を普通のレールに乗ってる事を想定して悲観してるのが拓巳にはなんだか可笑しかったが、確かにじゃあその進学とかレールを外れて他の事をめざすというのも覚悟や準備が居るだろうと思った。

「まあ燃え尽きた後に残るのは色々あるしな」

拓巳は窓から眩しく輝く太陽を見上げた。

「俺はもう核融合を終えた白色矮星みたいなもんだからな」

「はくしょくなに?」

「恒星が燃え尽きた後になる姿だよ」

「恒星って?」

「太陽と同じ自分で光る星だよ」

イチイチ全部説明するのも面倒だが、ついつい拓巳は説明してしまうし美雨も分からない事はすぐに聞いてしまう。

拓巳は振り向いてノートパソコンを操作して、ウィキペディアの画面を出した。

「これだ」

色々と文字が描かれているが、画面の右上に一枚の青く眩く輝く星の写真がある。

「この写真がはくしょくなんとかなの?」

「ちがう、その下にある小さな矢印の方が白色矮星」

画面に映る大きく十字の光を放って輝く星の写真の下方に小さな白い点が矢印の先にあった。

同じ距離にある惑星なのに片方は太陽の様に大きく、燃えて大きな光を放ってるのに比べて、矢印の小さな点のような星は暗くて今にも消えそうな星だった。

「この銀河系にある殆どの恒星が水素とか核融合の燃料を燃やし尽くすと、核が現れて小さな青白い光を放つ白色矮星っていう残りカスになるんだ」

「ふーん」

説明されても太陽の構造も、大宇宙の神秘にも全く興味の無い美雨には全てがピンと来ない話しだった。

「この真ん中で輝く星は地球よりも百倍くらい大きい太陽くらいのサイズだけど、白色矮星自体は地球ぐらい小さくて、電子の縮退圧で自重を支える鈍く輝く星の事だ、その内太陽も燃え尽きてこれくらい小さくなるんだ」

「えっ太陽もこんな風になっちゃうの?」

「そうだよ知らなかったのか?」

意地悪そうに拓巳はニヤついた。

「えっじゃあ昼とか暗くなっちゃうの?」

「暗くなる前、小さくなる前に残りの燃料とバランスが悪くなって太陽は巨大化、赤色巨星になって地球を呑み込んで吹き飛ばしちゃうのさ、今の環境問題なんて勝負にならないくらいの環境破壊だ」

「えっじゃあみんな死んじゃうって事?」

「そうだ五十億年とか七十億年とか先には地球ごとなにもかも無くなるんだ」

拓巳のバカにした顔を見て美雨は腹が立った。

「そんなの私達が生きてる間は絶対関係ないじゃん」

「そうだよ関係はない。けどいつかは起こる事実だ」

難しい事を言われて騙されてるというか、意味の無い会話なのだろうが美雨にはそういう拓巳の知識をひけらかす話し方が嫌いでは無かった。

「なんで拓巳は自分の事を太陽みたいだったって偉そうに言えるの?」

「確かに例えが大きすぎたか……」

「そうだよそんな太陽みたいにいつも皆の中心で皆から凄いねえって言われてたわけじゃないじゃん」

美雨の辛辣な指摘に拓巳は肩を落とした。

「恒星は太陽だけじゃないし、天の川銀河には何千億個も太陽と同じ星があるからさそんなに特別じゃないだろ?」

「私達の頭の上の太陽は一つでしょ?」

自分の破綻した例えを必死で説明しようとするが、美雨には届かなかった。

「でも拓巳が太陽みたいに昔はなんか自分で燃えていたのは少し分かるような気がする」

「俺が?」

「昔は太っていて夏は暑苦しそうだった」

「体積は確かに今よりあったな」

拓巳は大学に入ってから太り始め、就職するとストレスで過食症気味になって太っていた。

今のセーターの首元から鎖骨が浮いている姿は想像できないくらい太っていた。

「部屋もこんな広くなくて何かする度にモノばっかり増えて、足の踏み場もなかった」

何も無い部屋になる前の拓巳の住んでいたマンションには部屋中に買ったおもちゃやら本やDVDにブルーレイなどの映像ディスク、キャンプやスキーなどのアウトドア道具や服やスニカーなど部屋中に足の踏み場もなかった。

それが去年、会社も辞めて貯めていたモノ全て捨て去って最小限のミニマリストみたいな生活を突然始めた。

「そうだったなあ」

「もう欲しいものもやりたいことも無いの?」

「俺のやりたいこと?」

拓巳と美雨は顔を合わせる。

日は高くなって拓巳の背中に降り注ぎ、美雨には逆光でよく拓巳の表情が見えなかった。

美雨は足を崩して少しだけ身体を背ける。

「やりたいこと……」

拓巳は自分の長い髪を掻き上げる。

「どーも! お邪魔します!」

突然部屋のドアを開けて黒いレザージャケットを着たスーツ姿の女性が入って来た。

「先輩今日もここで遅いお昼食べさしてください!あっもう下手したら夕食近いですけど私今日外回りで全然時間無くてこれからお昼でして……」

長めのウルフカットで襟首周りには薄く青くカラーが入ってる、パンツスーツなのだが落ち着いて見えない

額を少しだけ出して眼鏡を掛けているので大人びてはいるのだが、顔の表情は子供のように無邪気に笑っていた。

「ありゃもしかして良い雰囲気のところでした?」

近い距離で見詰め合ってる拓巳と美雨を見下ろしながら、女はハッキリとした声で二人の関係に割り込んできた。

「美雨ちゃんごめんね邪魔しちゃった?」

「別に何もないです」

美雨は首を振る。

「おっちょっと語尾に意思籠もってる気がするけどごめんごめん、私お昼食べて先輩冷やかしたらすぐに帰るから、ちょっとだけ机貸してね」

そう言って女は着ていたコートを床に放ってすぐに床に座り込むと、下げたビニール袋からコンビニ弁当を取り出した。

「はー部屋の中暖かい、良かった先輩の家が取引先と会社のちょうど真ん中で」

「おい白井」

「ねえ美雨ちゃんなにやってたの?」

「勉強」

「そうかいかがわしい事じゃ無いんだ、まあこんな独房みたいな殺風景な部屋じゃそういう気持ちにもならないか!」

白井は買って来たペットボトル入りのお茶を開けてそのまま一気に一口、二口と呑み込んだ。

「白井!」

「なんすか先輩?」

部屋に入ってきたのは拓巳の勤めていた会社の後輩の白井伊織(しらいいおり)だった。

「お前どうやって部屋入って来たんだ?」

「えっドアからに決まってるじゃないですか?」

「なんで連絡もなしに堂々と許可無く俺の部屋に上がってるんだよ?」

「呼び鈴鳴らすと五月蠅いっていつも怒られるから、ドアノブに手を掛けたら鍵開いてたんで、つまり入ってくれっていう先輩らしいハッキリ言わないけど寂しいから僕の部屋に入って来てよっていう乙女チックな独身男性らしい仕草なのかなあと思ったんですけど違うんですか?」

「鍵が開いてるかどうかドアノブに手を掛ける前にインターホン鳴らすだろ普通」

「えーでも呼び鈴ならすと居留守使われるかも知れないじゃ無いですか?」

「なんで窃盗犯みたいな手口使ってるんだよ」

「窃盗犯ってそんないきなピッキングとか鍵開けるんですか?」

「知らねえよ」

「知らないのに例えに使うんですか?」

「細かい手順は知らないし違うだろうけどお前のやったことは窃盗犯と違いは無い」

この大人達はどうして私の間で大声で喋ってるのだろうかと美雨は疑問に思った。

「こんな可愛い女の子部屋に連れ込んでるのに鍵かけ忘れるとかどんだけ抜けてるんですか先輩は、普通だったらすぐ逃げられますよ?」

「白井お前ちょっと黙ってろ」

「そうですよ私お昼食べに来たんですから、ちょっとゆっくりさせてくださいよ。ここはお茶の一つも出さない寂しいところだと知ってますけどね。イートインスペースぐらいにはなりますよね?」

「お前は窃盗犯と言うより山賊とかなの?」

拓巳は頭を抱えた。

その時ふと美雨は思い出したように自分で持って来た水筒に手を掛けた。この部屋には来客用のコップなど拓巳以外が使う食器は一個も無かった。

「もう勝手にしろ」

立ち上がって拓巳も廊下にある台所の方に向かって飲み物を取りに行った。

「あざーっす!」

そういって割り箸を掴んで白井は弁当を食べようとした。

「美雨ちゃんさっきは茶化してごめん。これお菓子買ってきたから食べよう」

お菓子で懐柔しようとチョコレート菓子の箱を開けて美雨の目の前に差し出す。

「別にそんなんじゃ無いから良いです」

開けて貰ったお菓子の箱からお菓子を摘まんで口に入れる。

美雨は甘いものが欲しかったのだが、こぼすと拓巳に怒られるので自分ではお菓子を食べるのを我慢していた。

「やだ、食べ方ハム太郎みたいで可愛い」

箸を置いて白井は美雨に抱きつく。

「抱きつくの止めてください」

「あっごめん可愛くてつい、相変わらずめちゃくちゃ柔らかいね」

「白井さんが硬いんです」

「あたし脂肪が無いからね」

白井は自分の胸の前で真っ直ぐ手刀を降ろす仕草をする。

そのあと美雨の薄くピンクに染めた髪の毛に触る。

「良い色だね、どこでやったの?」

「昔から行ってる美容院で」

「そうだよね自分でやったらこんなにキレイに抜けないよね……」

触りながら白井はニコニコと笑った。

「それにしても美雨ちゃんもよくこん枯れたなオッサンの部屋に来て勉強できるね」

「他に行く場所も無いので」

「まあこれだけ目立つ髪色にしていたらね、どこでも目立っちゃうもんね」

白井は鼻を鳴らしてから美雨の髪から手を離して再び買って来た焼肉弁当を口にする。

「うん、肉は旨い」

弁当の肉を噛みしめながら、白井は箸を持っていない左手で拳を作った。

「お前どうしてそんなに他人の家でくつろげるの?」

紙コップにペットボトルのアイスコーヒーを注いで来た拓巳が距離を取って着座する。

「こんな何も無い倉庫みたいな部屋で緊張しますか? 空っぽだからなんか入りやすいですよね公園みたいで」

「ここは俺の私有地だ」

「賃貸でしょ?」

白井はペットボトルのお茶に口を付けた。

「ああ先輩、来月また辞めた人とかも集めて激辛火鍋会やるんで来てくださいよ」

「行かねえよ」

「またまた子供っぽいこと言って、社長も来るんで先輩居ないとまた社長の「岩明が居ねーぞ、どこ行った?」ってまた愚痴ばっかりでみんな楽しくないんですよ」

「知らねえよ」

「ウチの社長まだ先輩の事が未練たらたらなんで、嫌でも顔出しておかないとその内この部屋に上がり込んできますよ?」

「他人の家に断りも無く上がって来んな! どういう教育してるんだお前の会社は!」

「その会社の創業メンバーがそういう事言います?」

「俺はたまたま社長に巻き込まれただけだ……」

「そうかも知れないですけど今はグループ千人以上人がいる会社の中心メンバーだったんすから、そこは大人になった方がこれからも考えると色々と良いのでは?」

白井のフランクな言い方ながら、完全に上から目線で指摘されて拓巳は何も言えなかった。

「社長はいつでも戻って来いって言ってるんですから、グダグダ言ってないで早く社会復帰したらどうなんですか?」

「俺はもうお前らの会社には行かない。飲み会だってなんだってもう関わらない勝手にしろ」

拓巳はコーヒーを飲み干してから紙コップを握りつぶす。

「先輩」

「なんだよ!」

ゆっくりと白井は膝を動かして拓巳に近づいた。

「本当に来てくれないんですか?」

急にしおらしく足を引きずるようにして拓巳に肩を寄せた。

「行かない」

「どうしても?」

「絶対に行かん」

白井が手を美雨の方に振った。

美雨は溜息をついて水筒を片づけて、ローテーブルを少し壁側に寄せた。

「先輩お願いです、可愛い後輩の顔を立てると思って飲み会来てください……」

「やだ」

拓巳は腕を組んで顔を背ける。

「どうしても?」

「どうしてもだ」

言い切った後拓巳は自分が愚かにもまた白井を近づけさせてしまった自分の浅はかさを呪った。

「しまっ」

とっさに拓巳は白井から離れようとして立ち上がろうとするが肩を押さえられてそのまま顔を床にくっつけた。

伏せた体勢になるとそのまま床に押さえ付けながら拓巳の左足を持ち上げて、膝裏を自分の首裏に引っかけながら右腕で拓巳の左足首を固めて腕をそのまま強引に拓巳の左手首を掴んで拓巳の身体を使って大きな輪を作った。

「痛え、お前止めろ」

逆さまになりながら拓巳は白井に抗議した。

「もう先輩が強情を張らなければここまでエグイ技選ばなかったのに」

そのまま力任せに今度は拓巳の右足の太股を白井は自分の左腕で抱えてそのまま左手で拓巳の右手を掴んで力を入れると、顔を床に押し付けられながら拓巳の身体が腰から反り返りながら浮かび上がった。

「グアァ……」

「美雨ちゃんこれが新日ジュニアのエル・デスペラード選手のフィニッシュホールド「ヌメロ・ドス」だよ」

男女が絡まりあった姿を見て美雨は身体を引いた。

完全に決まった「ジャベ」と呼ばれる複合間接技が拓巳を絞り上げていく。

「先輩、飲み会来てくれますね?」

「や……だ……」

「何て?」

更に白井が腰の力を使って拓巳を絞ると完全に顔が反り返って声も出ない。さらに手首を持たれてるのでタップもできない。

「懐かしいですね先輩にプロレス技掛けるの」

白井は学生時代女子プロレスをやっていて、その体力を買われて入社した武闘派だった。

「それじゃあお店の場所メッセしておくので後で確認しておいてくださいね」

何にも声が聞こえなくなったので白井は技をといて髪を整えた。

「もう拗ねる子供は可愛くないですよ」

伸びている拓巳を置いておいて何事もなかったかのように白井はテーブルの横に座って残ったペットボトルのお茶を飲み干した。

「死んじゃった?」

美雨が拓巳を指差す。

「骨が折れる音とか聞こえなかったから大丈夫でしょ」

白井は笑顔で応えた。

美雨はゆっくりと拓巳に近づいて背中を擦った。

「美雨ちゃん、本当にこんなダメなおっさんに優しくしてもしょうがないよ?」

「拓巳大丈夫?」

「腰が信じられない角度で曲がった気がする……」

俯いたままの拓巳から小さい声が聞こえた。

「ねえ拓巳」

「なんだよ」

「課題の解き方教えて」

美雨は俯せのまま倒れてる拓巳の枕元に課題の参考書を持って来た。

「ちょっと回復するまで待ってろ」

「待ってる」

嬉しそうに美雨は拓巳の横で参考書を持って待っていた。

「二人は仲良いね」

技を掛けて満足したのか、持ち帰えろうとビニール袋にゴミを全部入れて、白井は帰る準備をする。

「白井さん、拓巳はダメな人なの?」

「ダメでしょ。一人でこんな檻みたいな部屋に引き籠もってるなんて、昔はこんなんじゃなくて前で人を引っ張ってくれる人だったのにさ」

白井は腹を立ててるのか、悔しそうに伸びている拓巳を見下ろした。

「こんな狭い部屋でイジイジしててもしょうがないのに、何がしたいんだか私には分からないわ」

白井は下唇を上げて変な顔をしながら両手を挙げてお手上げポーズをした。

「白色矮星」

「はぁ?」

「拓巳は白色矮星なんだって」

美雨は伸びてる拓巳の横に座っていた。

「何それ、なんか卑猥な言葉?」

「違うよ、大きな燃え殻なんだって」

白井には言葉の意味は良く分からなかったが、完全に伸びてる拓巳を見てカスには違いないと思った。

「まあよく分かんないけどさ、私とか美雨ちゃんみたいな綺麗で可愛い女の子と喋れるんだから考えようによっては幸せなのかもね」

「そうだね」

痛いと呻きながらフローリングに這いつくばっている拓巳を見下ろしながら、白井と美雨は笑った。

程なくご飯を食べ終わって少しだけ美雨と話した後、嵐が去ったようにゴミを持って拓巳の部屋に何も残さずに白井は帰っていった。

燃え尽きた拓巳を放っておきながら美雨は課題を始めてみると意外に進みが良かったので、そのままま勉強を続けた。




気が付くと美雨が帰る時間になったので、ドアを開けて外に出ようとするとすっかり日が落ちていた。

「お邪魔しました」

「忘れ物無いか?」

「うん大丈夫、勉強おしえてくれてありがとう」

帰りも美雨は脇に座りっぱなしだったので少しくたびれてる感じがするクッションを抱えている。

「俺も湿布買って来てくれてありがとう」

すっかり外は暗くなってドアの前で美雨と拓巳は挨拶をする。

「白井さんの技凄かったね」

「あのゴリラ女……プロレスするために部屋を広くしたんじゃないのに……」

下手に部屋が体育館とは言わないが広いスペースがあると人間運動がしやすいのは理解した。

「また勉強教えてくれる?」

「別に美雨が良いならいいけど、塾とか友達とやった方がいいんじゃないのか?」

「ううんこの何も無い部屋でやるのが良い、今日も楽しかった」

「見世物じゃねえんだけどな……」

扉の前で二人はなんでもない立ち話をする。

「ねえ白色矮星って大きさは小さいけどその分高密度で角砂糖一個分の大きさで象と同じくらいの重さになるんだって」

「まあ電子の縮耐圧で形を維持してる高密度の惑星だからな、中性子星のほうがもっと高密度だけど……なんの話しだ?」

「白色矮星って小さい星だけど重力が強いんだって、小さくて何にもないように見えて引きつける力があるんだって」

「よく知ってるな」

「そう書いてあった」

美雨はポケットに入れてたスマートフォンを取り出して拓巳に見せる。

「だから拓巳にしては良い例えだったと思うよ白色矮星」

「ううん? そうか?」

拓巳にはなんだかよく分からないが美雨は少し嬉しそうだった。

「じゃあね」

「美雨」

手を振って脇にクッションを抱えて帰ろうとする美雨を引き留めた。

「そのクッションだけだったら置いていって良いぞ」

美雨は身体の上半身だけ捻って拓巳に顔を向けた。

「私がお尻に敷くクッションを拓巳の部屋に置きっぱなしってなんかキモい」

「別に変な事に使わねえよ!」

「変な事って?」

「ああもう早く帰れ」

ドアを乱暴に閉めた後、鍵が締まる音が聞こえた。

美雨は振り向かずに抱えて居たクッションを持ち上げて、ニヤけた顔が元にもどるまで顔を埋めた。


END

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