第5話 仮想任務

 静寂の中の小さな物音で目を覚ました。隣の部屋の彼が、部屋を出たのだ。


 早朝、起き抜けのアラタは軽く身支度をしてドアを開ける。静まり返った廊下を抜け、玄関を出る。


「ヘクターさん」


 彼は玄関の傍で足の筋を伸ばしているところだった。その背中に声をかけた。


「ああ、おはよう。こんな朝早くにどうした?」

「走りに行くんですよね。僕も一緒にいいですか?」


 ヘクターは意外そうな顔をしたが、迎え入れるように微笑んだ。


「いいよ。一緒に走ろう」


 許可を得たアラタはヘクターを真似して体をほぐし、そしてほの暗く静寂に包まれた町へと、彼と共に走り出した。


 それはヘクターの日課だ。彼はリバースの中でも屈指の魔想使いでありながら、他の誰よりも肉体の鍛錬を欠かさない男だった。毎日のランニングは朝、晩の二回にわたって行い、体術の訓練にも余念がない。アズミへの指導をこなしながら、暇さえあれば筋トレを実施する。

 魔想の強さと肉体の強さに直接の因果関係はない。だから体を鍛えようと魔想が強くなるわけでもないが、そのストイックさは見習うべきものだと感じた。


 緩やかに足を動かしながらヘクターは口を開く。


「自分が体を鍛えるのは兵士時代からの習慣のようなものなんだ」

「ヘクターさんって、元兵士だったんですか?」

「ああ。君と同じだ。君も訓練兵の時は入念な筋力トレーニングをさせられたと思うが――」


 言われて、アラタの脳裏に苦い記憶が甦る。あの訓練の内容といえば、はっきり言って地獄の所業だった。


「――あれは本来、人外の敵に対抗するためのものだ。戦争が始まる前、カドラムという国の名前すら伝説上のものと思っていた頃、自分たちの敵は強大な魔物や狂獣だった。あの強靭な生物に刃を通すには、いくら筋力があっても足りなかったんだ」


 あの過剰に思えた筋トレも必要だったということか。戦争が始まって主な仮想敵が変わったのは、まだ一年と半年前の出来事だ。

 時間にすれば短いもの。けれど気づけば、様々なことが変わり、自分は戦争という事象に深く飲みこまれてしまっている。以前の生活が、もう遠い昔の記憶のよう。


「当然、魔物や狂獣の脅威はまだ残っているし、リバースの一員となってカドラム兵を相手にすることになった今も、鍛えた体は役に立つ。扱う武器が魔想になろうと、そこは変わらなかった」


 彼ほどの人物が言うのならば、その言葉は真実だ。

 ならば自分もこの鍛錬を絶やすべきではない。とりわけ魔想の使えない今の状況では、自分にできることは少ないのだから。


 小道を抜け、外壁に沿った道を走る。

 町はまだ寝静まっている。暗い色合い、冷たい空気、人々の活気に色づく前の静謐せいひつさなぎがゆっくりと殻を破るように、これから段々と起き出すだろう。

 自分たちが帰る頃には、メアが朝餉あさげの準備をしているかもしれない。


「……ヘクターさん、聞きたいことがあるんですけど、いいですか?」

「言ってみてくれ」


 アラタはふとよぎった疑問を解消するいい機会だと思い、昨夜のメアとの出来事を話した。

 メアが魔想を使えないのだと知ったこと。そして『傷物スカー』と口にして、彼女を怒らせてしまったらしいこと。


「それはアラタが気にするようなことじゃない……が、確かにリバースの人間が身内のことを『傷物スカー』と呼ぶことはあまりないと思う」


 ヘクターが言うには、それは誇りの問題らしい。

 傷物、などという単語は、名称自体が負のイメージを持つ。なぜならそれは過去のトラウマから生じた、決して良くない腫瘍しゅようのようなものだから。それを自覚していれば仲間の傷を抉るような呼び方はできない。

 ともかく『傷物スカー』という名称は、呼ばれて気持ちの良いものではないようだ。


「とはいえ、メアの反応も少し過剰だ。彼女は彼女でまた事情が特殊だから、余計に思うところがあるのかもしれないな」


 事はデリケートな心の問題だ。安易に突っ込めば、傷つけてしまうのも当然。

 そして、そうした問題はメアに限らず、リバース全員が抱えるものだ。

 今さらながら、質問をした相手が懐の深いヘクターで良かった。


「メアさんが魔想を使えないのは、いつからなんでしょう?」


 続けて質問する。しかしこれについては告げるべきことを決めていたのか、ヘクターはきっぱりと口を開いた。


「それは自分の口から伝えるべきことじゃない。本人に聞いてくれ」

「あ、はい……」

「好奇心はけっこうだけど、君には何よりも優先すべき問題があることも忘れないでくれよ?」


 おどけるようなヘクターの言葉に、アラタは苦々しい笑みを作る。


「魔想が使えなければ、やっぱりリバースの作戦に加わることもできないんでしょうか?」

「少なくとも魔想を使う現場に出ることはないだろう。危険な戦地に出向くことも」


 そうなると、カドラムの最高指導者フェイクに相見える機会も訪れない。

 彼をこの手で殺す。その目的を果たせないのならば、自分がリバースに身を置く意味もなくなってしまう。

 何を為す力も持たないまま、自分の関与しないところで全ての決着がつく。そんな顛末だけは避けたいところだった。


 ヘクターは言う。


「我々がリバースである意義は、かつて傷をつけられながらも、反逆するに足る力を得たという前提にある。だが力を得られず、傷だけが残ったなら?」


 それはアラタの暗い不安を読み取っての言葉だったのか。

 この質問に回答は必要なかったらしく、ヘクターはひとりでに続きを語った。


「その人は暴力を振るえず、暴威に抗う術を持たない。だから大きな感情を持て余したまま、蹂躙じゅうりんされるしかないのだろうね。だから――」


 そうはならないように、と。警告じみた響きが耳に残る。


 ランニングは帰路を辿り、空に午前の光が昇り始めた頃のことだった。





『うぅ~~~~ぉはよーー! 今日はいいてんきでよかったねぇ~!』


 大音量が耳の奥に響いた。

 それはあらゆる心配事がどうでもいいと感じてしまうほどに陽気な、ユルルの声。

 思わず両耳を押さえたアラタの隣で、アズミもまた耐えるように目を閉じていた。


 時刻は正午前。広場の大時計の針が、あと数分で頂点に達する。


『あーあー。タコ足つうしん、タコ足つうしん。アラタきこえてますかー?』

「うん、聞こえてるよ」

『アズミきこえてますかー?』

「聞こえてます……」

『かんどりょうこう、お~るおっけい! 二人ともだいじょうぶだってー』


 ユルルの声が響くたび、こそりと耳の奥をくすぐるような感覚がして、反射的に肩が上がりそうになる。慣れるには時間がかかるかもしれないとは事前に言われていたが、これほどの威力とは。


 すぐ耳元で囁きかけてくるかのようなユルルは、この場にいない。

 ユルルの体は二人から離れた別の場所にあり、アラタとアズミに聞こえる声は、彼女の魔想が届けるものだった。


 水に石を投げれば波紋となるように。ユルルの扱う魔想はその波のごとく、不可視の波形となって空間を旅する。波は地面を滑り、形をなぞり、空間の隅々に至るまでのあらゆる情報を伝える。その伝播距離は中心からおよそ十キロにも及ぶという。


 波に声を乗せれば、遠距離間で意志疎通を行うこともできる。さらに多人数の声の送受信も可能という、今までの魔想の在り方からすれば前代未聞の魔想だった。

 その能力が故に、彼女はまだ幼い子供でありながら、リバースの作戦の核を担う存在となっているのだった。


『二人とも、聞こえるか?』


 ユルルの通信から男の声がする。ヘクターだ。


「ふぁ、ヘクターさん!? はいっ! よく聞こえてます!」


 またも突然の声、とはいえ二回目ならば慣れもするだろうに、アズミは取り乱したように声を上ずらせていた。


『よし。それでは本日、一二〇〇ヒトフタマルマルよりリバースの作戦を開始する。仮想の設定とはいえ、気を抜かないでほしい』


 今朝とは違ったヘクターの硬い口調に、自然と背筋が伸びる。


 仮想ミッション。朝食後、アラタとアズミに言い渡されたのは、カディアラの町を舞台にした隠密作戦の実行だった。


『内容を再度確認しておこう。君たちの目的は、カディアラで行われている裏取引の阻止だ。その町に潜伏している人物を見つけ出し、取引の内容が書かれた指示書を奪うこと……という設定だ』


 なお指示書を奪った時点で目標の人物は戦闘不能と見なす、と彼は付け足した。

 これらの設定は架空のもの。指示書を持っているのが誰であれ、死傷者が出るまで潰し合うわけにはいかない。当然の措置と言えた。


『目標には君たちと同様に、「アンカー」を持たせてある。双方の位置はユルルが把握しているので、彼女の指示に従って目標へ迅速に向かうように』

『よろしくね~』


 ユルルの声に脱力を感じながらも、アラタは自身の右手に目をやった。

 アンカーとは、いまアラタの右手親指に嵌めてある指輪のこと。星を散りばめた夜空のような色合いのリングには、識別用の目印が彫られている。


 その指輪は魔力を吸着し滞留させる性質を持つ石からできていた。ユルルの波がアンカーの位置を通過すると、その場所だけ魔力がせき止められる。そうした違和感を掴むことで、ユルルはアンカーのある地点を把握することができるのだ。


 アラタが初めてカディアラに訪れた際、リバースが彼を見つける時も、実は同じ方法が使われていたらしい。アラタの顔も知らなかった彼らは、手紙に入れたアンカーによって位置情報を掴むことができたのだ。


 余談だが、アンカーの形状はメンバーによって異なる。アラタは指輪だが、アズミの場合はネックレスだ。この辺りの選別はユルルの直感によるものらしい。


『これで自分からの概要説明は以上となる。この後のナビゲーションはユルルに一任する。何か疑問はあるか?』

「目標の人物って、誰なんですか?」

『それは秘密だよ。相手が何者か、君たちは知らない設定だ。あらゆる事態を想定して任務に当たってくれ』


 まあそうですよね、と質問したアラタは脱力する。その横でアズミが口を開いた。


「魔想は使っていいんですか?」

『もちろん。ただし人目につく場所での戦闘行為は避けてくれ。それ以外の場所でならば、君たちは持てる力の全てを使い、相手を潰すつもりで挑むといい』


 ヘクターはまるで我がことのように自信満々と言い放つ。


 それから他に質問がないのを察するや、ヘクターは『頑張ってくれ』という激励の言葉を最後に、通信を打ち切った。

 広場に残されたアラタとアズミ。遠くからはユルルが見守る。


 時計が十二時ちょうどを指し、時計塔の鐘が重く鳴り響いた。


『それじゃあ初めてのみっしょん、いってみよー』


 ユルルの声を合図とし、アラタとアズミは初となる任務に動き出すのだった。

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