第三章 持たざる者

第1話 ナギの装い

 灰色の狼。弱さを嫌った自分が変貌した、強靭な獣の姿。


 タリエ村では、獣は強大な敵へと喰らいつこうと足掻いた。

 シャルコル戦役では、敵兵の銃弾を避けながら、瞬く間に焼野を駆けた。そうして味方を陥れようとした指揮官の腕に牙を立てた。


 本の同じページを何度もめくっては見返すように、過去の一場面を繰り返し想起する。


 深閑しんかんとした湖のほとり。遠くで鳥が羽ばたいた。閉じていた瞼を開けば、射しこむオレンジ色の陽光に目が眩む。

 そして聴こえる、耳にとけこむ声。


「アラタくーん、もう日が沈んじゃうけど、いつになったら君は魔想を見せてくれるの?」


 呆れと退屈と、一息ぶんの欠伸を入り混ぜつつ、その女性は呼びかけてくる。


 アラタは自身の腕の先を眺める。見慣れた両手だ。

 魔想を使おうとしたつもりが、呆れるほど変わり映えのない自分の肉体。


「駄目だ、全然できない……」


 その健全な両手に残った本日の成果に、アラタは呆然とするしかなかった。


 秘匿性特異機能群リバースへの入職が決定して、一週間ほど経過した。


 組織に入ったからには、アラタは魔想の力をより積極的に扱えるようにならなくてはいけない。魔想を己の意志で発現し、力を操り、任務を遂行できるまでに使いこなす必要があった。

 そこで、同じく特殊な形式の魔想を扱う人物を指導員に据え、魔想の操作を教わることとなったのだが。

 これが思った以上に上手くいかない。


「私たちの魔想は心理に影響する部分が大きいらしいから、発動する時は過去の状況や心境を再現するのが効果的なのだけど……あなた、ひょっとして記憶力は悪い方?」


 離れた木陰から訓練の成り行きを見守っていた女性が歩み寄ってくる。

 短いネイビーアッシュの髪が女性的な魅力を放つ彼女。リバースの一員であり、アラタを訓練する指導員だ。

 名前はナギ・ベル。


「憶えてますよ。忘れろって言われるほうが無茶な話ですから」

「じゃあ、魔想を発動させる条件は見つかったのかな?」

「まだ、です」

「そっか、うん……気長にやっていきましょ。ともかく今日はもう遅いから引き上げて、また明日から頑張りましょうか」


 人の良さそうな垂れ目を薄く閉じ、柔らかく笑むナギ。


「分かりました」


 思わずアラタも表情が緩みかけてしまう。その表情を目の当たりにし、優しい言葉をかけられれば、大抵の男は彼女に気を許してしまうのだという。


「今日はあまり体を動かしていないけれど、代わりに頭をたくさん使っただろうから、しっかりと栄養を補給しないといけないわね。となると……さてさて今日は何件くらい回ろうかしら」


 彼女の言葉に、アラタの緩みかけた頬が固まった。


「……ナギさん。今日も、なんですか?」

「うん?」


 ナギはにこやかな表情のまま首をかしげる。息を飲むほど綺麗な笑みだ。

 しかし、アラタも彼女とは一週間の付き合いになる。この顔をしている彼女が何を考えているか、言い当てられるようになっていた。


「ですから……僕は、今日もまた酒場に連れていかれるんですか?」

「え、どうしたの? そんな当たり前のことを聞いたりなんかして。もしかして行きたいお店があるの?」

「違います。えっと、栄養の補給って言いました? 毎日潰れるまで酒を飲むのは、むしろ体に悪いと思いますが……!」

「アラタ君? 君はもう兵士じゃないのよ。堅苦しいことは考えなくていーの」


 ナギの生活ぶりは乱れていた。主にアルコールによって。

 彼女の本性。それは無類の酒好き。


 ナギとの訓練の後には、酒場に赴くのが決まりだ。別に酒を飲みたいと思ったことはないし、いくら彼女が大人の雰囲気を纏った美女とはいえ、飲んだ後の非常に厄介な絡み方を考えると遠慮したいところだったが。

 ただ、アラタには意志決定の権利がなかった。ナギに師事を乞う以上、師匠に従うのが当たり前、というのは本人の弁。特に止める者もいない。

 故に、彼女が行くと言えば、行くしかないのだ。


「それにそんなこと言って、アラタ君もお酒は好きでしょ? 昨日、君がどんな顔をして何を口走っていたか、教えてあげようか?」


 ナギの得意げな言葉に、アラタは血の気が引く思いがした。


「これだから嫌なんですよ!」


 何度か飲んでみて分かったが、自分はあまり酒を飲んではいけない人間なのかもしれない。すぐに記憶が曖昧になるし、異様に口が軽くなる。

 朝起きた時には、彼女に握られる弱みが一つ増えている。


「別に君がべろんべろんになっても私がちゃんと家まで送るから、心配しなくていいわよ」

「できればそんな状態になる前に帰して欲しいんですけど。……今日はもう本っ当に勘弁してください。こんなんじゃいつまで経っても――」

「そんなぁ……君は私のお酒が飲めないって言うの?」


 絡みの仕方はすこぶる面倒くさいのに、痛ましく目をうるませてこちらを見上げてくるナギからは、何故か目が離せない。

 本当にタチが悪い。


「私、寂しいのよ。他のみんなも全然付き合ってくれないから退屈。こんな私を相手にしてくれるのは君だけよ」


 しなやかな手がアラタの胸に置かれる。いつの間にか、つぶらな瞳が目と鼻の先にあった。

 花の香がふっと鼻に触れた。甘い、甘い、香りだ。

 けれど、騙されてはいけない。これこそが彼女の技。幾多の男を篭絡ろうらくしてきた手際であり、アラタを酒場へと引きずり込む常套じょうとう手段なのだ。


「ね、いいでしょ?」


 耳が痺れるほど甘い声色。

 ちょっと可哀そうかもしれない、などという思いが芽生えそうになるのをこらえる。


 彼女の顔が、近い。

 スッと伸びた鼻梁びりょう。長いまつ毛。目には少しの潤いがあり、黒い瞳がキラキラしている。


 じわじわと迫り来る色香に目が回るような心地がした。そのせいか、一瞬だけ目眩がしたようだ。

 霧に包まれ、彼女の輪郭がぼやける。


 アラタは強く瞼を閉めて目に刺激を与える。そうして改めて間近に見た彼女の顔は、今までの印象とは違って見えた。


「どうしたの?」


 つややかで短い黒髪。見ていると、過去の記憶が掘り起こされるような気がしてくる。

 ほんの数日前の、この町に来て最初の出来事だ。黒髪の女性に声をかけられ、泥酔するまで酒を飲まされた。あの胸が絞まって悶えてしまうような失敗の記憶。


 ……黒髪?

 いやちょっと待て。ナギの髪色は、霧のかかった海を思わせるネイビーアッシュの色だ。純粋な黒とは違う。


 アラタは彼女から身を離した。離れた位置で彼女の顔を眺めて、それがナギとは全く異なる女性の顔へと置き換わっていることにようやく気がついた。


「ちょっと、何の嫌がらせですか、ナギさん!」


 はち切れんばかりだった心臓が一気にしぼむ。


「あら? 気を利かせてみたつもりだったのだけれど。はこの顔が好みみたいだから」


 ナギは、ナギとは異なる女性の頬に手を当て、その顔で悪戯っぽく笑った。


 リバースに入った最初の日、いくつか驚かされたことがあった。その一つが、目の前の人物。

 現在見えている黒髪の女性の顔は、カディアラに来たばかりのアラタを脅迫し、同意もなく酒場へと連れ込んだ女性そのものなのだ。


 そして今、その顔の表面がぼやけて霧散していく。

 奥から現れたのは、ネイビーアッシュの髪。余裕のある微笑をたたえたナギ・ベル本人の顔だった。


 人の形をかたどった魔力による変装。彼女の魔想はそれを可能とする。


「この顔を使うと思い出すわねぇ。君を迎えに行ったときのこと。君ったらおどおどしちゃって変だったなぁ。ちょっとからかってみたら簡単について来ちゃうし、お酒も飲んじゃうし、潰れちゃうし」

「その話はやめてください……」

「あ、そうそう。あの日君はお酒の勢いに任せて、色んな感情やら何やらをぶちまけちゃったわけだけど、そのことはまだみんなに言ってないからね」

「何を言ったんですか? 僕は一体何をぶちまけたんですか……!?」

「さあー?」

「くっ……何も憶えていないのがもどかしい……!」


 本当にそんな事実があったのかすら疑わしいほどに記憶が抜けている。確かめようもないのが困ったところだ。


「大丈夫。私が誰かに話さない限りは、あの日のことは二人の間だけの秘密よ。まあそうなるかどうかは、君の誠意次第かもね」


 ナギはにこやかに言いつつ、杯を傾ける仕草をしてみせる。そうやってこの人はまた、自分を酒場へ引っ張る口実を得たというわけだ。


 このままだとまた昨夜と同じだ。酒に酔って記憶も定かでないまま眠り、頭痛と共に朝を迎える。こんな生活で魔想が扱えるようになるはずがない。

 せめてもの抵抗に、アラタは提案する。


「そうだ、僕ちょっと向こうの様子を見に行きたいんですけど」

「向こうって……ああ、ヘクター君たちのことね。どうして?」

「どんな訓練をしているのか気になって。ほら、何か魔想を使うためのヒントになるかもしれないし」

「んー、まあいいでしょう。何がきっかけになるか分からないし。酒場は逃げないからね」

「あー、はは……」


 いつの間にか酒を飲みに行くことは確定していたようだ。


 こうして訓練の終わりに向かったのは、ペアを組んだアラタやナギと同じように訓練を行っている、もう一組のペアが居る場所だった。

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