第7話 遠き海を臨んで

 王都カディアラから遠く距離を経て、野を越え、戦争のただ中にあるシャルコルを隔てたさらに先。青にきらめく海を臨んでそびえる港町がある。

 一際色鮮やかな赤レンガの屋敷を筆頭に、色とりどりに塗り分けられた建物が海を見下ろす。


 その広大な土地を満たす市民の営みと輝きも、今となっては過去のもの。戦火に巻き込まれ敵国に奪取された町は、跋扈ばっこする灰色の制服にくすむばかりだ。

 この場所がカドラムの駐留地となったのは最近のこと。


 軍事に染められた港町は、物資の運搬や、兵士を本国へ送還するための船舶が出入りしている。そのため町には負傷兵が頻繁に運び込まれていた。


 戦場で大きな損壊を負ったギアーノ・ラオス少佐。彼もまた意識不明の重体でこの町に運ばれ、寝台に身を沈めている。


 治療後に意識を取り戻した彼は、病院の個室から見える海を、他にやることもないのでただ眺めていた。

 いくら眺めようと敵国の土地に愛着など持つことはない。その価値は唯一、焼き払った後の景色にのみ生まれるものだ。彼はそう思っていた。

 だが潮騒しおさいを耳にしながら眺める港の景色は、彼の生まれ育った故郷と、そこに残した家族を思わせる。


 吹き付ける潮風が傷に染みるような気がして、開いた戸を閉めようと手を伸ばそうとした。


「…………あぁ、糞」


 左側にあった窓を左手で閉めようとして、思い出す。自分の左肘から先が小癪こしゃくな獣に噛みちぎられていたことを。ないはずの腕が痛みを発し、その鬱陶うっとうしさに顔をしかめた。


 苛立ち紛れに近くの棚でもひっくり返してやろうか。それくらいならば右腕だけでも事足りるだろう。

 そんな思いつきをもうすぐ実行しようというところへ、個室の扉をノックする音が聞こえた。


「失礼する」


 思いつきを中断させられたラオスはすこぶる虫の居所が悪くなった。

 くだらない些事さじで自身の行いを妨げられるのは嫌いなのだ。よって今から尋ねてくる客の要件によっては、八つ当たりの矛先をその客に向けるのもやぶさかではない。

 睨むように開いた空間を見つめたラオスの視界に現れたのは、しかし彼には思いもよらない人物だった。


「……み、導き手!」


 その姿を見た途端、ラオスはベッドから飛び起き、付いている方の腕で敬礼した。


 彼がこのように態度を変える相手はそれほど多くない。

 軍における階級すらも時に意に介さないこともある彼が、顔を合わせた瞬間に一も二もなく敬意を示す人物とは、すなわち自国におけるトップしかあり得ない。


 部屋に入ってきた人物は、白シャツの上に黒のトレンチコートを肩掛けした細身の男。荘厳そうごんな顔つきは石膏せっこうで固めた像のよう。その顔の中で唯一生物的に見える目は、決然と見開かれている。そして印象的な金色の長髪は、真っ当に生きたカドラム国民ならば誰しもが一度は目にしたことがあるだろう。


 カドラムの最高指導者、フェイク。一介の軍人の病室に現れたのは、そういう男だった。


「重傷を負った男と聞いていたが、なかなか威勢が有り余っているではないか」


 フェイクはまるで知己ちきの病室を訪れたかのように、自然な動作で近くから椅子を引き寄せて座る。


 ラオスは困惑していた。何故なら彼には、フェイクのような身分の者が自分を訪れる理由に心当たりがない。直接お目にかかったことすらないのだ。

 思い当たる節といえば、先の戦いでの奇襲作戦に失敗したことくらいか。

 いやしかし、あれの主目的は新兵器の威力偵察だ。試用段階の『魔想を封じる音波』がどれほど敵魔導兵に通用するのかを調べるだけのものだったはず。


「いつまでそうしているつもりだ」


 冷たい響きがラオスをなじる。

 フェイクがここへ来た理由に考えを巡らせるあまり、ラオスは右手を掲げた敬礼の仕草のまま固まっていた。慌てて敬礼を崩す。


「ハッ! 申し訳ありません!」

「この場において敬意の表明は不要だ。今の私は国の統治とは関係のない、ただの男と見なすがいい」

「は……しかし――」

「対話に地位など要らぬのだ。故に、いま貴様が私に対するあらゆる敬意を失しようと、軍部が懲罰ちょうばつを与えることはない。如何なる行いに、私は自分の体のみで応えよう」

「そんな、滅相もない……」


 ラオスはフェイクと顔を合わせたこともなかったが、彼に対する忠心は本物だと信じていた。カドラムの先導を担うのは彼を置いて他にいないと思っていた。そんな彼への敬意を欠くなどあり得ない。


「……フ、よかろう。それも貴様という人間の在り方というもの」


 直立の姿勢を解かないラオスを見て、男の重い顔貌がんぼうがわずかに持ちあがる。

 笑った、のだろうか。

 ラオスは眼前の男の顔を覆う表情は変わらないものだと思っていた。塗り固まった油絵のような顔は、どの時期に撮られた報道写真でも変化がなかったものだ。


「ギアーノ・ラオス。その腕、戦場で失ったそうだな」


 包帯に巻かれたラオスの左腕。その肘から先は、シャルコルの戦いで失われた。


「自分の油断が招いた結果です。まさか戦場に狂獣が紛れるとは思いもよらず」

「それは貴様の落ち度ではなかろう。狂獣は人にあだを為す獣。故にどちらの陣営からしても、あれは厄介な敵なのだ」

「魔力の源泉であるアルトランの大地には、狂獣、魔獣が数多く生息するとは聞いていました。しかし、まさか狼の一匹が銃弾で殺せぬほど強力とは。ここはどれほどの魔境なのやら」

「狼…………狼の狂獣か」


 フェイクはその姿の狂獣に思うところがあるのか、一瞬どこか遠くを見つめるような目をした。その胸中はラオスにはうかがい知れない。


「その獣は殺したか?」

「いえ、取り逃しました」

「そうか」


 まあいい、とフェイクは足を組む。


「腕を失った貴様はもはや戦場に用はないだろう。この穢れた大地にいつまでも身をとどめておく理由はあるまい」


 ひやり、ラオスの肌が気温の低下を感じ取る。


「だが貴様、カドラム行きの船を見送ったそうだな。あまつさえ委員会から下された退役の話を断ったと。一体どういう了見なのだ?」


 フェイクは組んだ足に肘を乗せ、手を顎にやる。その格好で自身の前に立つ者を見定めようと、片時も視線を外さずにいた。


 そんな彼を前にしたラオスは、罪人のような心境だった。

 まるで自身の行いを、端から端まで失敗がないか追求されているかのようだ。椅子に座った男から発せられるプレッシャーに冷や汗が止まらない。

 半端な返答をすれば、次の瞬間に自身の首が飛んでもおかしくはない。


 ラオスは意を決して口を開く。


「じ、自分の権限を逸脱した選択だとは思っています。しかし、自分はまだ軍人としての責務を果たしていません」

「軍人としての責務? それは何だ。それが貴様が軍に留まり続ける理由か?」


 浅薄せんぱくな発言はこの男の前では見透かされる。見抜かれた嘘は恥として残る。

 この時ラオスには、死よりも、目の前の男を失望させることの方が恐ろしかった。


「軍人としての責務は……国のために尽くすことに他なりません。片腕となった自分でも、戦場での役割は残っている。役割があるうちは、安心して余生を過ごすことなどできません」

「今帰ったとしても、誰も貴様を責めぬ」

「責められたとて構いません。これは自分が納得するかの問題です」

「何故そこまでして国に尽くそうとする?」

「信じているからです。アルトランが、滅ぼすべき存在だと」


 そうか、と導き手は――――カドラムをアルトランとの開戦に踏み込ませた張本人は呟く。


「では、ギアーノ・ラオスに問いたい。アルトランを滅ぼし、何を勝ち取る? 貴様は、何の為に戦う?」

「なんの、ため……?」


 そんな問いを投げかけられたラオスの頭に真っ先に浮かんだのは、家族の顔だった。

 妻と、今年で十五になる娘。もう随分と顔を合わせていない家族は、彼にとって今なお閉じた瞼の裏に想う宝だ。


「……愛する家族の安寧のため、この身を捧げましょう」


 返答を受けとめたフェイクは口の端を吊り上げ、明確に笑みを浮かべた。

 あるいはこの答えを聞くために、この部屋を訪れたのかと思わせるほどの表情だった。


「よかろう」


 フェイクはおもむろに立ち上がると、ラオスに背を向ける。


「貴様に意志があるのならば、その身に新たな役割と可能性を与えよう。私が貴様の命を使ってやる。何時いかなる時でも死ねる覚悟をしておくことだ」

「は……ハッ!」


 部屋を出ていくフェイクを、ラオスは敬礼で見送った。


 そして部屋に一人、故郷に似たさざ波の音を背にして、彼は口の片端を吊り上げる。

 どうやら片腕を失った自分にも、まだ使い道があるようだ。

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