第2話 魔女(1)

 女はつややかな黒髪をさっと手で広げると、棚に置いた三角帽子を被り、ベッドから腰を上げた。


「人を見るなり絶叫とは、ご挨拶だねぇ。今までにそういう経験がなかったわけでもないだろ? それともまさかまさか、ピュアボーイくんなのかな?」


 彼女はこちらを振り返り、ニヤニヤとからかうように笑む。


 ベッドから落下して尻餅をついているアラタは、もろもろの動揺を抑えつつ、冷静に問いかける。


「だ、だだだだ誰なんですか、あ、あなたは!?」


 無理だった。

 見るからに動揺していたし、冷静さなど残っていなかった。


 口の絡まるアラタを、まるで面白いおもちゃを見つけたように女は眺める。


「教えてあげてもいいけど、その前にベッドに戻ったらどうだい? 硬い床に寝そべったまま人と話す趣味はないでしょ」

「そんなこと言われても……僕はいま体が動かないんです。歩くことなんてできやしないし、手を持ち上げるくらいが精一杯で――」

「ん? 動くよね?」

「え?」


 何を言ってるんだ、とアラタは訝しむ。きっと事情を知らないから、そう簡単にものを言えるのだ。一日中横になって天井を眺めるしかできなかったこの体が、三十分かそこら眠っただけで回復するものか。

 疑いながらも上体を起こそうとする。


 すると、動かせた。


「あれ、どうして……」


 さすがに体に痺れは残り、思い通りに動かせるということはなかったが、物を掴むことはできるし、体を支えながらであれば立ち上がることもできそうだ。


 そうしてベッドの縁にしがみつきながら、自力でベッドに戻る。多少の時間はかかった。その間、ニヤニヤ顔の女は「がんばれ、がんばれ~」などと掛け声を送ってきていた。


「動けた……」

「そのようだねぇ」

「どうして、なんですか?」

「おっと、がっつかない。順を追って説明するからね」


 女は傍の椅子に腰かける。足を組む動作がいちいち挑発めいている。

 こうしてみると、女の肌には張りがあり、年若く見える。さすがにアラタよりは年上だろうが。顔立ちも整い、美女と呼んでもつかえないように思える。


「まずは自己紹介を。私の名前はクロノ・リンド。こう見えて軍人さ」

「クロノ・リンド……?」


 その名前にはどうも聞き覚えがあるようだった。なおかつ軍人で、魔女のような格好、と符合ふごうする記憶を探り、やがてある人物を思い浮かべる。


「――――まさか、リンド魔導総長、でしょうか?」

「せいかい~。案外知られてるもんだねぇ。紹介の手間が省けて助かるよ」


 軽い態度の本人とは反対に、アラタの背筋には今までとは別種の緊張が走った。


 魔女リンド。偉大な魔想使いであると同時に、軍部いちの変わり者であると、まことしやかに囁かれている。その噂は兵の間のみに留まらず、一般民衆まで彼女の存在は知られている。

 魔想研究の第一人者であり、アルトラン随一の使い手。王に近き者。最後の魔女。王都で五指に入る美女。何年経っても顔が変わらない。彼女を指す言葉はいくつかあるが、中でも最も彼女を有名たらしめている肩書かたがきがある。


 クロノ・リンドは音に聞こえし英雄。アルトラン軍のうち数人ばかりが持つ〈銀竜〉の称号を抱え、戦場にて単独で向こう数百人を相手にする『単騎兵ニア・セイヴァー』なのだ。


「し、失礼しました! 偉大な英雄とは知らずに無礼な態度を……!」


 途端にかしこまるアラタ。よくよく見れば、彼女の右手中指には、〈銀竜〉の称号を示す竜が彫られた指輪があった。

 その右手の指輪を見せるように振りつつリンドは言う。


「いやいや、私は英雄じゃないよ。もしこれを見て言ったのだとしたら、それは私を言い表す言葉として的確じゃない。単騎兵ニア・セイヴァーはただの役職で、〈銀竜〉は役職を明確にする目印というだけ。兵器である証と言ってもいい」

「そういうもの、でありますか……?」

「畏まった口調はやめないか、若者。キミが相手にしているのは、戦場にいない限りはただの女。さっきみたいにもっと甘えてくれてもいいんだよ~、アラタ君?」

「そ、そんなことっ!?」


 自分の隣に横たわっていたリンドを思い出し、またも心臓の脈動がぶり返す。

 いったい自分が寝ている間に何をされた? 自分は何をしたんだ?

 というかどうして自分の名前を知っているのか!?


「そう怯えたハムスターみたいな顔をするんじゃないよ。まずは一つずつ、疑問を解いていこうじゃないか」


 そう言うと、リンドは一度落ち着けた腰を持ち上げて、再びアラタがいるベッドの空いたスペースに腰掛けた。

 揺れた濡れ羽色の髪から甘い芳香が漂ってくる。


「まあでもその前に。まずはこちらから質問させてほしい」


 自分の胸に手が伸ばされる。死角から滑り込んでくるかのような手つきに、自分は反応して動くことができなかった。そのまま心臓を鷲掴みにされてしまいそうだ。

 耳元で魔女が囁く。


「ここシャルコルで、キミが狂獣に成ったというのは、本当なのかな?」


 その瞬間、心臓が凍てついたかのような寒気。


「キミのお友達に聞いたよ。本当かな? 狂獣に成って、それから戻れるっていうのは?」


 あまりに率直な物言いに思考が止まる。


 アラタに起こった異変を見たのは、今のところウェンだけだ。狂獣の姿はもっと多くの者に見られたが、それをアラタだと認識できた人物はウェンデル・ハインドただ一人のはず。とすると、話したのは彼だろう。


 狂獣化に関して、不用意に話してしまうことは避けるべきだと考えていた。そうした事実が、今後どのような問題を引き起こすか、想像もつかないからだ。


 だが既に自分の胸には、究明を迫る手が、ナイフの切っ先のように突きつけられてしまっている。

 返答しなければ。


「僕は……狂獣に成りました。でもまだ、よくわかりません」

「ふうん。へえ」


 魔女は目をすがめ、アラタの顔に浮かぶ表情一つひとつを検分するように、至近から観察する。


「キミは、変成の病、という現象を知っているかな?」


 変成の病、とわざわざ区切って強調される。知っているも何もない。変成の病は、かつて自分の故郷に蔓延まんえんし、その全てを破壊した。


「……はい」

「ほう、それは珍しい。あの現象は未だ症例が少ないながらも着実にアルトラン民を侵し、狂獣へと変成させている。まさに奇病だが、その対策は依然として不明のままだ。しかしここに変成の病を克服しうるサンプルケースがあるとすれば、多くの人を救えると思わないかい?」


 自分のことだ。狂獣と成りながらも再び人間の姿へ戻っている自分は、医学的には確かに稀有けうなサンプルケースなのだろう。


「僕の身に起きたのは、変成の病なんですか?」

「それを知るには、キミの体を調べなくてはいけないね。どうだろう。万象に通ずる魔女の質問に、少しばかり協力してくれないかな?」


 こくり、とアラタは頷いた。

 どうやら彼女の目的はその部分にあるらしい。となれば断りようもない。


「良かった。じゃあ取急いでキミに確認したいことがあるんだ」


 リンドは立ち上がる。質問を待つアラタに対し、勿体ぶるように少しだけ歩いた。そうしてじれったい間を置いてから、正面に向き直って言う。


「ズバリ…………キミが狂獣の姿になった時、服を着ていたかい? それとも全裸だった?」

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