第7話 転化
戦場に謎の狂獣が現れてから、ものの数分のことだった。
「敵が撤退した……?」
この状況下でただ一人魔想を扱うことができたアズミは、味方を守っていた水の盾を解除し、辺りを見回す。敵影が一つも残っていないことを確認した。
終わったのだ。そこに実感はなく、何もかもが唐突だった。
周囲からは歓声の一つも上がらない。
これは勝利ではないと、誰もが理解している。
大きすぎた被害。このたった数十分間で、犠牲になった魔導兵が何人いたことか。
危うくアズミも死にかけた。こうして息をしているのは、偶然にも狂獣が乱入したおかげだ。
「あの狂獣、何だったの?」
運が良かった、とでも言うべきか。狂獣がカドラム兵に向かい、自分を襲わなかったことは、ただの偶然で済まされるものなのか?
「アレの行動原理なんて、考えても仕方ないか……それよりもヤバイのは、カドラムの兵器の方よ」
徐々に遠ざかっていく、不快な金属音。
悪夢のような光景だった。あの金属音が鳴り響いてから、こちらの魔導兵はまったく機能せず、たちどころに数を減らされていった。それまでの優勢が嘘のように。
魔想を封じる兵器の存在は事前情報にはなかった。今までの戦役では使われていなかったはずだ。しかし、この戦役で絶大な威力を発揮した兵器が、もし本格的に使われるようになれば――――
「あの兵器が本格的に投入されれば、こっちは圧倒的に不利な状況で戦わざるを得なくなる。魔想を使えないアルトラン軍に、未来はないな」
その声に、アズミは振り返る。
自分が考えたことと同じ
「だが、まだ絶望ばかりでもないようだよ。あの状況下でも魔想を使える例外が存在した。その事実こそが、形成を覆す武器となる」
身にまとうのはアルトラン軍の制服。だが他の兵士とは趣が異なるのは、肩に羽織った黒地のマントと顔に影をつくるフード。
その装束が何を意味するのか、知っている者はこの場にいなかった。
「緊急事態と聞いて参上した……が、残念ながら駆けつけるのが遅かったようだ。本当に申し訳ない。先ほどの水の魔想は、君が?」
会話の矛先が自分に向かったことで緊張するアズミ。慎重に、ゆっくりと頷いた。
「誰、なんですか?」
「自分?」
男は自分の顔を指さして言う。そしてフードをとった。
塹壕の上で腕を組む、どこか誇らしげな佇まい。しかしその姿には一切の高慢を感じさせず、頼もしいまでに自信の溢れる目つきで、疲弊した兵を見下ろす。
「自分は、そうだな……。君と同じ魔想使い……その例外だ」
限界だ。
銃撃から逃れるために、灰の狼は平野を駆けた。
――離れないと。離れないと。
漠然とした焦燥感から、カドラム兵からもアルトラン兵からも離れ、誰もいない場所で足を折る。
――もっと、もっと、離れないと。
銃弾がめり込んだ頭は出血多量。まともな思考は一握り。
その思考が告げる。自分の意識が残っているうちに、味方から離れなければ。
喉が唸り声をあげている。自分の知らない声が内側から叫ぶ。
「血ィ……血ヲ、よコ、セ…………」
渇いていた。途方もなく渇いた舌の根が、人の血を欲していた。
飲んでも渇きは癒されない。食っても腹は満たされない。
ただ殺して、血を肉体に浴びることのみが、この空虚を埋めてくれるはず。
そればかり。今の自分には、そればかりだ。
「チ……ガう。ちがう、違う」
いや違う。そんな自分は知らない。ちゃんと思い出せ。血なんて見たくもなかったはずだ。
ああでも、この
頭が回らないから頭を回した。ぐりぐりと。頭を回せば視界も回って、赤くておかしな世界がもっとおかしくなった。
誰かの笑い声が聞こえる。誰が楽しい? でもここには一人だけ。だったらそれはもう、オカシクなった自分の声だ。そんなあたりまえのこと、どうして気づかなかったんだろう。
そうだ、みんなのところへもどろう。あそこにはちがたくさんある。にくのふくろをひとつのこらず、ちぎってさいてやぶってぶちまいて。おもうぞんぶんころして、ころして、ころして――――――――
そうして、そこへ、ダレカガヤッテキタ。
「アラタ」
いつの間に近づいてきていたのだろうか。時間の感覚もいまは曖昧。
ちょうどいい。そいつを最初の獲物にしよう。
唸り声をあげながら、赤く濁った視界に人影を捉える。
殺そう。
獣としての在り方に従って、獲物の方へと歩み寄る。
暗闇の光景が脳裏にちらついていた。その中で巨大な白蛇に縛られ締めつけられる
愚かなやつだ。ただ本能に従えば、そんな苦しみすら捨てられるというのに。
だが、目の前に立つ何者かは、語り掛けた。
「君はアラタだろ? 見てたよ」
それが名前を呼ぶ声だと、獣は気づいた。
何かを思い出そうと歩みを止める。ひどい頭痛が、快楽に溺れようとする自分を引き留めていた。
今、自分の形に、存在意義に、疑問を覚えている。
――自分は何だ。本当の自分は、どこに?
膨れ上がる疑問は段々と獣を圧迫した。自分は何をすべきなのか。迷い、進むべき方向も分からなくなった魂は、やがて身動きすら取れなくなって。
自我は惑って揺れる。意志の所在を探し求める。
分からない。本当の自分はどこに。
けれど、こんな時にどうすればいいか、自分は知っている。
――瞑想。
獣は空を見上げた。立ちのぼる硝煙と、濁った雲に塗りつぶされた空模様。
そんな空を見て思い出すのは、白い雪。
少女と出会った時の雪空。世界のどこまでも染めるような純白。
それは色を塗る前の白紙のような。あるいは物語が始まる前の、何も書かれていないページのような。
軋み、歪む前の、無垢な時代に立ち戻るかのように、
優しい雪以外、何も見ないように。何も考えないように。
時の流れるまま。自分以外の全てが移ろうとも。
空っぽになって。
やがて吹く風だけを待った。
『アラタ』
時間も場所も忘却した孤独な旅の果てに、少女の声が聞こえた気がした。
やっと、正しい自分が目を覚ます。
「大丈夫かい?」
目覚めたそこは戦場。
狂獣になってもう何日も過ぎたような気がしていたのに、その荒れ果てた地面の様子も、濁った空色も、あまり変わり映えしていない。
目の前には、自分を眺め見るウェンの姿がある。
「ひどい顔をしている。今にも吐きそうな顔色だ」
「……うん。ずっと悪い夢を見ていたような気分だよ」
「オレも今のは悪い夢だと思いたいね…………カドラム軍は撤退したようだ。オレたちも戻ろう」
変わらぬ調子でウェンが言う。狂獣と成ったアラタの姿を見たはずなのに、問いただすこともせず、彼は座り込んだアラタに肩を貸した。
助けを借りて立ち上がる。その際に何か高い音がして、足元を見た。
音を立てて落ちたのは、銃弾だ。紅に濡れた鉛が、鈍い光を放っている。
「ウェン」
その銃弾が頭から出てきたように見えたのは、気のせいではないかもしれない。はっきりとしたことは分からないが、ただ、それを見て思い出した事実があって、口を開いた。
「レオナールが死んだ」
ウェンはただ前を見ながら、「そうか」とだけ言った。
そして二人は歩いた。何かが焦げ付く匂いの中、とりとめのない会話と沈黙を繰り返しながら。
時折吹く風が、やけに肌身に染みた。
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