第一章 そして幕は上がる
第1話 戦争
血。
赤い血。黒い血。流れ出る血。乾いて固まった血。
肉。
赤い肉。焼けた肉。ぐちゃぐちゃの肉。動かない肉。
そこは見渡す限り、死の景色だった。
鼻をすすると生臭い死臭と共に泥水が流れ込んできてひどく不味い。苦い味に軽く咳き込みながらも、鼻と口を軍服の袖で覆って歩き続けた。
つい数時間前まで、ここには争いがあった。異なる制服を着た国同士の争いだ。
小さな町の手前で繰り広げられた攻防戦に決着はついていない。今はほんの一時休止に過ぎない。また明日にでも、同じような戦いが繰り広げられることだろう。
そのネイビーブルーの軍服を着た兵士は多くの死体の隙間に足を着けながら、死体に紛れた生きた兵を探した。
彼は衛生兵だった。倒れた人間の味方の中で、まだ息のある者がいれば、救出しなければならない。
衛生兵が灰色の軍服の死体を通り過ぎようとした時だった。
仰向けの死体が突如として目を開き、拳銃を取って起き上がった。
音を聴いた衛生兵は振り返るが、その時には銃口が衛生兵の胸部へ向いている。
「くたばれアルトランのウジ虫が!」
怒声を吐き散らしながら、灰色の兵士は引き金を引く。
その瞬間の時間の流れは、衛生兵にはひどくゆったりとしたものに感じられた。発砲音が鳴り、薬莢の排出と同時に小さな弾丸が射出されて、回転しながら空を抉る。
命が脅かされるその刹那。
衛生兵は弾を見ていた。そして動いていた。
発砲音を聴いたと同時、いやそれより前からだろう。
でなければ、たった二メートル先から放たれた弾丸を、身を捻って
弾丸は空を切って彼方へ消えた。
その咄嗟の行動に驚いていたのは、何より衛生兵自身だった。
二発目の弾丸が放たれることはなかった。
どこからか飛来した炎の球が灰色の兵士に直撃する。
兵士は身を掻きむしるように苦しみながら、やがて動かない肉となった。
「一人で歩き回るのは危ない」
炎が飛んできた方向へ振り返る。そこには自分と同じ色の制服を着た二人がいる。
「次からは子守りも一緒に連れてくるべきだ、アラタ二等兵」
「ウェン……」
金髪の青年に名前を呼ばれ、衛生兵は安心して息を漏らす。先ほど身に迫った死を思い出して、今さら手が震えだしていた。
衛生兵の様子を見た茶髪の方の青年は口元に笑みを浮かべて言う。
「おいおい、まさか漏らしちゃいないだろうな? さすがにおしめの面倒は見られねえぜ」
「……助かったよ、レオナール。君がいなかったらやられてた」
先ほど灰色の兵士を燃やした炎の球は、このレオナールという茶髪の青年が放ったものだ。
「自分の運に感謝しろよ。お前はまったく、そんなボケっとしていていつでも撃ち殺されそうなくせに、まだ生きているのが不思議だ」
「そんなに危なっかしく見える?」
「ああ、心配で探しに来ちまうくらいには。……今のは本気で死んだかと思ったぜ。あの距離でやつらの銃を喰らわなかったのは、神の御加護としか言いようがないな」
「神の御加護、ね」
そんな曖昧なものに生かされているとすれば、なんと自分の命は軽く儚いものか。
今こうしてアルトランの兵士となり、侵略してくる異国との戦いの場に立っている身としては、頼りないことこの上ない。
軍に志願し、訓練兵として約一年間血を吐くような訓練に身を投じた。それを経ても未だ自分は弱いまま。
けれど、先ほどの一瞬だけは違った。
弾を避けたことはただの幸運ではない。
自分は敵兵士の銃弾を、必ず避け得ると判断して回避したのだ。
そんな自分の存在は、自分ですら知らないというのに。
「それで、もう気は済んだか? それともまだ、生者を探して死体の中を散歩するのかい? 次に見つけたやつは銃を持っていないといいけど」
ウェンと呼ばれた金髪の青年が衛生兵の愚行を皮肉るように言った。
「戻るよ」
さすがに仲間の命まで危険に晒すわけにはいかず、衛生兵は従う。
まだ敵が撤退して間もない。逃げ遅れた敵兵が、どこかに潜んでいる可能性もある。
三人は戦場を後にし、味方のベースキャンプへと戻るのだった。
アルトランを囲っていた〈
その現象を多くの国民が目にすることになり、国中に動揺が広まった。
壁がなくなって大丈夫なのか。魔王の軍勢が進軍してくるという伝説は本当か。壁の外には、一体何があるのか。そんな憶測が飛び交っていた時だった。
アルトラン北部に見慣れぬ軍隊が現れ、町村を襲撃したのだ。
謎の勢力による攻撃に、国軍は部隊を派遣して対応しようとした。しかし未知の武器を扱う彼らに、上級部隊は為す術もなく壊滅。
さらなる動揺がアルトランを覆った。
唯一、敵軍と相対した兵士の一人が生き残ったまま帰還した。口も利けないほど憔悴した兵士は、敵から渡されたと思しき書状を持っていた。
書状によると、敵の名は『カドラム』。
その名前は古い記録書に記されている、〈揺籃〉が発生する以前にアルトランと敵対していた国の名称と同じもの。魔王の軍勢とも称されたカドラムとのかつての戦いは、『白の戦争』と呼ばれた。
さらに書状には、進軍の理由が以下のように記されていた。
『貴国、アルトランは、その領域内において我が国の宮廷巫女を殺害した。これは明確な敵対行為である。我が国は貴国の攻撃意思を、如何なる事情にあっても容認しない。よって会談の余地はないと判断し、貴国への進軍を開始する』
その内容は紛れもない最後通牒。
書状がアルトラン王の手に渡ったのとほぼ同時に、カドラムは本格的な侵略行為を開始した。アルトラン軍もまた派兵して応戦した。
こうしてアルトランの地に、戦争という混沌が降り注いだのだった。
シャルコルの町に設置された兵舎でアルトラン兵は束の間の休息に入っている。
衛生兵として従軍していたアラタもまた、戦場から引き上げた仲間と固まって雑魚寝し、時を過ごしていた。
「正直、前衛は生きた心地がしないね」
隣に寝転がる金髪の青年、ウェンデル・ハインドが、いつもの余裕ある笑みを消して呟いた。
「あいつらの発砲音が聞こえるたびに自分の命が削れていくようだ。あの恐ろしい武器の前じゃ、オレたちなんて消耗品に過ぎないんだって思い知らされたよ」
弱音を吐くウェンデルにアラタが返す。
「馬鹿言うな。そんな簡単に消耗されてたまるか。僕はこんなところで死ぬ予定なんかない」
「よく言う。ついさっき死にそうになっておいて」
「でも死んでない。これは朗報だぞ。あいつら案外へたくそだ」
「ぶるぶる震えていたくせに。アラタ、本当に漏らしちゃいないだろうね?」
口の減らない訓練所時代からの友人に、アラタは鼻を鳴らしてそっぽを向く。彼と言い争うと体力を著しく消費してしまう。適当に終わらせるのが吉だ。
ウェンデルのさらに隣では、茶髪で強気な目をしたレオナールが手持ちの聖書を読んでいた。
彼もまた訓練所時代に苦楽を共にした友人だった。その時から彼は、一日の終わりには己をなだめるかのように聖書を愛読していたものだ。
レオナールは何度も読んだ文字列に視線を浮かべながら口を開く。
「二人ともまだまだ元気だな。その調子なら明日も大丈夫そうだ」
「明日急にカドラムの連中の気が変わって帰っていかないかな」
またも弱音ばかりのウェンデル。余程参っていると見えた。
「聞いてたか? ウェンは初めての戦場で心が病みかけてる。慰めてやってよ、レオナール」
アラタが提案すると、レオナールは聖書を閉じて傍らに置く。
「なあウェン。あんまり心配することはねえ。お前たち近接兵は、目の前の敵を一秒でも早く殺すことだけ考えてりゃいいんだ。お前たちが怪我しないよう守るのは、俺たち『
レオナールは手のひらを上に向ける。その何もない中心から、突如として小さな火が灯った。指先ほどの火球は膨れ上がり、あっという間に手のひらを覆うほどの大きさに変わった。
「危ない橋を渡る時は、『
手のひらの上で、球形の炎が薄闇の中で煌々と光る。
魔想。アルトランに伝わる超常の力。
アルトランの人間には、体内や空気中に存在する『
彼らはその魔力を感じ、練り上げ、現象へと変換する。そうした工程を経て生じたものが、魔想と呼ばれている。
「……分かった分かった。心遣いどうも。その魔力は明日に温存しておいてくれ。あと、毛布に火が移ったら大変だ」
「これくらいの消費魔力なんて鼻くそみたいなもんだ。それに残念ながら、魔想の火じゃ焚火は起こせない。知ってるだろ?」
「レオナールの腕が悪いだけじゃ?」
「阿保。俺の火は威力にこだわってんだよ。明日の戦いで確認でもさせてやろうか?」
レオナールが悪ふざけで手のひらの火球をウェンデルに近づける。ウェンデルは「なんだ、やるか?」と受けて立つ構え。
「ねえ、いつまでしゃべってるつもり? そのしょぼい火の球、さっさと消してよ。明るくて寝れないんだけど」
高い声。ふざけていた二人が、声が聴こえたアラタの方を見る。正確にはその後ろ。
アラタは自分に向けられた視線を誘導するように、背後にある寝台を指さした。
大部屋に置かれた数少ない寝台の一つを占領していたのは、アズミという名の、これもまたアラタ達の同期の女性兵士だった。
「ベッドで広々寝られて羨ましいぜ、アズミ。夜更かしは美容の天敵か?」
レオナールが身を乗り出し、彼女を茶化すように言う。
それに対しアズミは寝台の上から面倒くさそうに見下ろした。
「しっかりと休息をとることは兵士の義務よ。フラフラな状態で戦場に出てみなさい。助けてあげないんだから」
見切りをつけるようにアズミは向こう側へ寝返りをうつ。
だがアズミの言う通り。休める時には休んでおくべきだ。
「そろそろ寝よう」
アラタが提案をすると、他の二人も素直に自分の寝床へ潜っていった。
明日以降の戦いを思えば、いらぬ推測ばかりが頭を占める。
適度にふざけ合うことでもしなければ、何かに押しつぶされそうな予感があった。
眠りにつく前に、思い出したように胸元を探る。
首にかけた雪空の宝石をしばらく見つめ、それから目を閉じた。
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