第8話 日々の残響

 形の違う自分。変わってしまった自己。

 何者であるか分からなくなった自分は、狂い、何かを求めて叫んでいた。


『お前は誰だ?』


 しかし、そんな自分を導く声があった。


 声に従い、意識を閉じて自身の内側を空にする。渦を巻く獣の声が静寂に沈み、長い時間が流れた。


 目を覚ました時、視界に入ったのは薄明るい空。夜明けの空だ。

 アラタは毛布に包まり、焚火に当たっている。


「気が付いたか」


 焚火の向かい側から声がかけられる。座っているのは、見知った兵士だった。


「……カムルさん?」


 アラタはぼやけた記憶の中からその名前を引っ張り出す。かつて自我を失いかけていた自分を助けた、恩人の名だった。


「久しいな、アラタ・マクギリ」

「どうしてここに…………いや、それよりも、僕はどうなって――」

「心配するな。今のお前は正常だ」


 黒髪を短く刈り込んだ兵士は、その朴訥ぼくとつな印象に違わず短い言葉で返す。


「正常、ですか」


 それは少し前までのアラタが正常ではなかったことを示している。


 一瞬、悪い夢を見たのだと思った。それほどに受け入れがたい出来事が、長い眠りに沈んでいたような記憶の中に残っている。

 しかし、それらは紛れもない事実なのだと、唯一身に付けていた雪結晶のペンダントが示していた。


「お前が気を失い、村を離れてから丸一日が過ぎた。ここはタリエ村からは遠く離れた森の境だ。夜が明けたら町を目指す。それまで休んでおけ」

「他のみんなは……?」

「いない。俺とお前だけだ」

「そう、ですか。やっぱり、みんな狂獣に……」


 落胆の前に諦観があった。予想した通り、村に生存者はいない。

 父親の最期。母親の服を着た狂獣。全てはこの目で見たままだ。現実味がなく、どう受け取ればいいのかも分からない。悲しむことも、今は上手くできない。


 理解できるのは、タリエ村は変成の病によって滅んだという事実だ。


「みんな、狂獣に成ってしまったんだ。そうして村人同士で、殺し合って……」


 急に狂獣が現れたことの説明が、それでつく。思い返せば、狂獣の中には無理に引き伸ばした衣服を身に付けているものも居た。地面にも衣服が散らばっていた。

 父親も村人の狂獣化に気づいていた。だから途中で、戦うことをやめたのだ。


 そして自分の毛布の下の衣服もまた、引き裂いたように破れている。


「自分が狂獣に成ったことは憶えているのか?」


 カムルが問いに、アラタは自身の記憶を手繰った。

 最悪の核心に触れてしまわないように。


「――――憶えて、います。見たことも、考えたことも。とても同じ自分とは思えないけど」


 境界は曖昧だが、狂獣として行動した記憶は、確かに己の内に存在していた。


「僕の体は灰色の狼に成りました。でも、今は戻っている……どうして? 狂獣に成ったら、二度と戻れないはずなのに……」

「お前は幸運だった。恐らくな」


 カムルにもその理由は分からないようだ。そもそも、変成の病が引き起こされるメカニズムすら判明してはいないのだ。状況を受け入れるしかない。


「でも、あんなに一度に変成の病が起きるなんて。……カムルさんはこうなることを知っていたんですか? だからあの時、あの場所に居たんですか?」

「落ち着け」


 村の中には何人か兵士が居た。その中にカムルは同行していないようだった。


「北の空を見てみろ」


 北? アラタはその方向を探す。アルトランの北端に住んでいた彼にとっては、北とは〈揺籃ようらん〉がそびえる方向を示している。

 蒼色半透明の〈揺籃〉は雲をも突き抜ける高さの壁だ。円形に領域を形成する壁は、アルトラン内のどこに居ようと、いずれかの方角には確認できるはずだった。


 しかし、見当たらない。四方を見回そうと、そこにあるべき存在がない。


「そんな。〈揺籃〉が、消えている!?」


 〈揺籃〉が見えない。アルトランを外の脅威から守る壁が、消えている。


「本来はこの場所からも、北の空には〈揺籃〉が見えていたはずだ」


 カムルの深刻な視線が果ての空へと向かう。そちらが北なのだろう。


「数日前から壁には揺らぎが生じていた。俺は王命により、単独で調査に向かった。あの村の異変に気付いたのはその道中だ。駆けつけた時には、既に狂獣が蔓延していたんだ」


 それなら、カムルがあの場に居合わせたのは幸運だったのだろう。そんな偶然のおかげでアラタはこうして生きている。二度、同じ男に救われた。

 何故自分だけが、と思わずにはいられないけれど。


 運よく拾った命。だが体の奥底は、まだ痺れているような気がした。

 翼の如き雷を纏った男の姿が、痺れと共に残っている。


「あいつ……!」


 キノウを連れ去った酷薄な男。髪の色と同じ金色の雷を操っていた。

 村に起こった異変と同時に、彼は現れた。


「あの男……フェイク、と名乗っていたか。自分を『軍事国家カドラムの最高指導者』と言っていたな。彼は壁の外の人間か」


 軍事国家? カドラム? そんな言葉は聞いたことがない。

 いや、今はそんなことはどうでもいい。


 認識すべきは、村で起こった変成の病が、如何なる原因によって引き起こされたのかということ。変成の病などという奇病が、あんなにも爆発的に発症するものか。

 あの状況を作り出した元凶が存在するはずだ。


「事態は思った以上に深刻だ。アルトラン領全体を脅かす侵略行為が、既に始まっているのかもしれない」


 冷静な状況把握に努めるカムルの言葉が耳を通り抜けていく。アラタの頭では、どうしようもなく怨嗟が煮え滾り始めていた。


「あいつのせいです」

「何だと?」

「変成の病は、あの男が引き起こしたものだ。あいつのせいで、僕の村は……!」

「……それは確かな事実なのか?」


 アラタには答えられない。


 だが状況は出来過ぎているほどに一致していた。壁の消失。村で起こった変成の病。謎の男の襲来。そして男が、キノウを持ち去っていったこと。

 それらは一つの意思に基づいて引き起こされたとしか思えなかった。


「そうだ、あいつはキノウの名前を口にした。キノウのことを知っていて、狙ってきたんだ。壁を消して、村のことも滅ぼして……」

「落ち着けと言っている」

「どうして! 村は結婚式だった。みんながこれからの幸せを祈る日だったんです! ソラノさんは旦那さんと結ばれて、遠く離れた場所で暮らしていくはずだった! ジュドだって、兵士になりたいって夢を語ってくれた! キノウだって――!」


 ポン、とアラタの肩に手が置かれる。愚行を押さえつける力強い手だ。


「怒りは頭を鈍らせる」


 それで激情に暴れる鼓動は消沈した。同時に、果てしない無力を感じた。


 首から垂れるペンダントを見下ろす。いつも彼女の胸元を飾っていたそれが、思い出したくもない最悪の事実を、否が応にも直視させる。


「キノウ…………キノウ……」


 キノウは死んだ。

 彼女には二度と会うことができず、関係を刻んでいくこともない。

 彼女とのこれからは来ない。

 一緒に居ることは、できなかった。


 悔やむように冷たい宝石を握り、涙を流す。いつの間にかカムルは傍から消えていた。そうして一人で、彼女の死を感じ続けた。

 じわりと痛む首筋には、既に固まった二筋の血の痕。キノウが口づけをした箇所だった。


 夜は白む。日はまだ見えない。


 これからの自分がどう生きていくべきか、今は分からない。

 涙を流しきってしまえば自分の内はきっと空虚だ。キノウを失った自分には驚くほど何も残っていない。

 だから涙は絶やさない。この空白はとっておく。別の何かで埋めることはしないだろう。


 痛みが和らいだら、その時は――――、


 敗れた獣が去りゆく者の背中を追うように、灰色の視線は北の空を見上げた。




 古ぼけた劇場が人知れず幕を開ける。

 あるいは、長く続いた夢がようやく醒める。


 アルトランを囲っていた〈揺籃〉と呼ばれる壁は、跡形もなく消失した。


 安寧の日々を過去に隔絶し、その後に訪れるのは、烈火の如き戦いの時代。

 そして厄災のように降りかかる変革が、人の運命を捻じ曲げていく。

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